2022年6月14日火曜日

今日の昼食の味わいを決めたのは。

遠く高くを目指して行われる営みは説得力や求心力を持つのだと
手間暇かけて作られた天ぷらそばを食べながら思いました。

地味でしたが、とても清潔で落ち着いた雰囲気のお店でした。
新聞や雑誌が置いてあって、写真が飾ってあって
片付け前の食器がカウンターに仮置きされていて
という、どこにでもあるような光景が、なぜかとても落ち着いて見えました。

店主は、最小限のことしか話さないような接客でした。
メニューの選択肢はとても少なく、そっけない表記でした。

さほどお客さんがいるわけではありませんでしたが
僕の注文した蕎麦が出てくるまで、ずいぶんと待ちました。
お腹が空いていたはずなのに、待っている時間がちっとも苦痛ではありませんでした。
カウンターの向こうで蕎麦を作っている様子がチラチラ目に入るのですが
店主の調理する姿が、心が鎮まった熟練の職人のように見えました。
その姿を目にして待っていると、心が整ってくるように思えました。

ついに運ばれてきた蕎麦は、見た目も、味も、抜群でした。
手間暇かけて作られた蕎麦を、手間暇かけて(僕はもともと、非常に早食いです)
じっくり味わいながらいただきました。

この蕎麦を作る店主の目指しているところ、心がけているところが
チェーン展開している店では、そう易々と真似できない高みにあることが
すぐにわかりました。

どんな仕事でも、遠く高くを目指して営むこと
それこそが一番大事なんだと、感じさせてくれたお昼のひと時でした。



2022年6月13日月曜日

少数派に見えて実は。

 まわりを見渡すと、自分の意見が少数派であることになんとなく気づき

意見を表明しずらいような気持ちになることがあります。

あえて少数派であることを露見させて好奇の(または嫌悪の)目を集めるよりは

黙って状況の推移を見守ろうという判断になりがちです。


これは何も、僕に限ったことではなく、

多くの人に見られがちな心の動きではないでしょうか。

つまり、状況を見て、自分の意見を表明することを踏みとどまっている人は

実は結構、多いのではないか、ということです。


直接の話しあいにおける合意の方向性にせよ、

社会の雰囲気(いわゆる世論といわれるもの)にせよ

意志を表明した人たちの声が基調になって形作られていきます。

それは、当然、そうなるしかないのですが、その背後で表明されていない

いわゆるサイレントマジョリティな意見が、かなりありえるとしたら

そのような合意形成のあり方は、

そこに集う人の実態を反映していないということになります。


会議では、声の大きい人の意見が通りやすい、とよく言われますが

それは、いったん声を大にしてはっきりとした意見が投げ込まれると

それに追従する意見は言いやすくなり、それに反する意見は言いにくくなる

という心の動きによるのでしょう。

であれば、早い段階で、大きな声ではっきり意見を言うと通りやすくなる

と言えるかもしれません。

その他の意見を持つ人たちは、自分が少数派だと思い込んでしまって

意見の表明を控えてしまうので、声の大きい人の意見が主旋律になりやすいですから。


少数派に思えたら、実は、同じように自分が少数派だと思い込んでいる人が

思いのほか多数存在するのではないかと冷静になって

自分の意見を場に投げ入れてみるのは、話しあいを有意義にするにあたって

とても大切な姿勢であるように思います。


その投げ込み方が、そうでない意見を否定してかかるようなものであれば

不毛な論争になりますが、話しあいとは、不完全な視点を持つもの同士が集ってするものだ

という地点から、やんわりと投げ込みあうことで

それぞれの意見の角が取れるだけでなく、つながりやすさ、融合しやすさが増し

AかBか、という競合ではなく、AとBからCを生み出す

という創造へと道がひらけていくはずだと思います。




2022年6月12日日曜日

多すぎる情報源に乱される。

 筋トレしていたり、ランニングしていたりする時は

その瞬間にしていることに集中しやすいのですが

他の時は、いろいろ気が散っているなぁと、あらためて自分の精神状態を思います。

こうやって、文章を綴っていても、パソコンの画面からは

さまざまな情報が飛び込んできますし、目の前にはスマホもありますから

余計に情報、刺激は多いです。


情報源が多いというだけでなく、保持している情報が多くて、なおかつランダムだと

頭の中が常時混線状態になる、という恐れもあります。

実際、自分の脳内がそんな状態になって、

集中力を保ったり、回復したりするのが大変だと感じることも多々あります。


もし自分の脳みそがAIのように、瞬時に大量のランダムな情報を解析できるなら

情報量の多さは、判断の正確さや、もしかしたら創造性にもつながるかもしれませんが

自分の脳みその状態を観察する限り、そうではないようです。


おそらく、理想状態は、絞り込まれた目的の実現に対して

必要な情報を集め、随時、体系化して整理していき

時折、気分転換のように、ランダムな、畑違いの情報の海で遊ぶ

ようなものではないかと思います。


使いこなせないくらいなら、振り回され、乱されるくらいなら

情報は、今よりずっと少なくて良いのではないかと思います。


膨大な情報に触れる機会に溢れていて

かえって生産性、創造性が損なわれているのではないか

もっともっと、情報源を狭く絞り込み、触れる情報を減らし

その分、落ち着いて、深く、思索する、そんな方向を目指すべきかもしれないと

今は、考えています。


ガチャガチャで不動明王のフィギュアを手に入れたのですが

不動明王が、心の迷い、煩悩を取り除く存在だと知ったので

こんなふうに思考が動いたのかもしれません。

それは、余計な情報から得られたインスピレーションなわけですが。。。



2022年6月11日土曜日

わかったようでわからない話。

 勉強であっても、スポーツであっても

わかるという感覚は、できた後にこそ実感できるものなんだなと、改めて思います。


本を読んでいる時、説明を聞いている時にだって、わかった、と感じます。

だからこそ前に進めるのですが、しかし、わかったからといって

すぐに体現できるわけでもなく、何度も試行錯誤しながら出来るようになるものです。


そうして出来るようになると、初めに「わかった」と思っていた自分の感覚が

いかに曖昧でいい加減なものだったかがわかります。


説明を聞いている時の「わかった」感は、本当に雑な感覚で(あくまでも僕の場合)

自分のそれまでの経験の範囲でわかる範囲をわかっているに過ぎません。


できるようになると、できたという感覚だけでなく、そこに至る試行錯誤の経験の分も

自分のわかる範囲が広がっていて、それで初めて、わかるべきことがわかり

自分がいかにわかっていなかったかがわかる、という構造になっているんだと

何かができるようになるたびに、近頃、ことさらに思うようになりました。


わかったからといって、できるわけではない、とか言われますが

実際のところは、わかっていないからこそ、できないのでしょうし

できるまでは、何がわかっているかは、わからない

ということなのでしょう。



2022年6月10日金曜日

ライバルの効用。

 陸上の日本選手権、男子100m決勝を観ていました。

予想通り、サニブラウン選手が優勝でしたが、思ったより僅差でした。

隣の選手が想定よりも前にいたので、少し力が入り過ぎたのでしょうか

好条件の割には記録が伸びていないように思いました。


自分が極めようとする分野で、それを同じように志す仲間、ライバルがいることは

自分ひとりでは引き出せない力を、思いがけず引き出してくれる効用があるようです。

ひとりで黙々とがんばって練習しても、どうしても突破できなかった壁が

仲間と練習することや、試合でライバルに勝つことを目指すことで

ついに突破できる、というエピソードを聞くことがよくあります。


しかし一方で、ライバルに先行されると、必要以上に力が入ってしまい

自分本来のパフォーマンスを発揮することが出来なくなることもあります。

ひとりでなら伸びやかに走れるのに、ライバルと競り合うことで

走りがぎこちなくなって遅くなってしまうこともまた、よくある話です。


ライバルと良い影響を与え合う条件とは、どのようなものなのでしょう。


ひとつ、すぐに思いつくことは、負けることを恐れると

過剰に力が入ってしまい、本来のパフォーマスを失うということです。

ライバルが先行した場面で自分を見失うのは、「負け」の可能性が意識を乱すからでしょう。

すると、勝ち負けを意識するのではなく、

別の何かを意識した方が良いということかもしれません。それはなんでしょう。


それはおそらく、最高のパフォーマンス、境地に達すること、ではないかと考えます。

100mを43歩で走るとして(サニブラウン選手はそのくらいだそうです)

最高の43歩をいかに実現するか、そのための準備の時間をいかに充実させるか

そこに意識を集中して、やれることをすべてやる、それで出た結果は素直に受け入れる。

そのような姿勢を保とうと試みる時にこそ

ライバルと良い影響を与え合えるのではないでしょうか。

ライバルがいてくれることが、最高の境地への感覚をより鋭敏にしてくれる

まだ先があるはずだ、さらなる高みがあるはずだと、思わせてくれることにつながる。


100m決勝より前に行われた1500m決勝で

後ろから抜かれた瞬間、抜き去る相手を横目で見てしまった選手が

そのままズルズルと後退していくのを目にしました。

その時、その選手の脳裏には敗北への恐れが、よぎってしまったのではないかと

素晴らしい真剣勝負を観戦しながら、思いました。





2022年6月9日木曜日

その頃、僕はグレムリンに夢中でした。

 確か、僕が中学生の頃、まだ映画を観にいくことに特別感があった頃の話です。

当時、「ゴーストバスターズ」と「グレムリン」という映画が

ほぼ同時期に封切られていたように記憶しています。

テレビの予告CMを見たせいか

書店の雑誌コーナーで立ち読みした時に惹きつけられたのか

僕は、そのどちらの映画も見たくてしょうがありませんでした。


でも、近くの映画館では上映されておらず

電車に乗って、大きな街まで遠出しなければなりませんでしたし

(それはおそらく、内気な僕には大冒険に値するくらい勇気が必要で。。。)

お小遣いも足りていなかったのだと思います。

観たいな、観たいな、と思っているうちに時が過ぎていきました。


実は、その2本の映画をその時に観たのかどうか、記憶が定かではありません。

そんなに観たかったのに、なんではっきり覚えていないかというと

ひとつには、小説版を繰り返し読んで情景が頭に中に描かれたせいであり

ふたつには、その後、ビデオ版で何度も観たせいです。


観たい観たいと思っていた中学生の頃、僕の様子を見た祖父が

ふたつの映画の原作・ノベライズ本を買ってくれました。

僕はその2冊の本を繰り返し繰り返し読み、情景が頭の中に浮かぶくらいになっていました。

その後、どちらかの映画、おそらくゴーストバスターズを、友人たちと観に行ったのですが

その時は、小説を読みながら頭の中に描いていた情景を追体験しているような

感覚だったと思います。


その後、大学に入ってから、レンタルビデオで、どちらの映画も落ち着いて観ました。

それは、はっきり覚えています。

あぁこれが、中学生の頃に観たくて仕方なかったあの映画なんだ、と

しみじみ思い出しながら観た覚えがあります。

本で読んだ通りに、それ以上に、ワクワクし、夢中になれました。

ですから、大学生の時に観た記憶が、中学生の時の記憶と混ざってしまって

ワクワクしたのが、中学生の頃の感覚なのか、それとも大学生の頃のものか

あいまいになってしまっているのです。


後にも先にも、あんなに熱中して映画の原作本を読んだことはありません。

そんなに面白い作品なのか、とあらためて考えると

その後にたくさんの本を読み、映画を観た経験をふまえれば

何が当時の僕をあれほど夢中にさせたのか、うまく思い出せません。


中学生の頃、まだ映画を観るということが特別なことで

観たくて観たくて仕方なかった渇望状態の中で、与えられた本だったからこそ

そこまで夢中になったのではないかと思います。

飢餓状態で手にした食糧が、極上の味わいに思える、というのと近いかもしれません。

中学生の頃の僕の感覚に、ピタリとハマる何かがあったのかもしれませんし。

幸せな出会い方をした映画だったなぁと思い返しています。



2022年6月8日水曜日

偶然の出会いの正体は。

 不思議な日でした。

出先で、ふらりと散歩した商店街に、それはありました。

まるで今日の僕を待っているかのようで、驚きました。

なぜなら、それは、僕が最近、お気に入りの趣味にしていることと

とても関係の深い場所だったからです。


それがそこにあるなんて、僕はまったく知らずに、その地を訪れていましたし

近頃の僕はそれにとても関心が向いていたから、その場所を発見しましたが

少し前の僕ならば、その場所を見かけても、

特に関心を示さずに素通りしたかもしれません。


このところ毎日のようにそれを眺め、触っていたところに

たまたまでかけた先に、それの総本山のような場所があったわけです。

意味のある偶然の一致、シンクロニシティとでも言いましょうか。


不思議な出会いとは、そのようなものかもしれません。

向こうがこちらに近づいてくる場合にせよ、こちらが向こうに近づく場合にせよ

出会いが成立するには、こちらがそれに関心を向け、

価値あるものとして認識する必要があります。

でなければ、素通り、すれ違い、で終わってしまいます。


そう考えると、世界のあらゆる場所で、いろんなものが出逢われるのを待っていて

出会えるかどうかは、こちらのアンテナの開き具合による

ということなのかもしれません。


偶然の出会いだ!と喜ぶということは、出会う対象に価値を認めているからであり

価値を認めるということは、そのことについて日々考えていたからであり

だから、そうでなければ素通りするはずの、ずっとそこにあったものに

「出会い」として遭遇することができるわけですから。


そして多分、出かけてみないと、自分のどんなアンテナがどんな具合に開いているか

わからないのだと思います。

偶然の出会いを果たして初めて、自分のアンテナが

そこに向いていたことを自覚するように思えるのです。



2022年6月7日火曜日

多いなら多いなりに。

 ガチャガチャで手に入れたフィギュアの写真を撮るのが近頃のマイブームなのですが

今、気に入っているのは「わび・さび」シリーズです。

神社関係をモチーフにしたフィギュアが6種類ラインナップされています。

鳥居、灯籠2種、狛犬2種、地蔵、です。


これまで9回のガチャしての成果は

狛犬(1)が2個、灯籠(1)が2個、灯籠(2)が1個、そして鳥居が4個。。。

6種類あるのに、9回のトライで約半分が鳥居という、異常な鳥居率です。


このシリーズは、ガチャガチャとしては多分一番安い200円なのに

非常に高度な造作がほどこされていて、写真の撮りがいがあるのですが

鳥居ばかり4個も、さすがに、持て余します。


以前は、ハシビロコウのガチャガチャ全5種を

ちょうど5回のトライだけでコンプリートしたので

今回ももしかしていけるんじゃないかと、根拠の弱すぎる見通しで挑戦したら

このような結果になりました。


4個もある鳥居のフィギュアを眺めながら

そう言えば、京都の有名な神社はとてもたくさんの鳥居があった、と思い出し

同じように並べて写真を撮ったら面白いんじゃないかと、やってみましたが

どうも雰囲気が違います。


苦し紛れに、土の斜面に4つの鳥居を適当に立てて

それを狛犬が戸惑い気味に眺めるという写真にしてみました。

写真のテーマは「鳥居が多すぎる」です。


何事も、多いなら多いなりに、少ないなら少ないなりに

やりようはあるんだと、思いがけず面白い構図になった写真に

ひとり満足して眺めています。

思ってたのと違う結果が出ても、そこから面白くする。

現実との向き合い方の中で、大事なスタンスのひとつだと思います。




2022年6月6日月曜日

人に語りかけるということは。

「 私は私の思いを語りたいんだ」という欲求のあり方と

「私は他でもないあなたに私の思いを伝えたいんだ」という欲求のあり方は

文章ではよく似た表現になりますが、現実に対して持ちえる影響については

ずいぶんと違ったものになるのだということを、幾度も経験してきました。


私が私の思いをとにかく語りたい時、意識は自分自身に集中します。

自分の思いをいかに自分にわからせるかを意識して語っているとも言えます。

相手は自分の話を聞いてくれるなら、極端な話、誰でもよくなります。

良い聞き手に恵まれれば、これほど幸せなことはなく

気持ちよく話すことができるでしょう。

しかし、聞き手は、もしかしたら次第に苦痛を感じ始めるかもしれません。

なぜならば、自分が聞かされていることは、自分の興味関心には特に関係ないかもしれず

聴くことが自分に何かをもたらすよりも

時間や忍耐を奪っていくかもしれないからです。


一方、私が特定の誰かに対してこそ、自分の思いを伝えたいと思ったときには

相手が誰か、その相手は何に価値を置く人なのか、といったことがまず考慮されます。

なぜならば、他でもないその人に伝えたいならば

その人が受け止めやすい内容、話し方を選ぶ必要があるからです。

この場合、聞かされる相手が払う労力は、上述の場合と比べて低くなるでしょう。

いやおうもなく聞かされるのではなく、自分に語りかけてくれる、からです。


人を魅きつける語り手は、あきらかに後者のスタンスに立っているように思えます。

目の前の人、ひとりひとりを大切にし、個々にプレゼントをするように語りかけます。

だから、聞き手は「あぁ、他でもない、私に語りかけているんだ」と感じ

耳を傾け、惹きつけられていきます。


どんなに明快な原稿を用意しても、話し手の意識が原稿に集中しているならば

せっかくの明快なスピーチは空回りしてしまうことになるでしょう。

話し手は、相手よりも原稿を重視していることが伝わってしまうからです。


おそらく、文章を書く際にも同じようなことが起きるのではないかと思います。

特定の読み手を意識した文章は伝わりやすく

独り言のような文章は散漫な印象を与えたり

思い込みがすぎるように受け止められたりするでしょう。


このように振り返ってくると、では僕が書いているこの文章はどうなのだ

というブーメランに襲われることになりますが

この文章・ブログは、まずもって

自分の脳内に浮かぶ思考の断片を掬い取ることに重きを置いていて

特定の読者をまったく想定していません。いわゆる独り言です。

ここで十分に独り言をすることによって、いざ人の前に立つとき

目の前の人を大切に思える、そんなことが起きるように思います。

僕の独り言を、うっかり読んでしまった方がいたら、すいません。ありがとうございます。

いつかお会いしたら、目の前のあなたにこそ、語りかけます。




2022年6月5日日曜日

テクノロジーを使う者に求められる謙虚さの源は。

 どんなに時代が速く変化していても

人間が自力で100mを走るには、10秒くらいはどうしてもかかり

0.1秒という瞬きするような時間の短縮でさえ、途方もない鍛錬が必要です。

もちろん、テクノロジーの力を借りるならば、例えば車に乗れば

100mの世界記録並みのスピードで10キロを走ることも容易になり

このようなテクノロジーの進化は、日々刻々と高速で達成されています。


このギャップが気掛かりです。

私たち、生身の生命体としては、そう易々とは能力を向上させられないにも関わらず

私たちに操作可能なテクノロジーは、とてつもないスピードで

できることの範囲を広げ、能力を高め続けています。

どんなにテクノロジーが進歩しようとも、それを操作するのは生身の私たちであり

私たちの心身の能力は、操作する対象であるテクノロジーから

ますます置いてけぼりにされつづけています。


少しばかり極端なことを言うと

心身の鍛錬をしないならば、テクノロジーを使ってはいけないのではないか

とさえ思います。


自分の心身を動かすこと、その能力を向上させることが

いかに難しいかを骨身にしみてわかっているのであれば

高度なテクノロジーを謙虚に使うことも可能かもしれません。


しかし、自分の心身のことには無頓着で、それとはまったく別個のものとして

または完全に外部化から装着された新たな自分の能力として

テクノロジーを扱う時、そこに謙虚さは宿るでしょうか、疑問です。


スマホやゲームにハマって、運動不足になるなんて

あってはならないことです。

スマホという高度なテクノロジーを触るなら、心身と深く向き合ってこそ。

現代は、高度なテクノロジーを、あまりに安易に手にできます。


テクノロジーへの過度な依存によって、現代文明は行き詰まりを見せています。

それをまたテクノロジーで突破しようと姿勢は、短期的に道を開いても

いずれまた、さらに大きな壁に行き当たるのではないでしょうか。

生身の生命体が刻むリズムに調和するテクノロジーのあり方こそが

今、必要なのではないかと思います。

または、生身の生命体にできることをいかに高め深めるかの探求を

忘れてはいけないのだと思います。



2022年6月4日土曜日

速すぎる時代が目眩しをかける。

 ひとつ間違えれば命取りだった、とか

一歩先んじたおかげで成功できた、とか

確かに、ほんの一瞬の判断がその後の成果を決めることはあります。

いや、あるように見えるのですが。

その判断をしなかった後の経過は、その判断をしたしまった後にはわかりえず

もしかしたら、その判断をしなかったからといって

そこまで事態は良くも悪くもならなかったかも知れません。


「ひとつ判断を誤ったら」「一歩出遅れたら」という言い回しに馴染みすぎて

私たちは、一瞬の判断が命運を分けると思い過ぎているような気がします。


実際、拙速という言葉もあるわけで、

判断を急いだせいで、良い結果に結びつかないことも多々あります。


本当のところは、速い判断も遅い判断も、さほど変わりはなく

どちらも良い展開を招くこともあれば、悪い展開に陥ることもある

という程度ではないでしょうか。

一瞬がその後を決めるのではなく、状況との向き合い方の「積み重ね」が

刻々と変わる展開のありようを生み出しているのだと思います。


であるならば、速いとか、遅いとかを気にするのではなく

心を鎮めて、目の前で刻々と起きていること、起きつつあることを

まず受け止めること、それに対して、自分が望むことはなんなのかを深く自問すること

そのためにどうするのかを、あわてず、あせらず考えることではないでしょうか。

まわりくどく、のんきすぎる気もしますが

本当は、そんなことないような気がするんです。

速すぎる時代の変化に目眩しにかけられているだけのような気がするんです。



2022年6月3日金曜日

音の記憶。

 家の裏の田んぼから、かしましい蛙の鳴き声が響いてきます。

お昼は気にならないから、夕方から鳴き始めているのでしょうか。

これだけの音量が響くということは、それだけの数のカエルがそこにいるというわけで

どちらかというとカエルが苦手な僕は、蛙の集団を想像するとゾッとします。

でも、蛙の鳴き声は不思議と落ち着きます。

さっきまで主旋律を奏でていた、すぐ近くから聞こえた野太い鳴き声は、今は納まり

かわって、やや遠くからもう少し繊細な鳴き声が響いています。

これは蛙の種類が違うのか、それとも距離の違いがなせるわざか、定かではありません。

でも、こうやってカエルの声が自然に響いてくる環境で

季節の移り変わりを感じることができるのは、幸せなことだと思います。


都会に住んでいた頃、あれもこれも身近にあって、便利の極みのような環境でしたが

いつも人工的な音が空間を占めていて、自然の音が聞こえることは稀でした。

都会は決してコンクリートジャングルではありません。

公園の緑の豊かさや広大さは、むしろ都会の方が充実しているかもしれないとさえ思います。

ちょっと足を伸ばせば、広大な公園で緑に囲まれることができたことを覚えています。

僕の都会暮らしの記憶に欠けているのは「自然の音」です。

鳥やセミやカエルの鳴き声が、あまり記憶にありません。

もちろん聞こえてはいたのでしょうけれど

その他の人工的な音に圧倒されて記憶が薄れてしまっています。


今こうやって、自室でパソコンに向かっていて、聞こえてくる音は

扇風機の音、それからカエルの鳴き声、それだけです。

もちろん車が走る道路は近くにありますが

特に夜になってしまえば交通量は都会の比ではありません。


音の記憶は、文字通り深い余韻を残すように思います。

ただカエルの鳴き声だけが聞こえる今、ふと

若い頃に訪れたエジプトで、夜のナイル川のほとりで

無音の暗闇につつまれた対岸を眺めていたことを思い出しました。



2022年6月2日木曜日

夕日に向かって走れ。

バラバラの個性が集う組織の中で、ビジョンが共有されるとしたら
それは、どんな性格を持つものなのでしょう。

個性が多様であるということは、何を好み、何を好まないか、是とし非とするかが
必ずしも一致しないということです。
であれば、ひとつの価値、方向性を、ともに目指すことを
善しとする点で一致するというのは、とても難しいことのように思えます。

しかしそこが一致しないと、組織ばバラバラなまま、烏合の衆となってしまうでしょう。
簡単なのは、似通った価値観を持つものが集まって
その間で合意できるものをビジョンとして共有することです。
似たもの同士による、仲良しグループのようなものです。
これだと、ビジョンは共有され、一体感は高まるでしょうけれど
似たもの同士ということで、突飛な発想が生み出されることは少なく
変化に弱い組織ということになりかもしれません。
現代の環境であれば、致命的にもなりかねません。

多様な個性が集いながらも、烏合の衆に陥らず
チームとして一つにまとまるために共有できるビジョンとは。

そんなことを考えながら今日の夕日を見ていました。

そこで思いついたのは、ビジョンとは
誰かによって人工的に創られ与えられるものではなく
否応もなく、ともに見い出され、ありありとした実感を持ち
そこから得られる実感について、共に語らうことができるくらい五感に響くものである
ということです。

まさに、ともに見つめる夕日のように、です。
夕日は、誰にとっても、そこに、ありありと存在し
眩しく、暖かく、それがそこにあってくれてありがたいという気持ちが湧きます。
思わず魅入ってしまいます。

多分、太陽というものが私たちの命を根源的に支えているという
実感がそのような態度を生み出すのではないでしょうか。

そのような圧倒的かつ具体的な存在を目の前にした時
私たちは違いを超えて、思わずそちらを眼差し、魅入り
そちらに向かって歩もうとします。

多様な個性が集う組織の中で共有されるビジョンを生み出すには
会議室ではなく、海岸で朝陽や夕陽を見つめながらの対話をこそ
するべきではないでしょうか。
圧倒的な深さを持つ思考を手に入れるには、
圧倒的な存在を目の当たりにする必要があります。





2022年6月1日水曜日

そこにそれを置くだけで開ける世界。

 最近は、いわゆるガチャガチャで手に入れた小さなフィギュアを

身近な場所に、いくつか組み合わせて置いて

そこに生まれる世界を写真に収めることを楽しんでいます。


ガチャガチャは、僕が子供の頃からずっとあって

大人になった今も、小銭を入れて、ガチャ、ガチャっと回す時は

なんとも言えないワクワク感があります。

昔は30円くらいだったと記憶していますが

今は安くて200円くらい、高いものだと500円のものもあります。

物価の影響もありますが、それだけ造形が細かくなったということもあるでしょう。


しばらく、ハシビロコウの、ややデフォルメ気味のフィギュアが気に入って

いろんな場所で撮影していたのすが、

つい先日「わび・さび」シリーズを見つけ一目惚れしました。

僕の好きな、神社にまつわるフィギュアです。

これまで、灯籠、鳥居、狛犬を手に入れました。


近くにある公園は、今までも何度か撮影していますが

狛犬と灯籠のフィギュアを持って出かけて、どこに置こうかとあちこち見回すと

今までとは違った目で公園を眺めていることに気づきます。

今までは、公園の中の美しい景色、画角を探していたのですが

狛犬と灯籠のフィギュアを持った時には、それを置くにふさわしい

または、それを置くと面白い意味が広がる場所を探しています。


石の上にこんもり生えた苔の上に灯籠と狛犬を置いてみました。

背後には美しい植栽が広がります。

ギリギリまで接近して撮影すると、背景はぼんやりとぼやけて

苔の上の小さな灯籠と狛犬が、どんと浮かび上がります。

小さな灯籠と狛犬のスケールにあわせて、いつもの公園が広大な空間に

スケールアップしたように感じます。


馴染みの場所が、いつもと違う何かを持って歩くだけで違った世界に見えてきて

それを、そっと置いてカメラを向けると、あたらしい世界が開けてきます。

いつもの場所は、いつもの通りそこにある、なんていうのは

思い込みに過ぎないな、と思います。

たったふたつのフィギュアで、その場所は、いつもと違う意味を帯びた

新しい世界として開けてくるのですから。



2022年5月31日火曜日

岐路であって岐路でない。

例えば、ビルから飛び降りる選択をしてしまったら
もうその後は、どうしようもなく、来たるべき終末を受け入れるしかないのかもしれませんが
日常においては、これほど選択した後のことに決定的な影響を与えることは
さほど多くないように思います。

大事な決断の場面はいくらもありますが、
決断した後も、無限に小さな決断が続くわけで
大きな決断そのものが事後に大きな影響を持つというよりは
大きな決断をしたことに対する自分の気持ちが、その後の小さな判断に影響を与えて
少しずつ決断の影響が積み重なっていって、元に戻れないところまできてしまう
というのが実相ではないでしょうか。

ですから、生きていく上で、勝負どころの岐路がある、と力が入りすぎるよりは
最良の判断ができることなど稀というか、ほとんどないのだから
よくて次善の判断しかできないのだから
判断をした後に起きることを冷静に受け止めながら
その後の展開が、少しでもよくなるように、小さな判断を積み重ねていこう
という気持ちでいた方が、心穏やかで過ごせるように思います。

未来は、文字通り、まだ来ていないのですから
そこで何が起きるか、十分な予測など不可能ですし、
かりに十分な情報が集まったとしても、それをあれこれ分析している間にも
未来は現在へと押し寄せてきてしまいます。

未来についての十分な情報収集も分析も、完璧な判断も不可能。
であれば、絶えず未来から現在へと押し寄せてくる状況の変化の中で
起きていることをしなやかに受け止めて、自分にできる範囲のことを
せいぜい次善のことしかできないという脱力加減で、やってみて
自分の影響力の外にあることには悩まない、という姿勢でいたいと思います。

あらゆるところに異世界への入口は扉を開いているので
どこかまずいところに入り込んだとしても、そこから別のどこかへの扉は
必ず見つかるはず、そう思えば、「人生の決断!」とか力が入りすぎて
余計にまずいことになることは避けられるかなと。

そういえば、僕の好きなアクション映画の主人公は
ビルから落ちてしまっても、そこから先の生き残る道を落下しながら模索し
超人的な生還を果たす、という場面がいくつかありました。




2022年5月30日月曜日

生まれた時からそれがそこにあったから。

 侘び寂びとか、くわしくはわかりませんが

飾り立てた美しさの対極にある、時の経過ともに増してくる、

削ぎ落とされた美しさのようなものでしょうか。


海外旅行は何度か経験があるものの、日本以外で暮らしたことはなく

いつも身近に和風の何かがあるのが当たり前の環境です。

お寺があり、神社があり、日本茶があり、日本庭園があり

初詣をし、墓参りをし、床の間には生け花や掛け軸があることに

何の抵抗もなく、特段の興味もありませんが、あぁいいな、程度には思って育ちました。


でも、これは多分、当たり前のことではないのだろうなと

外国の方が身近に増えてきた今、または外国との情報交流の機会が格段に多い今

あらためて思います。


和風の文化を好んで旅行に来てくれる外国の人は多いですし

中には日本人よりもはるかに高度な知識を身につける人もいます。

ですから、日本文化を愛好し理解するレベルにおいては

日本人の僕よりも、はるかに高みに到達する外国の人は多くいるはずです。

でも、傲慢でも何でもなく、ごく当たり前の想像として

生まれた時から身の回りに当たり前にあるものを、当たり前として育った場合と

物心ついてから、後から、外部からそれを学び取ったのとでは

何かが違うように思います。


違うから、どちらかが優れていて、どちらかが劣っているということではなく

そこには確かに違いがあるのだ、という姿勢でいてこそ

他文化の理解、交流、共生が可能になるのだと思うのです。


日本に生まれ育った自分は、自分でもうまく言葉にできない色んなことを

当たり前だと見做していて、だからこそわざわざ言葉にする必要性を感じずに暮らしていて

ところが、外国の人から見たら、僕が当たり前に思っていることの、ひとつひとつに

興味や違和感を持って、時に困り果てて、時に喜び、興奮する。

そういうひとつひとつに、立ちどまって、

互いの中に生じているなかなか言葉にならない思いを、

四苦八苦しながら交換できたら、そんな時を積み重ねられたら

世界の見え方は徐々にしなやかになっていくだろうなと、思います。



2022年5月29日日曜日

異世界への入り口は。

今日のお昼ご飯は、いつもより1時間ほど遅く食べました。

空腹具合がさほどでもなかったのと、後の予定が特になかったので

そういう選択をしました。


当たり前のことですが、もし今日もいつもと同じような時間に昼食をとったら

その後どうなっていたかは、誰にもわかりません。

僕が今日の昼食の後に過ごしている時間は

いつもより1時間ほど遅く昼食をとったが故に生まれた結果の積み重ねです。

昼食に、いつ、何を、誰と食べようが、その後の散歩で誰に出会うかとは

まったく無関係に思えますが、よく考えれば、無関係だなんてとても言えません。


昼食をとった後の僕の気分や満腹具合や興味関心の方向は

多かれ少なかれ、昼食の中身に影響されていますし

僕が何時に散歩に出るかは、昼食をいつとったかに大きく影響されます。

どんな気分で散歩するかによって、どこを通るかが決まったり

いつもの道でも、注意の向け方が変わり、人との出会い方も変わります。

気分しだいでは、いつもは声をかけない人に声をかけたり

僕の表情など、いずまい次第では、いつもは声をかけてこない人が

声をかけてきてくれるかもしれません。


そもそも、今日の昼食がいつもより1時間遅くなったのは

僕が昨夜以降どんな過ごし方をしたかに影響されていますし

昨夜の過ごし方は、日中の過ごし方に影響されています。


こうやって遡っていくと、僕が今経験している時間のありようは

僕の日常の、小さな小さな選択の積み重ねの結果だということになります。

今から、僕が立ち上がるか、それともこのまま

パソコンのモニターに向き合い続けるかによって

僕がこれから経験する時間のありようは少しずつ影響を受けて

明日がどんな日になるかは、もしかして、大きく異なるかもしれません。


異世界の入り口は、あらゆるところ、あらゆる瞬間に

扉を開いて待っているようです。



2022年5月28日土曜日

ひと呼吸の間だけ、生きていられる。

偶然だと思っていたことが、必然かもしれないと思えたり
偶然と必然の間があいまいになることが、たまにあります。
今日の僕は、1ヶ月半前の偶然が、もしかして必然に近いものだったのかも
と思わされるような経験をしました。


この1ヶ月半ほど、本当にたまたま、朝晩の深呼吸が習慣になっていました。
ただ深く吸って吐いて、だけではなくて
30回深呼吸して、吐き出したらしばらく止めて、また吸ってしばらく止めて
吐き出して、また30回深呼吸、、、を繰り返すメソッドです。

ヴィム・ホフという人が開発したものです。
このオランダ人は、アイスマンの通称で知られ
独自の身体鍛錬法によって、氷風呂に長時間つかり続ける世界記録を持っていたり
短パンで極寒の高山に登ったりしている、超人じみた人です。

なんでこのヴィム・ホフの方法が気になったのか、実践しようとしたのか
今となってはうまく思い出せないのですが
この方法を知った瞬間に、よしやってみよう、と思い立ち
以来、朝晩、続けることに何の苦もなく、ごく自然に淡々と続けています。

体調によるのでしょうか、息を長く止めていられる日と、そうでない日があります。
ヴィム・ホフによれば、長く止めていることが目的ではなく
自分の体を感じ取ることが大事だそうです。

座禅でも自分の呼吸に意識を向けたりするようですし
深呼吸は心身を整えるために、かなり普遍的な方法なのかもしれません。
そういうことは、以前から知っていましたが

偶然が必然に思えたのは、僕の深呼吸の習慣が
父が亡くなった直後から始まっていることです。

ヴィム・ホフの方法をやってみようと思った時に
父のことはまったく意識になかったはずです。
その頃、読んでいた本にたまたまヴィム・ホフが紹介されていただけです。

ただ、今思い返せばその前日、呼吸が止まっていく父の姿が
強く印象に残ったのは間違いないです。

だからかどうかわかりませんが、以来、毎朝晩、深呼吸を繰り返していました。
そして今日、父の四十九日の後、親族の会食で、
親戚のおじさんが、何気なく、本当に何気なく、釈迦の言葉として

「人が生きているのはひと呼吸の間」

という言葉を口にしました。
僕に対してではなく、他の親族との会話の中で発せられた言葉だったのですが

その時、自分が父が逝去した直後から、なぜか自分が
朝晩の深呼吸を続けていることに思い至りました。
この深呼吸の習慣は、父の旅立ちと確かに関係している、そう思いました。

ひと呼吸、ひと呼吸が、自分の生のすべてだと思って丁寧に。
そんな思いが込められた釈迦の言葉だそうです。
父の最後のひと呼吸は、どんな思いでなされたのだろう、あらためて思い返しました。

あと何度、深呼吸ができるかわかりません。
ひとつひとつの呼吸を、自分の生のすべてだと思う、という姿勢を
忘れないように歩もうと思った父の四十九日でした。
合掌。





2022年5月27日金曜日

善いとはどういうことか、問われなければならない。

 空を飛べる鳥と、地を走る犬とでは

世界の見え方は全く違っていて、その2者にとって合意可能な

より良い世界のあり方は、ともに紡ぎ出すしかありません。

実際に鳥と犬が話しあうことはないでしょうけれど

人間同士でも、それに近い状況というのはごく普通の日常ではないでしょうか。


空を飛ぶ人間も、地を走り続ける人間もいませんが

職業が違えば、国が違えば、文化が違えば、歴史が違えば

それぞれが見る世界は、それぞれが思う以上に違っているでしょう。

ある国にとっての別のある国に対する軍事行為が「解放」を意味し

軍事行為を受ける側の国にとっては「侵略」を意味することがあるように、です。


「私たちにとって善いとはどういうことか?」

大真面目に語りあうことは、なかなか想像がつきません。

でも、これは、異なる考えが歴史上前例がないくらいに

近接・混在して存在する現代において、とても大切な営みではないかと思います。


日常生活における、さまざまな問題、不便は、どんどん解消されているにもかかわらず

世界のあり方の根底を支える問いは、深く問われることのないまま

消費文化のはるかな背景へと退き続けているように見えます。



2022年5月26日木曜日

大きく見せるでもなく、小さく見せるでもなく。

 他者と向き合う時に、なじみがなければ警戒し、ちょっとほぐれてくると

安心はするけれども、むずむずと頭をもたげるやっかいな心の動きがあります。

自分を少しだけ大きく見せたり、あえて小さく見せたり。

虚栄心と言われる心の動きです。


あれ、小さく見せるのは謙遜では、と思わなくもないですが

そうやって、相手を立てたり、自分を下げたりしている背後によくある心理は

小さく見せることで、それよりは少し大きく見える効果を狙っていたり

大きく見せて、実際はそうでもないという傷つき方をするくらいなら

小さく見せて、自分を守っていたり。


大きく見せる理由は、それよりはおそらくずっと分かりやすくて

相手より優位に立ちたかったり、自分の価値を認めてほしかったり、認めさせたかったり

または、自分で自分の価値を信じたかったり。


よくよく考えてみれば、他者に馴染む前に警戒する心理も

自分の価値が損なわれるのを防ぎたいという点で、根っこは同じようです。


そうやって、互いに自分の価値を守りながら向き合っている限りは

関わりが深まることはなく、表層的、形式的、儀礼的な関わりに留まるでしょう。

それは、なんだか疲れますし、せっかく他者と関わっても

何の価値も生み出さないように思います。


率直に思ったことを伝え合い、受け止め合い、刺激を受けて

新しい価値を生み出すこと、それまでの自分から一皮剥けること

それが他者と出会う価値だと思うのですが

大きく見せたり、小さく見せたりしている限りは、そうはなりそうもありません。


確かに、率直に思いを伝え合うと、衝突が生まれて、優劣が決まったり

どちからかが、または両方が傷ついたりすることがあるので

そうなるくらいなら、儀礼的に関わろうというのも知恵かもしれません。

でも、それだけでいいんでしょうか。

現代のような、いろんなことが立ち行かなくなっている時代では

儀礼の中で深まらない堂々巡りをしていても

または、剥き出しの衝突を繰り返しても

いよいよ立ち行かなくなってしまいます。


大きくも見せず、小さくも見せず、自分を押し付けず

互いに不完全な途中経過な存在であるということを認め合いながら

同じ地面に立って、関わり、思いを受け止め合い、

新たな価値を紡ぐことこそが、今、必要だと思います。



2022年5月25日水曜日

世界の見え方が一変する時。

 いつもの環境でいつもの仲間といつものように暮らしを営めば

世界の見え方は、次第に安定したものになり

世界とはこのようなものであると、素朴に信憑するようになるでしょう。

そのようにして形作られた世界の見え方は、長い時間を経ている分

そう簡単には揺るがず、次第に柔軟性を失い、

世界が変わっていることに鈍感になるかもしれません。


安定した世界の中で安心して暮らしていくためにも

世界は自分が見えているのとは違う様相をももち得るのだという

変化に対するしなやかさは常に保つ必要があると思います。

安定した世界が続くということは、決して世界が不変であることを意味せず

世界が変わっても自分自身の重心を保てるようなしなやかさを

自分が備え持つことを意味するはずです。

自分の力が遥かに及ばない世界に対して不変を求めるのはあまりに不遜であり

世界との関係性を常にしなやかに編み直し続ける力を持つことが必要だと思います。


そのようなしなやかさは、おそらく、自分の小ささや、狭さに直面させてくれるような

異質な他者との出会いから育まれるでしょう。

自分が思ったよりも大きくも強くもないと思わせてくれる他者。

これまでの当たり前は、変わり続ける世界における

一部のありようにすぎないと思わせてくれる他者。

そのような他者との邂逅は、自分の世界への眼差しを固定化することを許さず

世界のありようについての洞察力を育んでくれます。


時折、何十億の人間は、大きな生命体を構成する、

ちっぽけな細胞のひとつひとつに過ぎないのかもしれない、とか

宇宙人は、これまで想像されてきたような大きさではなく

とてつもなく小さいかも、もしかしたら、視界に収まりきれないくらい大きいかも、とか

妄想することがあります。

世界は、今、たまたま、自分にとってそう見えているに過ぎない、と言い聞かせながら。



2022年5月24日火曜日

大地に共に働きかけることが失われていいのか。

 人と人は話しあうことで関わりを持てますが

おそらくそれ以上に、ともに心身を使って活動することで

特に何らかの目標に向けて活動することで、より深く関われるはずです。


ITが発達して、遠くの人と瞬時につながれますし、膨大な情報を集めることもできます。

そんな営みが日常の多くを占めるようになって、失われつつあるのは

他者と共に、大きな対象に向かって、心身を使って具体的に働きかける営みです。

例えば、共に田畑を耕し、苗を植え、種を蒔き、除草し、肥料をやり。

このような時、人は深く関わりますし、

大地と大空という大いなる対象に向き合いますので謙虚にもなります。

大地も大空も、人が束になってかかっても、

おいそれとは言うことを聴いてくれませんから。


巨大な重機を使えば、山林を切り開いて景色を一変させることもできます。

それもまた人間の文明が達成した貴重な成果ではあるのでしょう。

でも、それは人間の心身が持つ能力を遥かに超えたところでなされていることは

忘れてはならないと思います。

重機を生み出したのは人間の知性ですが

人間の心身の営みの力と速度では、そのように山林を切り開くことはできません。

人間は自らの心身の力を増幅する装置を発明することで

傲慢にもなり、自然な営為の速度と規模を忘れがちになってもいるように思えます。


人間の心身は、象や鼠や蒲公英や向日葵と同じく、生身の生命です。

生身の生命には、それにふさわしい規模と速度があります。

人間だけがそこから逸脱して平気ではいられないと思います。

今の世界は、その逸脱に満ちているように見えます。

自らが生み出した文明によって、世界を逸脱で満たした結果が

あらゆるところに見られる文明の行き詰まりではないでしょうか。


回帰するために、知性を使うべき時が巡ってきているように思います。



2022年5月23日月曜日

とことん独りで考えること。

 昨日の記事では、煮詰まったら気分転換に

散歩したり、運動したりして、環境を変えることの効用を考えました。

今日は一転して、煮詰まってもとことん独りで考えることが大事だと言ってみたいです。


というのも、実は、現代を生きる私たちは、とことん自力で考えてみるということが

なかなかできない環境に置かれがちなのではないかと思うからです。

ですから、自分の脳力を絞り切るところまでは辿り着かない

その何歩も手前で、煮詰まったような感覚になっているだけではないでしょうか。


私たちは、受信可能な情報が多すぎます。

何かを考えようとする時、ちょっとネット検索すれば膨大な情報が降り注ぎます。

あれもある、これもある、こっちも良さそうだ、などと

情報の雨霰、濁流に呑み込まれると、じっくり自分の考えを深めることができません。

検索して、良さそうな情報をつなぎあわせて、体裁を整えることが

自分で考えることに置き換わっている場面が多いのではないでしょうか。


自己流、自己正当化、独我論、視野狭窄に陥ってもいいから

まずは、自分でとことん考えてみる、自分が納得できる考えを組み立てる。

煮詰まったと思ったら、安易に外部の情報に頼らず、そこに踏みとどまって

自分の考えの限界、袋小路がどのように出来上がっているのかを客観視して

それを解きほぐす方法、自前の出口の作り方を模索してみる。

そうしているうちに、天啓のように思考が整理されていく。

そんな瞬間が、ありえるはずなのに、現代のIT環境は、それを妨げているように見えます。


大学の時、ネット環境も何もないところで、とことん自分で考えたことは

今考えれば、荒削りで稚拙なところは多分にありましたが

それでも、今の自分に通じる、根底的なところまで考えられていました。


とことん、独りで。

いながらにして世界と繋がれる現代を生きるからこそ

大事にしたいと、思います。




2022年5月22日日曜日

思考は環境の産物か、はたまた。。。

 考え事をしていて煮詰まったら、気分転換をすると

頭がほぐれてブレイクスルーが生まれることがあります。幸運なら、ですが。

でも、おそらく、じっとしているよりは、体を動かして、環境を変えて

脳に新しい刺激を与えてあげた方が、良い結果が生まれやすいはずです。


気分転換で、いちばん気軽で、僕も大好きなのは散歩や運動です。

目に入ってくる景色が違えば、筋肉に与えられる刺激が違えば

思考の巡り具合もずいぶんと変わってきます。


煮詰まった時の刺激として、もうひとつ有効なのは、他者との対話です。

これは、必ずしも良い結果を産むとは限らないのですが

ぐるぐる同じところを回って、時には自己正当化しがちな思考を

他者の目線に晒すことで、または、他者の思考と混じりあうことで

新たな道が開けることがあります。

うまくいかないことがあるのは、他者と対立的な関係になったり

他者に否定されてしまったりして、育ちつつあったアイディアの芽が

枯れてしまうような場合です。


煮詰まったら、いや、煮詰まらなくても、思考を活性化するには

いつもと違う場所で、いつもと違う他者としなやかに関わることが有効だと思います。

そうやって、外部の刺激を受けて思考が活性化した後で

いつもの場所で、いつものように独りになると

いつもの場所が、いつもと少しだけ違って見えたりします。


いつもと違う環境で受けた刺激によって、思考がしなやかになって

物の見方が変わり、いつもの環境が変わって見えてくるからです。


こう考えてくると、思考を煮詰まらせたのはいつもの変わり映えしない環境かと思いきや

いつもの環境をいつものように捉えてしまっている思考の方かもしれないと思えてきます。

思考は環境の産物なのでしょうか、はたまた

思考こそが環境の見え方を規定しているのでしょうか。

おそらく、思考と環境が互いを規定しあいながら、ダイナミックに変容していく

というのが実相ではないかと思います。



2022年5月21日土曜日

意図なきところに意図を持つ。

 散歩の途中で、空き地にコンクリ製の土管のようなものが

無造作に積み上げてあるのを見かけました。

用途はまったく分かりませんが、周りの草の茂り具合から

しばらく放置されているように見えました。


この土管を見て、思い出したのは、

漫画「ドラえもん」に頻繁に登場する、ジャイアンやスネオがいつも遊ぶ空き地です。

そこには土管が放置されており、時にそれは、ジャイアンのリサイタルのステージになり

時には、のび太がジャイアンから逃げて隠れる場所にもなりました。


僕も近所の、なぜか積み上げてある大きな石(もはや岩)や

空き地に植わっている木、その下にある土が盛り上がっている場所などを

自分たちなりに、何かに見立てて、手を加えて、遊びの世界を作っていました。

そこになぜその石や木や土があったのか、大人たちがなぜそうしたのか

子供の僕らにはわかりませんし、ずっと放置されていたところを見ると

特に意図もなく、誰も何にも使う予定もなく、ただただ、そこにあったのでしょう。

大人たちにとっては、ないも同然、時には邪魔かもしれないそれらのものに

僕たち子供は、自分勝手に使い道を描いていく自由を見出していました。


使い道も使い方も決まっていない、ただただそこにあるそれらのものは

ワクワクする空白として僕の前にありました。

どうにでもできるもの、どうなるかわからないけど、何かしてみたくなるものとして。


今、自分の身の回りを見渡すと、何らかの意図を持ってそこに存在してるものが多く

それらで埋め尽くされ、意図もなくただ無造作にそこある、というあり方をしているものが

非常に少ないように感じます。

誰かの意図が働いて存在するもので世界が埋め尽くされた時

僕はそこに、とても窮屈なものを感じます。

何の意図もなく、ただの空白として放置された場所が、ものが世界にある時

そこには、そこをたまたま発見した誰かにとっての、世界を描き出す場所が現れます。

そして、その人がそこを去った後、そこはまた意図なき空白に戻り

他の誰かの意図がそこに見出されるのを待つことでしょう。


僕はそのような世界のあり方が好きです。



2022年5月20日金曜日

秩序と混沌の間で。

 久しぶりに大阪の街をぶらぶらと散歩しました。

今日は大阪での仕事だったので、早い目に大阪入りしたためです。

本当は散歩のためではなく、大学時代の後輩と再会するためだったのですが

彼が大幅に遅刻したために、思いがけず散歩に時間ができました。


僕は大阪に住んでいたこともありますし

大阪を離れてからも、年に何回かは大阪を訪れる機会があります。

訪れるたびに、街がどんどん変わり続けているのを感じます。

そんな様子を見ていると、まるで街が生き物のように感じられます。


近代的なビル群がニョキニョキと天に向けて伸びているすぐ足元では

ゴチャゴチャとした商店街が広がっています。


ビル群の中の洗練された店舗空間も好きですが

そこにあまり長く留まると、どことなく息苦しくなります。

僕の個人的な嗜好性の問題なのでしょうけれど

ゴチャゴチャと猥雑な、混沌とした街路に強く惹かれ、落ち着きます。


いろんな嗜好性に向けていろんな店が軒を並べ

それぞれのやり方で、自分の店をアピールしています。

そこに統一した方法、様式などはいっさいありません。

それぞれが、本当に好き勝手に、自分の店はどんな店なのかを

声高に、時に、物静かに、時に、奇妙奇天烈に、表現しています。


商店街の向こうに聳えるビル群は、僕には、合理性と秩序を象徴しているように見え

商店街は、情動性と不均衡がもたらすエネルギーを象徴しているように見えました。

どちらもが、街の現在進行形の今、であり

人の欲求と営みの結果として生じ続ける結果の集合です。


僕は、なぜか、秩序と混沌の混在状態に、強く惹かれます。

洗練しようとしつつも、どうしても綻び、そこからあふれてしまうエネルギーに惹かれます。

野放図に垂れ流されるエネルギーではなく

秩序に収まり切らずにはみ出してくるエネルギーが好きです。

僕のそういう嗜好性の原点は、もしかしたら、大学時代にあるのかもしれません。

当時、僕の周りには、秩序の重要性はおそらく十分に理解する知性を持ちながら

どうしても、時に意図的に、はみ出てしまう異形の個性を持った仲間がたくさんいました。

彼らとの日々の混沌とした関わりの中で、今日の僕の嗜好性が育まれたように思います。


今日、大幅に遅刻してきた後輩も、当時の大切な仲間のひとりです。

久しぶりの再会だからといって、約束の時間を必ず

守るような奴では、ないのです。





2022年5月19日木曜日

草刈りしながら思うことは。

 家の周りの草刈りをしました。

「除草」というのが一般的でしょうか。

僕には「草むしり」が一番しっくりきます。

幼い頃、実家に畑があって、そこの草を文字通り、「むしって」いたし

熱心に畑をしていた祖母が、よく「草むしり」という言葉を使っていたので。


で、どうして今日のこの文章の書き出しが

「草むしり」でなくて「草刈り」かというと、それは鎌を使ったからです。

家の周りは、畑とは違って土が固く、そこに丈夫な草が深く根を下ろすものですから

なかなか「むしる」ことができません。

ので、鎌の力を借りて、草の根が地中に残ってしまうことには目を瞑り

地上にある草の茎と葉だけを「刈って」いきました。


我が家の周りは、庭はもちろん、できるだけ土を土のまま露出させてあります。

よく見かけるのは、コンクリートで固めたり、砂利を敷き詰めたりして

草が生えてくるのを防いでいる様子ですが

我が家はあえて草が生えやすくなっています。


草は、どこからともなく忍び寄り、あっという間に勢いを増し

家の周りは草ぼうぼうのカオスになります。

我が家は植栽も多いですし、その上、いろんな草がびっしり生えますから

カエル、ミミズ、アリ、蝶、蜂、ヘビ、時にはツバメ、そしてネコなど

いろんな生き物が住み着きます。小さな生態系です。

他にも、いろんな昆虫が住んでいますし、植栽を植えるためにちょっと土を掘れば

立派なミミズがウネウネと顔(顔あったっけ?)を出します。


綺麗に手入れされた庭も素敵なのですが、生命力にあふれたカオスな庭も

なかなかに心地よく、夕暮れ時にカオスの中に座り込んで、草刈りすると

自然の一部になったような気持ちになります。

草刈りを全くしないで放置すると(たまに、そうなります)

本当に、びっくりするくらい、草が勢いを増して、びっしりと地表を覆います。

それはそれは、ものすごい勢いです。背の低いものから高いものまで

葉の小さなものから大きなものまで、草の香りもすごいです。


そんな様子は、あぁちゃんと手入れしなきゃなぁという思いと同時に

この生命力のすごさ!とてつもない命の勢い!と感動してしまいます。

誰も種を蒔いていないし、手入れもしないし、水もやらないし、肥料もやらない

なのに、草の勢いは止まりません。

命がもともと持っている力が、どれだけすごいか

僕は草の景色から元気をもらうのが、好きです。

元気をもらってから、草刈りします。






2022年5月18日水曜日

何事も、どこかへの途中経過だから。

その結果がすべてで、そうなってしまったらもう終わり
なんてことはそうそうなくて、たいていのことは、何が起きようと
世界は、日常は、個々人の気持ちとは無関係に、淡々と続いていきます。

でも、個人の気持ちはそうはいかなくて、望ましくない結果に直面すると
時には、全てが崩壊したような気分になり、絶望の淵に沈み
心身を壊してしまう例も少なくありません。

個人レベルで困ったことが起きようが起きまいが
日常は刻々と時を刻み、前へ前へと進んでいきます。
何が起きても、それはあっという間に過去へと流れ去ります。
何かが起きたら、その次に何かが起きて、その間に関係があったり、なかったり
どこかで完全に何かが終わる、ということは地球がなくなるまで、ありえないでしょう。

すべては、当分はやってこない終末へ向けての途中経過。
終末などということは、たかだか100年しか生きない個人には
考えても仕方のないことなので、言い換えると
良いことが起きようが、悪いことが起きようが
それは、それ以前に起きたことから、それ以後に起きることへ向けての途中経過。
しかも、止まることのない流れの中の途中経過。

最悪の出来事も、どんなに抵抗しようが、過去へと流れ去り
至福の瞬間も、どんなに抱きすくめても、思い出としてしか存在しなくなります。
どんなできごとも、ずっと自分の眼前に止まり続けることはなく
どんな現実も、その中に自分があり続けることは不可能で
すべて流れ去っていってしまいます。
自分は、開けくる未来と対面し続けるだけです。

であるならば、起きたことに、いずれ流れ去る起きたことに
束の間よろこぶのは良しとしても、絶望に絡め取られて
開けくる未来から顔を背けるのは、損しかない行為だと思います。

何が起きようが、起きたことの意味を決めるのは、それを受け止める側であって
起きたことそのものに意味はありません。
道端に100万円が落ちていても、そこに佇むカエルには何の意味もないのと似ています。

生きていられる限りは、自分がいる、今ここと
そこへ向けて開けくる未来を、深く受け止めながら
ゆったり、丁寧に、歩んでいきたいと思います。



2022年5月17日火曜日

街の思い出。

今、福井駅前では大規模な再開発が進行しています。

古びた建物群は取り壊され、空が広く見えています。

そのうち、この広い空に向かって、

新しいワクワクするような建物群が並び立つのでしょう。


街の景色をぼーっと見ていると、これまで自分が暮らしたことがある街や

訪れたことのある街の景色が、重ねあわさるように思い出されます。


京都の河原町通の賑わいに初めて「巻き込まれた」時、僕は18歳でした。

あまりの人の多さに圧倒され、どっちに進んでいいのかもわからなくなり

早くここを抜け出したい、と思ったものです。


大阪で働き始めた時、まだ日が沈み切る前から一杯飲み屋さんは賑わっていて

赤い顔した人たちが大声でおしゃべりしているのを

まだ仕事が終わっていない僕は羨ましげに見つめて通り過ぎました。


東京の通勤電車は辛かった。。。鞄から手を離しても、すし詰めの電車の中では

鞄が床に落ちないって、本当でした。どこに行っても人が多過ぎて

自分がここで暮らしているという実感は、いつまで経っても希薄で

ふわふわとお客さんのように過ごしていました。


初めて訪れた外国であるエジプトでは、ピラミッドよりも、砂漠よりも

市場の混沌としたエネルギーに魅了されました。

客引き?たちが次々に声をかけてきて、自分の店に引き入れようとします。

そう言えば、あってすぐに打ち解けお土産物屋のおじさんには

いきなり店番を頼まれたこともありました。


スペインでは、恐る恐る覗き込んだバル(飲み屋さん)で、地元の人の注文するのを

見よう見まねしてワインとおつまみを頼み、出てきた大量の小エビの揚げ物に驚き

そのうち慣れてきてバルを梯子し、朝はカフェでエスプレッソ、という毎日で。


モロッコでは、迷路のような、というか迷路そのものの旧市街を彷徨い

広場で毎夜くりひろげられるお祭り騒ぎの中、屋台を食べ歩き

そのうち、貧乏旅行者には高過ぎる絨毯を買わされたり、お金を盗られたり

その盗人を探すのに地元の人が協力してくれたり(見つからなかったけれど)。


長く暮らした京都でも6年、旅した外国の街は長くても1週間の滞在ですから

そんなに深い関わりはありませんが、どこも、やたらリアルに思い出します。

思い出すのは景色より、人の表情ですね。声は思い出さないけれど笑顔は思い出します。


どこの街にも、今こうしている間にも、いろんな人が、いろんな風に

自分の暮らしを暮らしているんだな、と当たり前のことを思います。

僕にとって、今日、たまたま見かけた福井駅前の夕暮れだって

別の暮らしを暮らしている人からは、きっと違って見えるんだろうな

ということも思いました。


世界のありようは、人の数だけある、いやいや、もっと多いですね。

僕にとっての福井の街だって、いろんな見え方をするわけですから。

誰といつ、何をしている時に、その街にいるかによって

街はまた違ったありようをするわけですから。




2022年5月16日月曜日

新幹線的なるものと、稲作的なるものと。

あと2年で、 北陸新幹線が敦賀まで開通する予定なので

我が家の近くでは、新幹線の駅と高架の工事が着々と進んでいます。

ほんの数年前まで、広大な農地ばかりだったところに

忽然と、力強いコンクリートの橋脚が立ち並び始めたと思ったら

その上に、線路を載せる橋桁がするすると伸びていきました。

あっという間に景色が変わったような印象です。


駅と高架の周辺は今も以前と変わらず、ほとんどが農地です。

高架の工事が進むすぐ下で、田植え作業が営まれているのは

とても不思議な気分にさせられる光景です。

なぜ不思議な気分になるのか、うまく説明できないのですが

新幹線というのは、時速300キロくらいで走るわけで

そのすぐ下で、数ヶ月をかけて実る稲を育てているという

そのスピードのギャップの隣接具合が、不思議の一番の要因のような気がします。


現代の技術はどこまでも発展し、大勢の人が一斉に高速で

遠距離を移動することを可能にしましたし

田圃ばかりだった光景を、数ヶ月の間に一挙に高架で貫かせることができます。

それでも、稲は1年に1度しか実りませんし

私たちは、あまり早食いをすれば体を壊しますし

サプリメントだけで食事を済ませるならば、やはり心身のどこかに皺寄せがくるでしょう。


技術の力で圧倒的な変化を起こし、利便性を一挙に高めることができる一方で

どうしても変えることができない、生命のリズムのようなものがあります。

それが、隣り合わせになっているのが、我が家のすぐそばにある新幹線の工事現場です。

おそらく、新幹線の駅周辺は、高度な開発がなされ農地は姿を消すと思います。

その時、生命のリズムを遥かに超えた速度と効率と利便性が地表を覆うでしょう。

それはおそらく、新幹線の、そしてその周辺の土地の価値を高めるはずです。


そうであっても、そのような価値の実現の仕方だけが素晴らしいわけではなく

そうではない価値が、それ以前から脈々とこの地にはあったのだということは

忘れずにおきたいと、現在の工事の様子を見ながら思いました。


いや、忘れないだけでなく、自分自身の日常に、新幹線的なものではない

稲作的なリズムのものを必ず残していかなければならないと思います。



2022年5月14日土曜日

分類する、喩えるという行為に共通するのは。

 先日の牡丹に続き、今日は芍薬の写真を撮りました。

何が「続き」かというと、どちらもボタン科に属する植物だからです。

それともうひとつ、この2つの植物は、ひとつの諺に並べ置かれているからです。


「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」


背の高い芍薬は立って見るのにふさわしく、やや低い牡丹は座って

そして、風に揺れる百合は歩いて眺めるのがふさわしい、との意味でもあり

女性の美しい立ち居振る舞いを花の美しさに喩えてもいるそうです。


異なるものの間に共通項を見出すという点で

植物を「科」に分類するという行為も、女性を花に喩えるという行為も

重なりあっています。


もし私たちが、牡丹と芍薬の違いにばかり目を奪われて

そのふたつは全く無関係な別の植物だと判断することしかできなかったら

植物学という学問は成り立たず、植物の生態を深く知ることもなかったでしょう。

花と女性は、そもそも植物と人間なんだから、同じに考えるなんてありえない

という発想しか、私たちが持たなかったら、詩のような文学は成り立たず

味気も湿り気もない、ドライな事実の断片で構成された世界になっていたでしょう。


違いの中に同じを見出す、違いを超えて何かを生み出す

違いの間に通底する本質を発掘する。


私たちは気づかずに、日々の暮らしの中で、こんな心の働かせ方をしています。

でも、こわばった心には、このような働き方ができにくいようです。

違いから衝突ばかりが生み出される報道を見るにつけ、そう思います。


心の強張りを解いて、違いに対する寛容さで世界が満たされて欲しい。

それが、創造的共生、だと考えています。



2022年5月13日金曜日

遭遇の危機と可能性。

 世界が、すべて同じ人種、いやそれどころか同じ人格の人で

構成されていたらどうでしょう。

もしかしたら、今起きているような、そして人類がこれまで起こしてきたような

痛ましい惨劇は起きないのでしょうか。

そんな馬鹿げた推測をするのは、人間の衝突は、

互いの違いを受け入れられないことから生じているからです。

違いが受け入れられずに衝突するなら、違いをなくせば衝突も無くなるのではないかと。


しかし、そんな馬鹿げた想像は、すぐに行き詰まります。

実際に同じ人格になれるかどうかは置いておくとしても

同じ人格で構成されてしまったら、自分は自分と出会い続けることになり

そもそもそれを出会というのかどうかも、怪しくなります。

出会っている感覚もないのではないでしょうか。

遺伝子が同じ双子だって育つうちに異なる人格へと成長し喧嘩します。

なのに、全く同じ人格の人同士が向き合ったら

喧嘩どころか、友情も愛情も共感もないような予感がします。


世界が多様な人格で構成されているのは、

やっかいな、時に悲惨な結末の原因でもありますが

それでも、みんながそれぞれに違っているからこそ

その出会いの先に、新たな可能性を開いてこれたのだと思います。

違いの出会いは、何も衝突だけを生むのではなく、創造もまた生みますから。

同じが出会っても、互いの限界を破れませんが

違いが出会って触発しあえば、互いの限界を破って、新たな道が開けます。


人間が地球に満ち満ちている現在

人と人が出会う可能性は、加速度的に高まっています。

いかに出会い、いかに関わるかは、ひとりひとりの未来はもちろん

地球の未来にも大きな影響を持ちそうです。



2022年5月12日木曜日

「捉える」を捉えるのは難しい。

 いつも小さいカメラを鞄に入れて

ちょっとした景色、瞬間を写真に捉えるのを楽しみにしています。

時間があれば、気に入った場所にしばらく居座って

いろんな角度から、シャッターを切ります。


その景色、その対象を、どの角度から、どの距離で、どんな明るさで、どんな焦点で

捉えれば、その魅力を一番捉えたことになるのか、あれこれ模索します。

そうこうしているうちに、風が吹いてきたり、陽が翳ったりで

捉えようとしていた対象の様子が変わってしまい、今日はこれまで、となります。


カメラを構えている僕にも、どんな風に撮りたいのかがわかっていません。

ただ、もっと良い捉え方があるはずだ、これではない捉え方が

と感じられるだけです。


写真の技術も知識もない、ただの素人の趣味ですが

「なんかちがうんだよなあ」という感覚だけは、拭がたくあるのです、生意気にも。

どう撮りたいのかはっきりしたビジョンがないのに

今の撮り方でないことだけはわかっている、という面倒な状況です。


何度も同じ場所に通って、対象と向き合って、自分とも向き合って

いつか、あぁこれが自分にとっての対象を捉えるってことだ

という感覚がやってくるんじゃないかと、のんびり構えて

今日もカメラを鞄に忍ばせます。


2022年5月11日水曜日

慣れとの付き合い方は。

 物事をスムーズにこなそうと思えば

何度もそれを繰り返し、意識しなくてもできるくらいに慣れることが大事

なのですが、慣れてしまうことの弊害もまた大きいです。


慣れたことについては、あまり考えなくても、一定の成果を出すことができます。

よく似た状況下においては、という前提付きですが

慣れれば、どんな状況なら成果が出せるかもなんとなくわかりますから

慣れは、安定した成果の出しやすさと結びついています。

初心忘るべからず、とか言いますが、毎回初心のつもりで臨むのは

理想かもしれませんが、それでは疲弊してしまうようにも思います。

ですから、慣れは大切です。


しかし一方で、慣れは甘えの原因にもなります。

同じ状況なんてひとつもないのに、状況の見極めがだんだん甘くなって

いつも同じの慣れたパターンで切り抜けようとしてしまいがちです。

結果についての自己評価も甘くなり、多少の成果の下振れは、そういうこともある、とか

そのくらいの方がいい時もあるんだ、とか、自分に対する言い訳にも

慣れによる甘えが生まれます。


同じ状況なんてひとつもない、ということを肝に銘じながら

慣れとうまく付き合って、慣れを活かしつつ、慣れに頼りきらず

常に状況の変化に敏感に、その状況におけるベストを目指していく

そんな姿勢を、大切な場面では持ち続けていたいと思います。

いつもそんなストイックに思っていたら疲れるので、大切な場面だけで、

というメリハリはつけますが。。。

いつも全力!では持続性が低いということは、慣れでわかっていますので。


自分が慣れに甘えているか、慣れを活かせているかを見極めるには

心静かに自分と向き合う時間が必要だと考えています。

そんな場所に、ふらりと立ち寄ってきました。

いつも初心に帰らせてくれる場所があるのは幸せなことです。



2022年5月10日火曜日

晴れた日の朝は。

季節が変わるにつれて、気持ちのありようが変わっていくのを

1年の中で一番感じるのは 、ちょうど今頃です。


雪が溶けて、土が見えてきて、緑が芽を出し

少しずつ暖かくなり、さらに暖かくなって、半袖でも過ごせる日もちらほら出てくると

朝は早起きして走ろう!という気持ちが前夜のうちから高まるようになってきます。


まだ冬のうちや、早春の肌寒い頃は、そんな気持ちになかなかならず

奮い立たせては挫折し、ということを繰り返していましたから。


最近の晴れた日の朝は本当気持ちが良くて、走るのにぴったりです。

だから、翌日が晴れることがわかっていると、起きるのが楽しみになります。

少々の睡眠不足でも、起きて、深呼吸して、ストレッチして、走りに出かけます。

。。。なのですが、ここは注意のしどころでもあります。


若い頃は、こういう気分の成り行きに任せて走っていれば良かったのですが

50歳にもなると、そうはいきません。

晴れていても、気持ちが昂っても、「走らない日」をあえてつくって休養しないと

疲れが溜まって怪我の原因になります。

そうすると「走れない日々」がやってきて、晴れているのに気が滅入り

走れないから筋力も弱くなり、怪我が癒えても、

もとのように走れるようにはなかなかならないという負のスパイラルに陥ります。

だから、良い天気が続く時こそ、はやる気持ちをおさえて、

ゆったり休むことが大事になります。

それが「走れる日々を続ける」のに、いちばん必要なことだからです。


走ることを求めるからこそ、走りたい気持ちをおさえて、走らない。

急がば回れ、と少し似ていますかね。


本当に欲しいことを見極めてこそ、今この瞬間に湧き上がる欲求に対して

冷静に向き合えるのだと思います。

思い返せば、走りたい走りたいという気持ちに突き動かされて

走る日々を続け怪我をし、走れなくなり、どんより気持ちが沈む、ということを

何度も繰り返してきました。

若ければ怪我の治りも早いので、沈んでいた日々が嘘のようにまた走り出すますが

今は怪我の治りが遅いので、走れる心身を取り戻すのにとても時間がかかります。


自分にとって一番何が大事かを見極めて

今ここで優先すべきことを判断する。

晴れた日の朝には、自分の心身と向きあって、そんなことを考えています。




2022年5月9日月曜日

この路上はどんな場所かと問われれば。

 路上スレスレの光景を写真に撮るのが楽しくなって

撮っては眺め、撮っては眺め、トリミングを変えて、また眺めしています。

最近は、自然の景色、花、寺社仏閣などを多く撮る傾向にあったのですが

そう言えば、ちょっと前、よく街中を散歩していた頃は

裏路地をよく歩いていました。

そして怪しまれないように、控えめに写真を撮っていました。


裏路地が好きなのは、大通りにはない、生活の体温のようなものを感じるから。

ゴチャゴチャしていて、無造作にいろんなものが置かれていて

誰かに見せるための正面にはない、裏らしいゆるやかさがあります。


裏路地に限りませんが、路上は、いろんな人の活動空間が交錯する場所です。

たばこ屋さんは、タバコを売るためにありますが

タバコ屋さんの店先の路上は、タバコを売るためにあるわけではなく

そのお向かいさんのお菓子屋さんの店先でもあり

その隣の料亭を一歩出たところでもあったりします。


僕にとって路上の面白さは、こういうところにもあります。

つまり、路上は、ここはどんな場所なのかと、一度考えはじめると

答えを出すのがとても難しい、多様な見え方、意味を持つ場所だという点です。


タバコ屋から見た路上と、料亭から見た路上は、それぞれ

同じ路上であっても少しだけ、もしかしたらかなり見え方、意味合いが違います。

そこに、タバコ屋の主人でも料亭の女将でもない僕がふらりとやってきて

その路上にとって赤の他人である僕が眺める路上は、また別の意味を持ちます。

僕が料亭に入れば、料亭の女将と、その料亭についての意味を共有できますが

路上の意味は、それぞれの人に少しずつ違って現れていて

その場所の意味をひとつに定めることができず、共有も困難です。


路上は、そこを囲み、そこに関わる多様な人の眼差しの数だけ、その意味を持ち

それは時と共に変わっていくものでもあり

であるならば、路上の意味は、考えても仕方ないのではなく

いつも、どんな解釈にも開かれて、ひっそりとそこにある

と考えるのが、僕にはいちばんしっくりきます。

そして、そんな目で路上を見つめると、とてもほっこりした気持ちになります。




2022年5月8日日曜日

猫には猫の世界があるわけで。

 子供の頃は、道路に寝転がるなんてことは、当たり前の日常でしたが

いつの間にやらそんなことをするはずもない年になり

いや、もうちょっと若い頃は酔っ払って路面に転がっていたことも

なくはなかったと思いますが。。。

ともかく、街を歩く僕の目は、たいていの場合

路面から170センチ近いところを移動します。

ですから、僕の目が捉える世界とは

地上170センチから見える世界が中心的になります。

ほとんどの場合、というか身長が170センチに達した高校時代以来

ずっとその高さで世界を見てきたわけですから

その世界の見え方が僕の脳に、心身に染み付いています。

その世界の見え方を無意識的な基準として世界を考えます。


ところが、人の身長には高いも低いも多様であって

200センチの世界が当たり前の人もいれば、130センチが当たり前の人もいて

車椅子の人はもっと低くなります。

ベビーカーの幼児はさらに低くなります。

目が不自由な人は身長の高さにかかわらず、目が見える人とは全く違う世界の

捉え方をしているはずです。


身長の高い低い、目が見える見えないだけで切り分けても

世界の見え方、捉え方は、個々人によってバラバラで

そこに経験や文化や価値観が入って来れば

同じ世界に住みつつ、同じ場所に立っていても

かなり違う世界を見ていることになります。


今日、路面スレスレにカメラを構えて写真を撮り

パソコンでモノカラーに加工してみました。

出来上がった写真を見て、あぁ、これは猫が見ている世界かも、と思いました。

マンホールの蓋がすぐ眼下にあり、人間が暮らす家はすべて見上げる位置にあります。

夏は、路面から感じる熱気は、人間が感じるそれとは比較にならないでしょうね。

匂いもそうでしょう。嗅覚が鋭いですから。あ、聴覚もか。


それに何より、僕は人間ですから、人間が創る家も道路も壁も電柱も

それが何かを、意味として理解していますが、猫にとってそれらは

人間がそれに与えている意味とはかなり違う意味を持つものでしょう。

同じ世界に生きていても、猫には猫の世界がある、という当たり前のことを

路上の視点からの写真を見ながら考えました。




2022年5月7日土曜日

蓮華が咲く頃に思うのは。

 我が家の庭には、今年、蓮華の花がたくさん咲いています。

蓮華の花は、いつの間にかあまり見かけなくなりましたが

以前は、春先の田圃一面を紫に染めていたように記憶しています。


初めてその光景を見た時は、あまりに、どこを見ても紫なので

「なんでどの田んぼも紫の花が咲くんだろう」と思っていました。

時を経て、その紫の花が蓮華という花であり、蓮華が田んぼに満ちている理由を知って

あぁ、なんて見事なんだ、と感動したものです。


後に知ったのは、蓮華はその根っこに根粒菌という細菌を寄生させて

根粒菌を通じて空中の窒素が大切な養分として蓮華に取り込まれること。

根粒菌は蓮華の光合成によって生成された養分を利用することで

両者は共生していること。

そして、窒素を豊富に含んだ蓮華を田圃で育て、田植えの前にすきこむことで

田圃を養分豊かな肥えたものにしている、という営みでした。


互いに生かしあう共生関係。

どちらかがどちらかを利用し尽くすのではなく

どちらも、どちらにとっても必須の存在であるような関係。

必須でありながら、縛り付けるようなものではなく

ただただ、互いに、自然に、そこにいる関係。


このように、多様な存在が、ゆるやかに共生して

世界を創ることの豊かさを思わせてくれる、それが僕にとっての蓮華の花です。


近頃の田んぼに蓮華の花を見かけないのは

化学肥料の使用によって、必要な養分を直接、田んぼの土に加えるからのようです。

そのおかげでの、収量の安定、生産効率の向上など、恩恵は多々あるのでしょうけれど

自然のリズム、関係性と切り離されたところで得られる恩恵には

限界があるようにも思えます。



2022年5月6日金曜日

香りの記憶。

 子供の頃、父の運転する車で

海水浴に行ったことをよく思い出します。

不思議なことに海のことはあまり覚えていないのですが

潮の香りのことを、とても鮮明に覚えています。


僕の故郷、越前市は盆地ですので、海に行くには山を越えなければなりません。

家族が乗った車は、まずいったん、蝉の鳴く山の中へと入っていき

どんどん登っていき、幼心に「本当に海に行けるのかな」と思い始めた頃

下り坂が始まります。クネクネと曲がる坂道を下っていくと

海が見えるよりも、ずっと前に、海の匂いが漂ってきました。


僕が今でも鮮明に思い出すのは、この瞬間のことです。

山の中にいて、海に着くのを今か今かと楽しみにしながら

海が見えない下り坂をクネクネと下っていく時に

鼻の奥をフワッと刺激する海の香りが漂ってきた、その瞬間。

「あぁ、とうとう海に着くぞー」と気持ちが昂ったものです。


昂った気持ちで下り坂の先を凝視していると

木の間からチラチラと海が見え始めます。

その時の心の踊りようといったら、もう。


だから、僕にとって、海水浴の記憶のハイライトは

山の中で嗅ぐ海の匂い、潮の香りです。

海に着いてしまえば、そこは一面の海で

もう海の匂いを意識することもなくなるのでしょうか

その辺りのことはぼんやりとしか覚えていません。


快晴の今日の夕方、近くの河原を歩いた時、ふと思い立って

いつもよりもずっと水際に近づいてみました。

大小の石がゴロゴロと地面を覆っていて歩きにくい中を

よろめきながら水辺に近づくと、、、そこには、潮の香りが漂っていました。

どういう原理なのかわかりませんが

山から川を通って海に流れこむのですから、その途中に海の匂いがあっても

おかしくはないのでしょう。


川の流れる音と、潮の香りは、なんともいえない心地よい組み合わせでした。

その時、父の運転する車で海水浴に行った、幼い頃の記憶が蘇りました。



2022年5月5日木曜日

その水の音を耳にするのは誰。

 夕暮れ時の神社。

木の茂みを通して夕日がやわらかにさしてくる境内は

カラスの鳴き声がたまに聞こえるくらいで、とても静かでした。


その静かな境内に、ひとつだけ、ずっと同じ調子で響き続ける音がありました。

手水舎の水面に落ちる水の音です。

その音は僕にとって、そこにあるのがあまりに当たり前で

最初は、その音が響いていることに気づかなかったくらいでした。

いや、気づいてはいたのでしょうけれど、意識にのぼっていなかった

というほうが正確でしょうか。


小さな神社の小さな手水舎。

境内には僕ひとりしかおらず、その音を聞くのも僕ひとりです。

僕がくる前は、そこには誰もおらず、誰に聞かれることもなく

その水の音が、そこに響いていたのでしょう。

それは想像するしかない光景ですが、とても心を鎮めてくれる光景でした。


誰もいない静かな境内で、誰の耳に届くこともなく響く水の音。

いや、聞こえていますね、神社の境内に生きる、いろんな生き物の耳には。

ただ人がいないというだけで、そこにはいろんな命の営みが

絶えずあるのですから。


それを観察する人間がいなければ、その営みは、ないのと同じでしょうか。

物理学でそんな思考実験があったように記憶していますが

そのようなドライで厳密な考え方ではなく、今日の僕は

それを想像する人がいる限りにおいて、その存在を直接、見聞きしなくても

それは存在しているんだ、と考えたくなりました。


僕がその境内に来るずっと前から、その水の音は響き続けていて

その音をいろんな生き物が聴き続けていて

それは、僕が去った後も、ずっと続く。

そう考えると、心がふわりと、やわらかくふくらんだように感じました。




2022年5月4日水曜日

生涯で経験できる回数は。

 近所の田圃では着々と田植えが進んでいます。

我が家の周りには田圃がたくさんありますから

1年を通じて田圃の景色が刻々と変わっていく様子を見続けることができます。


ほんの数ヶ月前まで、田圃は雪に埋まっていました。

雪が解けて土が顔を出し、雑草が生え始め、田圃の色に緑に染まり始めた頃

トラクターが走り、土を耕起し、濃い灰色が面に出てきます。

冬の間、雪の下の地面のそのまた奥底で

じっとエネルギーを溜めていた土が重々しく顔を表しているように見えます。

さらに、そこに水が引き入れられ、田圃の色は空の色を映すようになります。

晴れた日は青い空の色を映し、曇りの日は灰色に、雨の日は雨が水面を叩きます。

そして今、一定の間隔で、まだ幼い稲の苗が植え込まれていきます。

一年の中で最も、田圃が整然とした姿を見せる時期ではないでしょうか。

ここから、苗が稲穂を伸ばし、実をつけ、膨らませ

黄金色に染まりながら頭を垂れていきます。


随分前に、農家の方が

「米作りは一生の間に数十回しか経験できない。いつまで経っても見習いだ」

といった意味のことを話しているを聞いたことがあります。

米が実のは1年に1回だけですから、米作りを40年しても、経験は40回だけ。

例えばサッカーでシュートの練習は何千回、何万回もできますし

試合だって1年に10回、20回とできるでしょう。

その間にサッカーが熟達していきます。

でも、米作りは、生涯で数十回。

しかも同じ条件はおそらく、1度もないでしょう。

毎年少しずつ、時に大きく違う気候条件の中で、1回、また1回と経験を重ねる。

そんなかけがえのない営みの中で生まれたお米をおいしくいただけることは

なんと幸せなことだろうかと、田植えの景色を見ながら思いました。


そして、こうして眺めることができる田植えの景色も

僕の一生の中で、わずか数十回のことなんだと

その景色のかけがえのなさを思いました。



2022年5月3日火曜日

いつもの道の、いつもは見えてない景色。

 ゴールデンウィークで、快晴で、○○宣言もなしとなれば

それは、どこもかしこもすごい人で賑わうんだろうなと思いながら

カメラ片手にゆるゆると近所を散歩しました。


普段の移動はたいてい車、あるいは自転車なので

近所の道沿いに、何があるのか、実はよく見えていません。

ジョギングする時は車や自転車の時よりは見えますが

それでも、走る行為に意識が集中しますから、景色は背景へと退きます。


カメラを持って散歩すると、カメラ効果で、景色をよく見つめるようになります。

どんな角度から、どんな距離で、どう切り取ったら気に入る写真が撮れるか

そんなことを考えながら歩くものですから、少々不審です。

あっちいったりこっちいったり、しかもきょろきょろしていて

いきなり座り込んだり、何もなさそうなところを凝視したり。


そんな僕の姿を見る人には、少し不安を与えてしまっているかもしれませんが

僕自身は、こんな何気ない散歩からとても充足感を得られます。

特別にきれいな景色があるわけでも、観光地でもなく、ただのいつもの近所ですが

見れば見るほど、あぁこんなところに、という景色が見えてきます。

といっても、本当に、言ってしまえば、たわいもないものが見えるだけなのですが

それが、なぜだか、心をほっこりさせてくれます。


道沿いの雑草。手入れされた畑。田圃のカラス。街路樹の新芽。

通り過ぎる車。自転車のお兄さん。道を掃除するおじいさん。

群生する名もしれない綺麗で小さな花々。綿毛をいっぱいたくわえたタンポポ。


いつもの道は、いつも通りなんですが

でも見ないと見えないものがたくさんあります。

素通りしている宝物のような景色って、まだまだあるんだろうなと思うと

いつもの道をまったりと歩くのがとても豊かな行為に思えてきます。



2022年5月2日月曜日

王であるための条件は。

 ハシビロコウのマスコットが5つ手元にあるので

それを色んなふうに並べて置いて、そこから見てとれる関係性を想像する

という一人遊びを楽しんでいます。


5体のハシビロコウは、それぞれ違うポーズをとっています。

いちばん目立つのは立ち上がって翼を大きく広げているもの。

それに続くのが、立ち上がってはいるけれど翼は広げず嘴を開けているもの。

次に、立ち上がって嘴を閉ざしているもの。

さらには、座り込んでいるもの。最後に、座り込んで目を閉じているもの。


この5体は、ぱっと見には、翼を大きく広げているものが

いちばん勢力がありそうで、他の4体の上に君臨してそうに見えます。

特に、センターに置いて、一段高くすると、王のように見えます。

そうすると他の4体は、王のもとにかしずいているように見えてきます。


ところが不思議なことに、座り込んで目をつむっているものをセンターに置いても

同じように、いや、さきほどとは違った形の勢力の強さが滲み出してきて

静かなる威厳、静謐の力のようなものを感じさせます。

先ほど王位にあった翼を広げた個体は、むしろ屈強な番兵のように見えてきます。


嘴を開いた個体をセンターに置くと、他の4体に教え諭しているように見えますし

目を開いて座り込んでいる個体がセンターにくれば、睨みを利かせているようで

立ち上がって嘴を閉じている個体の場合は、信頼の眼差しを送っているようでもあります。


このささやかなひとり遊びから導き出されるささやかな気づきは

一段高いところに「いかに在るか」は、集団の性質に大きく影響するということ

そして、いろいろな在り方がありえるのだ、ということでもあります。


たまたまなのですが、王位にあたる場所を一段高くするために

「はずる」という、僕の好きな金属製のパズル(知恵の輪の進化形)を置きました。

これは、どう考えても、どう動かしても、まったくハズレそうにないパズルを

いかに「はずすか」ということから「はずる」という名前を与えられています。

王位に必要なのは、どうしても解けそうにない謎めいた奥行きと高さ、かもしれないと

ひとり遊びの妄想が広がりました。



2022年5月1日日曜日

込められた願いの強さが持つ引力。

 狛犬を見かけると、どうしても近寄って写真を撮りたくなります。

狛犬はもともと獅子として伝わったとも言われていますが

獅子も好きですし、龍も、一角獣も、いわゆる幻獣と言われるジャンルが好きです。


アニメのキャラクターにもそのようなカテゴリーがあるので

幻獣を愛好する層は、かなりの数、いるのでしょう。


アニメのことはよくわかりませんが、僕が好きなのは

古来から信仰を集めてきた幻獣です。

幻獣を見出す古の人の心には

荒ぶる強さ、逞しさ、豪放さなどへの憧れを感じます。


その強い憧れが、見たこともない獣の姿を、ありありと現前させ

石や木の塊から、まるでそこに閉じ込められていた獣を救い出すかのように

彫像として生み出してきた精神の働きに、途方もない力を感じます。


見たこともない何かを白い紙に絵に描くだけでも、

文字通り想像を絶する力が必要なはずなのに

それを、石や木から削り出すのは「どうしてもその獣を現前させたい」という

ほとんど狂気にも近い執念が必要なのではないかと思います。


現在、テクノロジーの力を借りれば

古の人の労力とは比べ物にならないわずかな労力で

想像上の存在を、絵として、彫像として、動画として、現前させることができます。

そこには、古の人の狂気に近いような執念は、必ずしも必要ありません。


狛犬を見かけると、どうしても近寄って写真を撮りたくなるのは

その精巧さや力強さに惹かれるのではなく

狛犬、獅子というその存在に、古より込められてきた願い、憧れの深さにこそ

惹かれているのだと思います。




2022年4月30日土曜日

心地よい理由はわからないけれど。

 なぜだかわからないけれど、体調も気分もとってもいい日

というのがあります。例えば今日とか。

祖母の命日だし、父の三七日だし、墓参りに行ったし

祖先に手に感謝の思いで手を合わせたから、心が整って調子が良い?

それもあるかもしれませんけれど、それだけでもない気がします。


昨日の食事が良かったのかもしれないし

トレーニングが効果的だったのかもしれないし

そもそも、今日の自分がどんなコンディションかっていうのは

今日が何の日かとか、昨日どう過ごしたかとかによって

影響を受けるほど単純ではなくて

今日までの長い時間の積み重ねの先に、今日という好調があるはずで


だから、今日はとっても好調な日なのですが

理由はわかりません。

でも、ひとつだけわかっていることは、理由は必ずあるということです。

今日まで自暴自棄で自堕落な日々を送っていたのに

今日になって突然好調、ということはありえないわけで


日々の積み重ねの中で、少しずつ調子が整い

気候の変化、置かれた境遇の変化などにも、対応できて、噛み合ってきて

いろんな理由がいろんなふうに絡みあって、今日という好調。


今日の体重は、数ヶ月前の食生活の結果、とも言われます。

だから、今日という日は、遠い未来の好調な1日につながると思って

健やかに伸びやかに毎日を過ごそうと思います。







2022年4月29日金曜日

生きた道のりの跡が形となって。

 公園の緑の中を散歩していると、不気味な姿の大木に出会いました。

太い幹の一部が、裂けて中が空洞になっていたり

木肌に瘤のようなものがゴツゴツと隆起して、うねっていたり。


周りの、いかにもすくすくと育った木々の中にあって異様な姿でした。

植物のことはまったく詳しくありませんが、育つ過程で病気になったり

傷がついたりして、その過程を乗り越えた結果が

現在の異形の大樹になったのではないかと思います。


出会った時は、ギョッとしましたが、よくよく見ると

畏怖の念を起こさせるような、静謐と迫力を兼ね備えた存在感が伝わってきました。

以前に、雷に撃たれた後も生き続けている大樹を見たことがありますが

その時と同じ感覚です。

雷に撃たれた大樹は、根本から半分に裂けてしまっているにもかかわらず

堂々とした枝振りを天に向かって伸ばしていました。


病気になったり、折れたり、裂けたりした木は

もしかしたら、そうそうは生き残れないのかもしれません。

もし生き残れるのなら、異形の木々は、もっと頻繁に見られるはずですから。


こうして、困難、厄災を乗り越えたて生きてきた道のりを

その姿そのものに留めていることが、これらの大樹の存在感の源のように思えました。


木に限らず、生きた道のりは、その姿かたちに痕跡を残します。

どんな姿かたちをした存在として歳を重ねていくか

自分ごととして、考えながら、異形の大樹に向きあいました。



2022年4月28日木曜日

仕事の合間に大切なひとときを。

 今日の仕事場に少し早く着きそうだったので

近くの公園を散歩しました。

大事な仕事の前は特に、早めに動いて時間の余裕を作り

緑の中をぶらぶらと散歩することが多いです。


何をするでもなく、考えるでもなく

ただただ、ゆーっくり歩きます。

自然と心身の力が抜けてきて、脳内に空白が広がります。

目に映る緑を映るままに眺め、耳に入る風の音を聞こえるままに聴き

吸い込む息に混じるほのかな花の香を感じます。


脱力して真っ白になった心身は、いざ本番となれば鋭敏に転じて

大事な仕事で大事な役割を果たしてくれることが多いです。

大事な仕事だからといって直前まであれこれ考えるのではなく

考えるだけ考えたら、あとは緑の中を散歩し、脱力、真っ白になる方が

僕にとっては、良いようです。


今日の公園では、小径の落ち葉を掃除してくれているおじさんの姿を見かけました。

僕が、こうやって気持ちよく、のんびり散歩できているのは

こうやって働いてくれている人のおかげなんだなと思い

心の中で感謝の言葉を呟きました。


誰かの働きのおかげで自分の日常がある、と実感できることは

自分も誰かの日常のために働こうという思いを引き出してくれます。


緑の中をぶらぶら歩きながら

脱力、真っ白になり、感謝の気持ちを心に満たして仕事に臨みました。

ほんの10分ほどの散歩ですが、とても大切なひと時になりました。



2022年4月27日水曜日

菜の花や月は東に。。。

 何かを見つめるとき、それそのものの背景も必ず視界に入ります。

何かを見つめるとは、何かを背景としてそれを捉えるという相対的な認識です。

山を背景にした家と、海を背景にした家では

たとえ同じ構造の家でも、見え方が異なりますから。


そんなことを考えたのは、河川敷に咲き乱れる菜の花が視界に入ったからです。

びっしりとした密度で群生している菜の花の迫力にも魅かれましたが

僕が魅かれたのは、それより少し離れたところで

ぽつんと咲いていた菜の花でした。

それは、ずっと向こうにある大きな橋を背景に咲いていました。

ぽつんと咲いた菜の花の可憐さの向こうに橋を見るとき

ただ単に橋を見るよりも、その橋はずっと人工の堅牢さを感じさせました。


そういえば、江戸時代の歌人、与謝蕪村は

「菜の花や 月は東に 日は西に」と詠んだのでした。

俳句を鑑賞する力は、あいにく持ちあわせていないのですが

菜の花を挟んで、東に月、西に日を見つめる与謝蕪村の姿が

広大な大地の中に見えるように感じます。


そんなことを考えていたら、中学校の頃の国語の授業を思い出しました。

国語の先生が「これは壮大な句」です、といって説明してくれたのが

万葉集の歌人、柿本人麻呂の

「ひむがしの野に かぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」

でした。


小柄な国語の先生が、全身を使って、「かえりみる」を演ってみせてくれて

かぎろひ(朝日)が昇るのを見て、「かえりみたら」月が傾いているんです

これは壮大な光景です。と説明してくれたと記憶しています。


広大な大地に立って、大空を見つめる二人の歌人の姿が

河川敷の菜の花を見つめる僕の脳裏に浮かびました。


二人の姿は、教科書に出てきた時とは違って

菜の花が咲く河川敷とその上に広がる大きな空を背景にして

ずいぶんと人間くさく、身近に感じられました。





2022年4月26日火曜日

2個体から始まる世界。

 何かが、ひとつ、ひとり、いっぴき、いっぽん、あるだけでは

事態はさほど複雑ではありません。

それが、そのようにあるだけですから

もし、その何かに意識、意志があれば、それに素直に従えば良いだけでしょう。

それを観察する存在すらいないのですから、何も気にすることはありません。


ところが、何かと何かの2個体以上が、存在して

そのすくなくとも何れかに意識のようなものがあれば

とたんに事態は複雑な様相を帯びてきます。

何かは、別の何かより、大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか

比較が始まります。


比較している限りは、それらの個体の間に強い関係性は結ばれませんが

意志を持って行動する主体が2個体以上あると、関わりが生まれます。

どちらかがどちらかに働きかけ、働きかけられ、働きかけ返します。


意志を持っていれば、価値観や(そこまでいかなくても)欲求がありますから

それらは、個体によって少しずつ違い、ときに大きく違い

快不快、利害のすれ違い、衝突が生じます。

それらが生じると、それぞれの意識は、自分とは違う意識のありようがあるのだと

幸運で賢明であれば学ぶでしょうし

そうでなければ、どちらかが自分の欲求を押し通そうとするでしょう。


わずか2個体でこのような複雑なことが始まるのですから

億の単位の人間が構成する社会は、すれ違いと衝突が生まれるのが常態でしょう。

すれ違わないようにする、衝突しないようにすることも知恵でしょうけれど

これだけの数の人間が存在する場合

すれ違いや衝突など、個体間の不都合な出来事から常に学び続ける

という姿勢は、社会を構成する以上必須だと思います。

このような学びは、すれ違いと衝突を忌避しているだけでは生まれないでしょう。

助け合いの姿勢も大事ですが、これも価値観や欲求の違いによって

助けたつもりが、好意の押し付けになったりもします。

やはり、どうしても、個体間の不都合な出来事を常態としてそこから学ぶ

という姿勢が、2個体以上から構成される世界では必要だと

2個のハシビロコウのマスコットが並んでいるのを眺めながら

とりとめもなく考えました。



2022年4月25日月曜日

ツツジはどうして躑躅なのだろう?

 隣町の鯖江市には、ツツジの名所、西山公園があります。

例年ゴールデンウィークあたりがツツジの満開にあたって

公園全体が、白や朱やピンクや紫に染まります。

今は、満開一歩手前、というところでしょうか。


ところで、植物の名前の漢字表記には

植物そのものとはなかなか結びつかないような不思議な表記をたまに目にします。

それでも、向日葵(ひまわり)や山茶花(さざんか)のように

一応は、何かの植物を表しているんだろうな、とわかるものが多いです。


ところが、ツツジの場合は、漢字では「躑躅」と書きます。

よりによって「足へん」なんです。

植物なのに足?

しかも躑躅という漢字は、なんとなく髑髏に似ていて、おどろおどろしく

華やかなツツジには、とても結びつきません。


なんでこんな漢字表記なのだろう、と調べてみると

確実な根拠、由来は見つけることができませんでしたが

多くの出典に共通する由来は

「躑躅とは、歩行の進まない状態、足踏み、を意味し

ツツジを食べた羊が足踏みして死んでしまったこと」でした。

ツツジの蜜には毒があるようです。


歩けなくなった羊のエピソードほどには多くないものの

もうひとつ見つけた由来は

「見る人が足を止めるほどに美しい」というものでした。

こちらの由来を信じた方が、満開のツツジを見た時に穏やかな気持ちでいられそうです。

「食べると死ぬから躑躅と書く」と思いながら、

ツツジに満たされた公園に佇むのは背筋が寒くなりそうですから。


漢字は、たった1文字の中に、豊かな意味を持ち

その組み合わせで無限の意味を表現できるので、好きです。