路上スレスレの光景を写真に撮るのが楽しくなって
撮っては眺め、撮っては眺め、トリミングを変えて、また眺めしています。
最近は、自然の景色、花、寺社仏閣などを多く撮る傾向にあったのですが
そう言えば、ちょっと前、よく街中を散歩していた頃は
裏路地をよく歩いていました。
そして怪しまれないように、控えめに写真を撮っていました。
裏路地が好きなのは、大通りにはない、生活の体温のようなものを感じるから。
ゴチャゴチャしていて、無造作にいろんなものが置かれていて
誰かに見せるための正面にはない、裏らしいゆるやかさがあります。
裏路地に限りませんが、路上は、いろんな人の活動空間が交錯する場所です。
たばこ屋さんは、タバコを売るためにありますが
タバコ屋さんの店先の路上は、タバコを売るためにあるわけではなく
そのお向かいさんのお菓子屋さんの店先でもあり
その隣の料亭を一歩出たところでもあったりします。
僕にとって路上の面白さは、こういうところにもあります。
つまり、路上は、ここはどんな場所なのかと、一度考えはじめると
答えを出すのがとても難しい、多様な見え方、意味を持つ場所だという点です。
タバコ屋から見た路上と、料亭から見た路上は、それぞれ
同じ路上であっても少しだけ、もしかしたらかなり見え方、意味合いが違います。
そこに、タバコ屋の主人でも料亭の女将でもない僕がふらりとやってきて
その路上にとって赤の他人である僕が眺める路上は、また別の意味を持ちます。
僕が料亭に入れば、料亭の女将と、その料亭についての意味を共有できますが
路上の意味は、それぞれの人に少しずつ違って現れていて
その場所の意味をひとつに定めることができず、共有も困難です。
路上は、そこを囲み、そこに関わる多様な人の眼差しの数だけ、その意味を持ち
それは時と共に変わっていくものでもあり
であるならば、路上の意味は、考えても仕方ないのではなく
いつも、どんな解釈にも開かれて、ひっそりとそこにある
と考えるのが、僕にはいちばんしっくりきます。
そして、そんな目で路上を見つめると、とてもほっこりした気持ちになります。
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