2022年5月31日火曜日

岐路であって岐路でない。

例えば、ビルから飛び降りる選択をしてしまったら
もうその後は、どうしようもなく、来たるべき終末を受け入れるしかないのかもしれませんが
日常においては、これほど選択した後のことに決定的な影響を与えることは
さほど多くないように思います。

大事な決断の場面はいくらもありますが、
決断した後も、無限に小さな決断が続くわけで
大きな決断そのものが事後に大きな影響を持つというよりは
大きな決断をしたことに対する自分の気持ちが、その後の小さな判断に影響を与えて
少しずつ決断の影響が積み重なっていって、元に戻れないところまできてしまう
というのが実相ではないでしょうか。

ですから、生きていく上で、勝負どころの岐路がある、と力が入りすぎるよりは
最良の判断ができることなど稀というか、ほとんどないのだから
よくて次善の判断しかできないのだから
判断をした後に起きることを冷静に受け止めながら
その後の展開が、少しでもよくなるように、小さな判断を積み重ねていこう
という気持ちでいた方が、心穏やかで過ごせるように思います。

未来は、文字通り、まだ来ていないのですから
そこで何が起きるか、十分な予測など不可能ですし、
かりに十分な情報が集まったとしても、それをあれこれ分析している間にも
未来は現在へと押し寄せてきてしまいます。

未来についての十分な情報収集も分析も、完璧な判断も不可能。
であれば、絶えず未来から現在へと押し寄せてくる状況の変化の中で
起きていることをしなやかに受け止めて、自分にできる範囲のことを
せいぜい次善のことしかできないという脱力加減で、やってみて
自分の影響力の外にあることには悩まない、という姿勢でいたいと思います。

あらゆるところに異世界への入口は扉を開いているので
どこかまずいところに入り込んだとしても、そこから別のどこかへの扉は
必ず見つかるはず、そう思えば、「人生の決断!」とか力が入りすぎて
余計にまずいことになることは避けられるかなと。

そういえば、僕の好きなアクション映画の主人公は
ビルから落ちてしまっても、そこから先の生き残る道を落下しながら模索し
超人的な生還を果たす、という場面がいくつかありました。




2022年5月30日月曜日

生まれた時からそれがそこにあったから。

 侘び寂びとか、くわしくはわかりませんが

飾り立てた美しさの対極にある、時の経過ともに増してくる、

削ぎ落とされた美しさのようなものでしょうか。


海外旅行は何度か経験があるものの、日本以外で暮らしたことはなく

いつも身近に和風の何かがあるのが当たり前の環境です。

お寺があり、神社があり、日本茶があり、日本庭園があり

初詣をし、墓参りをし、床の間には生け花や掛け軸があることに

何の抵抗もなく、特段の興味もありませんが、あぁいいな、程度には思って育ちました。


でも、これは多分、当たり前のことではないのだろうなと

外国の方が身近に増えてきた今、または外国との情報交流の機会が格段に多い今

あらためて思います。


和風の文化を好んで旅行に来てくれる外国の人は多いですし

中には日本人よりもはるかに高度な知識を身につける人もいます。

ですから、日本文化を愛好し理解するレベルにおいては

日本人の僕よりも、はるかに高みに到達する外国の人は多くいるはずです。

でも、傲慢でも何でもなく、ごく当たり前の想像として

生まれた時から身の回りに当たり前にあるものを、当たり前として育った場合と

物心ついてから、後から、外部からそれを学び取ったのとでは

何かが違うように思います。


違うから、どちらかが優れていて、どちらかが劣っているということではなく

そこには確かに違いがあるのだ、という姿勢でいてこそ

他文化の理解、交流、共生が可能になるのだと思うのです。


日本に生まれ育った自分は、自分でもうまく言葉にできない色んなことを

当たり前だと見做していて、だからこそわざわざ言葉にする必要性を感じずに暮らしていて

ところが、外国の人から見たら、僕が当たり前に思っていることの、ひとつひとつに

興味や違和感を持って、時に困り果てて、時に喜び、興奮する。

そういうひとつひとつに、立ちどまって、

互いの中に生じているなかなか言葉にならない思いを、

四苦八苦しながら交換できたら、そんな時を積み重ねられたら

世界の見え方は徐々にしなやかになっていくだろうなと、思います。



2022年5月29日日曜日

異世界への入り口は。

今日のお昼ご飯は、いつもより1時間ほど遅く食べました。

空腹具合がさほどでもなかったのと、後の予定が特になかったので

そういう選択をしました。


当たり前のことですが、もし今日もいつもと同じような時間に昼食をとったら

その後どうなっていたかは、誰にもわかりません。

僕が今日の昼食の後に過ごしている時間は

いつもより1時間ほど遅く昼食をとったが故に生まれた結果の積み重ねです。

昼食に、いつ、何を、誰と食べようが、その後の散歩で誰に出会うかとは

まったく無関係に思えますが、よく考えれば、無関係だなんてとても言えません。


昼食をとった後の僕の気分や満腹具合や興味関心の方向は

多かれ少なかれ、昼食の中身に影響されていますし

僕が何時に散歩に出るかは、昼食をいつとったかに大きく影響されます。

どんな気分で散歩するかによって、どこを通るかが決まったり

いつもの道でも、注意の向け方が変わり、人との出会い方も変わります。

気分しだいでは、いつもは声をかけない人に声をかけたり

僕の表情など、いずまい次第では、いつもは声をかけてこない人が

声をかけてきてくれるかもしれません。


そもそも、今日の昼食がいつもより1時間遅くなったのは

僕が昨夜以降どんな過ごし方をしたかに影響されていますし

昨夜の過ごし方は、日中の過ごし方に影響されています。


こうやって遡っていくと、僕が今経験している時間のありようは

僕の日常の、小さな小さな選択の積み重ねの結果だということになります。

今から、僕が立ち上がるか、それともこのまま

パソコンのモニターに向き合い続けるかによって

僕がこれから経験する時間のありようは少しずつ影響を受けて

明日がどんな日になるかは、もしかして、大きく異なるかもしれません。


異世界の入り口は、あらゆるところ、あらゆる瞬間に

扉を開いて待っているようです。



2022年5月28日土曜日

ひと呼吸の間だけ、生きていられる。

偶然だと思っていたことが、必然かもしれないと思えたり
偶然と必然の間があいまいになることが、たまにあります。
今日の僕は、1ヶ月半前の偶然が、もしかして必然に近いものだったのかも
と思わされるような経験をしました。


この1ヶ月半ほど、本当にたまたま、朝晩の深呼吸が習慣になっていました。
ただ深く吸って吐いて、だけではなくて
30回深呼吸して、吐き出したらしばらく止めて、また吸ってしばらく止めて
吐き出して、また30回深呼吸、、、を繰り返すメソッドです。

ヴィム・ホフという人が開発したものです。
このオランダ人は、アイスマンの通称で知られ
独自の身体鍛錬法によって、氷風呂に長時間つかり続ける世界記録を持っていたり
短パンで極寒の高山に登ったりしている、超人じみた人です。

なんでこのヴィム・ホフの方法が気になったのか、実践しようとしたのか
今となってはうまく思い出せないのですが
この方法を知った瞬間に、よしやってみよう、と思い立ち
以来、朝晩、続けることに何の苦もなく、ごく自然に淡々と続けています。

体調によるのでしょうか、息を長く止めていられる日と、そうでない日があります。
ヴィム・ホフによれば、長く止めていることが目的ではなく
自分の体を感じ取ることが大事だそうです。

座禅でも自分の呼吸に意識を向けたりするようですし
深呼吸は心身を整えるために、かなり普遍的な方法なのかもしれません。
そういうことは、以前から知っていましたが

偶然が必然に思えたのは、僕の深呼吸の習慣が
父が亡くなった直後から始まっていることです。

ヴィム・ホフの方法をやってみようと思った時に
父のことはまったく意識になかったはずです。
その頃、読んでいた本にたまたまヴィム・ホフが紹介されていただけです。

ただ、今思い返せばその前日、呼吸が止まっていく父の姿が
強く印象に残ったのは間違いないです。

だからかどうかわかりませんが、以来、毎朝晩、深呼吸を繰り返していました。
そして今日、父の四十九日の後、親族の会食で、
親戚のおじさんが、何気なく、本当に何気なく、釈迦の言葉として

「人が生きているのはひと呼吸の間」

という言葉を口にしました。
僕に対してではなく、他の親族との会話の中で発せられた言葉だったのですが

その時、自分が父が逝去した直後から、なぜか自分が
朝晩の深呼吸を続けていることに思い至りました。
この深呼吸の習慣は、父の旅立ちと確かに関係している、そう思いました。

ひと呼吸、ひと呼吸が、自分の生のすべてだと思って丁寧に。
そんな思いが込められた釈迦の言葉だそうです。
父の最後のひと呼吸は、どんな思いでなされたのだろう、あらためて思い返しました。

あと何度、深呼吸ができるかわかりません。
ひとつひとつの呼吸を、自分の生のすべてだと思う、という姿勢を
忘れないように歩もうと思った父の四十九日でした。
合掌。





2022年5月27日金曜日

善いとはどういうことか、問われなければならない。

 空を飛べる鳥と、地を走る犬とでは

世界の見え方は全く違っていて、その2者にとって合意可能な

より良い世界のあり方は、ともに紡ぎ出すしかありません。

実際に鳥と犬が話しあうことはないでしょうけれど

人間同士でも、それに近い状況というのはごく普通の日常ではないでしょうか。


空を飛ぶ人間も、地を走り続ける人間もいませんが

職業が違えば、国が違えば、文化が違えば、歴史が違えば

それぞれが見る世界は、それぞれが思う以上に違っているでしょう。

ある国にとっての別のある国に対する軍事行為が「解放」を意味し

軍事行為を受ける側の国にとっては「侵略」を意味することがあるように、です。


「私たちにとって善いとはどういうことか?」

大真面目に語りあうことは、なかなか想像がつきません。

でも、これは、異なる考えが歴史上前例がないくらいに

近接・混在して存在する現代において、とても大切な営みではないかと思います。


日常生活における、さまざまな問題、不便は、どんどん解消されているにもかかわらず

世界のあり方の根底を支える問いは、深く問われることのないまま

消費文化のはるかな背景へと退き続けているように見えます。



2022年5月26日木曜日

大きく見せるでもなく、小さく見せるでもなく。

 他者と向き合う時に、なじみがなければ警戒し、ちょっとほぐれてくると

安心はするけれども、むずむずと頭をもたげるやっかいな心の動きがあります。

自分を少しだけ大きく見せたり、あえて小さく見せたり。

虚栄心と言われる心の動きです。


あれ、小さく見せるのは謙遜では、と思わなくもないですが

そうやって、相手を立てたり、自分を下げたりしている背後によくある心理は

小さく見せることで、それよりは少し大きく見える効果を狙っていたり

大きく見せて、実際はそうでもないという傷つき方をするくらいなら

小さく見せて、自分を守っていたり。


大きく見せる理由は、それよりはおそらくずっと分かりやすくて

相手より優位に立ちたかったり、自分の価値を認めてほしかったり、認めさせたかったり

または、自分で自分の価値を信じたかったり。


よくよく考えてみれば、他者に馴染む前に警戒する心理も

自分の価値が損なわれるのを防ぎたいという点で、根っこは同じようです。


そうやって、互いに自分の価値を守りながら向き合っている限りは

関わりが深まることはなく、表層的、形式的、儀礼的な関わりに留まるでしょう。

それは、なんだか疲れますし、せっかく他者と関わっても

何の価値も生み出さないように思います。


率直に思ったことを伝え合い、受け止め合い、刺激を受けて

新しい価値を生み出すこと、それまでの自分から一皮剥けること

それが他者と出会う価値だと思うのですが

大きく見せたり、小さく見せたりしている限りは、そうはなりそうもありません。


確かに、率直に思いを伝え合うと、衝突が生まれて、優劣が決まったり

どちからかが、または両方が傷ついたりすることがあるので

そうなるくらいなら、儀礼的に関わろうというのも知恵かもしれません。

でも、それだけでいいんでしょうか。

現代のような、いろんなことが立ち行かなくなっている時代では

儀礼の中で深まらない堂々巡りをしていても

または、剥き出しの衝突を繰り返しても

いよいよ立ち行かなくなってしまいます。


大きくも見せず、小さくも見せず、自分を押し付けず

互いに不完全な途中経過な存在であるということを認め合いながら

同じ地面に立って、関わり、思いを受け止め合い、

新たな価値を紡ぐことこそが、今、必要だと思います。



2022年5月25日水曜日

世界の見え方が一変する時。

 いつもの環境でいつもの仲間といつものように暮らしを営めば

世界の見え方は、次第に安定したものになり

世界とはこのようなものであると、素朴に信憑するようになるでしょう。

そのようにして形作られた世界の見え方は、長い時間を経ている分

そう簡単には揺るがず、次第に柔軟性を失い、

世界が変わっていることに鈍感になるかもしれません。


安定した世界の中で安心して暮らしていくためにも

世界は自分が見えているのとは違う様相をももち得るのだという

変化に対するしなやかさは常に保つ必要があると思います。

安定した世界が続くということは、決して世界が不変であることを意味せず

世界が変わっても自分自身の重心を保てるようなしなやかさを

自分が備え持つことを意味するはずです。

自分の力が遥かに及ばない世界に対して不変を求めるのはあまりに不遜であり

世界との関係性を常にしなやかに編み直し続ける力を持つことが必要だと思います。


そのようなしなやかさは、おそらく、自分の小ささや、狭さに直面させてくれるような

異質な他者との出会いから育まれるでしょう。

自分が思ったよりも大きくも強くもないと思わせてくれる他者。

これまでの当たり前は、変わり続ける世界における

一部のありようにすぎないと思わせてくれる他者。

そのような他者との邂逅は、自分の世界への眼差しを固定化することを許さず

世界のありようについての洞察力を育んでくれます。


時折、何十億の人間は、大きな生命体を構成する、

ちっぽけな細胞のひとつひとつに過ぎないのかもしれない、とか

宇宙人は、これまで想像されてきたような大きさではなく

とてつもなく小さいかも、もしかしたら、視界に収まりきれないくらい大きいかも、とか

妄想することがあります。

世界は、今、たまたま、自分にとってそう見えているに過ぎない、と言い聞かせながら。



2022年5月24日火曜日

大地に共に働きかけることが失われていいのか。

 人と人は話しあうことで関わりを持てますが

おそらくそれ以上に、ともに心身を使って活動することで

特に何らかの目標に向けて活動することで、より深く関われるはずです。


ITが発達して、遠くの人と瞬時につながれますし、膨大な情報を集めることもできます。

そんな営みが日常の多くを占めるようになって、失われつつあるのは

他者と共に、大きな対象に向かって、心身を使って具体的に働きかける営みです。

例えば、共に田畑を耕し、苗を植え、種を蒔き、除草し、肥料をやり。

このような時、人は深く関わりますし、

大地と大空という大いなる対象に向き合いますので謙虚にもなります。

大地も大空も、人が束になってかかっても、

おいそれとは言うことを聴いてくれませんから。


巨大な重機を使えば、山林を切り開いて景色を一変させることもできます。

それもまた人間の文明が達成した貴重な成果ではあるのでしょう。

でも、それは人間の心身が持つ能力を遥かに超えたところでなされていることは

忘れてはならないと思います。

重機を生み出したのは人間の知性ですが

人間の心身の営みの力と速度では、そのように山林を切り開くことはできません。

人間は自らの心身の力を増幅する装置を発明することで

傲慢にもなり、自然な営為の速度と規模を忘れがちになってもいるように思えます。


人間の心身は、象や鼠や蒲公英や向日葵と同じく、生身の生命です。

生身の生命には、それにふさわしい規模と速度があります。

人間だけがそこから逸脱して平気ではいられないと思います。

今の世界は、その逸脱に満ちているように見えます。

自らが生み出した文明によって、世界を逸脱で満たした結果が

あらゆるところに見られる文明の行き詰まりではないでしょうか。


回帰するために、知性を使うべき時が巡ってきているように思います。



2022年5月23日月曜日

とことん独りで考えること。

 昨日の記事では、煮詰まったら気分転換に

散歩したり、運動したりして、環境を変えることの効用を考えました。

今日は一転して、煮詰まってもとことん独りで考えることが大事だと言ってみたいです。


というのも、実は、現代を生きる私たちは、とことん自力で考えてみるということが

なかなかできない環境に置かれがちなのではないかと思うからです。

ですから、自分の脳力を絞り切るところまでは辿り着かない

その何歩も手前で、煮詰まったような感覚になっているだけではないでしょうか。


私たちは、受信可能な情報が多すぎます。

何かを考えようとする時、ちょっとネット検索すれば膨大な情報が降り注ぎます。

あれもある、これもある、こっちも良さそうだ、などと

情報の雨霰、濁流に呑み込まれると、じっくり自分の考えを深めることができません。

検索して、良さそうな情報をつなぎあわせて、体裁を整えることが

自分で考えることに置き換わっている場面が多いのではないでしょうか。


自己流、自己正当化、独我論、視野狭窄に陥ってもいいから

まずは、自分でとことん考えてみる、自分が納得できる考えを組み立てる。

煮詰まったと思ったら、安易に外部の情報に頼らず、そこに踏みとどまって

自分の考えの限界、袋小路がどのように出来上がっているのかを客観視して

それを解きほぐす方法、自前の出口の作り方を模索してみる。

そうしているうちに、天啓のように思考が整理されていく。

そんな瞬間が、ありえるはずなのに、現代のIT環境は、それを妨げているように見えます。


大学の時、ネット環境も何もないところで、とことん自分で考えたことは

今考えれば、荒削りで稚拙なところは多分にありましたが

それでも、今の自分に通じる、根底的なところまで考えられていました。


とことん、独りで。

いながらにして世界と繋がれる現代を生きるからこそ

大事にしたいと、思います。




2022年5月22日日曜日

思考は環境の産物か、はたまた。。。

 考え事をしていて煮詰まったら、気分転換をすると

頭がほぐれてブレイクスルーが生まれることがあります。幸運なら、ですが。

でも、おそらく、じっとしているよりは、体を動かして、環境を変えて

脳に新しい刺激を与えてあげた方が、良い結果が生まれやすいはずです。


気分転換で、いちばん気軽で、僕も大好きなのは散歩や運動です。

目に入ってくる景色が違えば、筋肉に与えられる刺激が違えば

思考の巡り具合もずいぶんと変わってきます。


煮詰まった時の刺激として、もうひとつ有効なのは、他者との対話です。

これは、必ずしも良い結果を産むとは限らないのですが

ぐるぐる同じところを回って、時には自己正当化しがちな思考を

他者の目線に晒すことで、または、他者の思考と混じりあうことで

新たな道が開けることがあります。

うまくいかないことがあるのは、他者と対立的な関係になったり

他者に否定されてしまったりして、育ちつつあったアイディアの芽が

枯れてしまうような場合です。


煮詰まったら、いや、煮詰まらなくても、思考を活性化するには

いつもと違う場所で、いつもと違う他者としなやかに関わることが有効だと思います。

そうやって、外部の刺激を受けて思考が活性化した後で

いつもの場所で、いつものように独りになると

いつもの場所が、いつもと少しだけ違って見えたりします。


いつもと違う環境で受けた刺激によって、思考がしなやかになって

物の見方が変わり、いつもの環境が変わって見えてくるからです。


こう考えてくると、思考を煮詰まらせたのはいつもの変わり映えしない環境かと思いきや

いつもの環境をいつものように捉えてしまっている思考の方かもしれないと思えてきます。

思考は環境の産物なのでしょうか、はたまた

思考こそが環境の見え方を規定しているのでしょうか。

おそらく、思考と環境が互いを規定しあいながら、ダイナミックに変容していく

というのが実相ではないかと思います。



2022年5月21日土曜日

意図なきところに意図を持つ。

 散歩の途中で、空き地にコンクリ製の土管のようなものが

無造作に積み上げてあるのを見かけました。

用途はまったく分かりませんが、周りの草の茂り具合から

しばらく放置されているように見えました。


この土管を見て、思い出したのは、

漫画「ドラえもん」に頻繁に登場する、ジャイアンやスネオがいつも遊ぶ空き地です。

そこには土管が放置されており、時にそれは、ジャイアンのリサイタルのステージになり

時には、のび太がジャイアンから逃げて隠れる場所にもなりました。


僕も近所の、なぜか積み上げてある大きな石(もはや岩)や

空き地に植わっている木、その下にある土が盛り上がっている場所などを

自分たちなりに、何かに見立てて、手を加えて、遊びの世界を作っていました。

そこになぜその石や木や土があったのか、大人たちがなぜそうしたのか

子供の僕らにはわかりませんし、ずっと放置されていたところを見ると

特に意図もなく、誰も何にも使う予定もなく、ただただ、そこにあったのでしょう。

大人たちにとっては、ないも同然、時には邪魔かもしれないそれらのものに

僕たち子供は、自分勝手に使い道を描いていく自由を見出していました。


使い道も使い方も決まっていない、ただただそこにあるそれらのものは

ワクワクする空白として僕の前にありました。

どうにでもできるもの、どうなるかわからないけど、何かしてみたくなるものとして。


今、自分の身の回りを見渡すと、何らかの意図を持ってそこに存在してるものが多く

それらで埋め尽くされ、意図もなくただ無造作にそこある、というあり方をしているものが

非常に少ないように感じます。

誰かの意図が働いて存在するもので世界が埋め尽くされた時

僕はそこに、とても窮屈なものを感じます。

何の意図もなく、ただの空白として放置された場所が、ものが世界にある時

そこには、そこをたまたま発見した誰かにとっての、世界を描き出す場所が現れます。

そして、その人がそこを去った後、そこはまた意図なき空白に戻り

他の誰かの意図がそこに見出されるのを待つことでしょう。


僕はそのような世界のあり方が好きです。



2022年5月20日金曜日

秩序と混沌の間で。

 久しぶりに大阪の街をぶらぶらと散歩しました。

今日は大阪での仕事だったので、早い目に大阪入りしたためです。

本当は散歩のためではなく、大学時代の後輩と再会するためだったのですが

彼が大幅に遅刻したために、思いがけず散歩に時間ができました。


僕は大阪に住んでいたこともありますし

大阪を離れてからも、年に何回かは大阪を訪れる機会があります。

訪れるたびに、街がどんどん変わり続けているのを感じます。

そんな様子を見ていると、まるで街が生き物のように感じられます。


近代的なビル群がニョキニョキと天に向けて伸びているすぐ足元では

ゴチャゴチャとした商店街が広がっています。


ビル群の中の洗練された店舗空間も好きですが

そこにあまり長く留まると、どことなく息苦しくなります。

僕の個人的な嗜好性の問題なのでしょうけれど

ゴチャゴチャと猥雑な、混沌とした街路に強く惹かれ、落ち着きます。


いろんな嗜好性に向けていろんな店が軒を並べ

それぞれのやり方で、自分の店をアピールしています。

そこに統一した方法、様式などはいっさいありません。

それぞれが、本当に好き勝手に、自分の店はどんな店なのかを

声高に、時に、物静かに、時に、奇妙奇天烈に、表現しています。


商店街の向こうに聳えるビル群は、僕には、合理性と秩序を象徴しているように見え

商店街は、情動性と不均衡がもたらすエネルギーを象徴しているように見えました。

どちらもが、街の現在進行形の今、であり

人の欲求と営みの結果として生じ続ける結果の集合です。


僕は、なぜか、秩序と混沌の混在状態に、強く惹かれます。

洗練しようとしつつも、どうしても綻び、そこからあふれてしまうエネルギーに惹かれます。

野放図に垂れ流されるエネルギーではなく

秩序に収まり切らずにはみ出してくるエネルギーが好きです。

僕のそういう嗜好性の原点は、もしかしたら、大学時代にあるのかもしれません。

当時、僕の周りには、秩序の重要性はおそらく十分に理解する知性を持ちながら

どうしても、時に意図的に、はみ出てしまう異形の個性を持った仲間がたくさんいました。

彼らとの日々の混沌とした関わりの中で、今日の僕の嗜好性が育まれたように思います。


今日、大幅に遅刻してきた後輩も、当時の大切な仲間のひとりです。

久しぶりの再会だからといって、約束の時間を必ず

守るような奴では、ないのです。





2022年5月19日木曜日

草刈りしながら思うことは。

 家の周りの草刈りをしました。

「除草」というのが一般的でしょうか。

僕には「草むしり」が一番しっくりきます。

幼い頃、実家に畑があって、そこの草を文字通り、「むしって」いたし

熱心に畑をしていた祖母が、よく「草むしり」という言葉を使っていたので。


で、どうして今日のこの文章の書き出しが

「草むしり」でなくて「草刈り」かというと、それは鎌を使ったからです。

家の周りは、畑とは違って土が固く、そこに丈夫な草が深く根を下ろすものですから

なかなか「むしる」ことができません。

ので、鎌の力を借りて、草の根が地中に残ってしまうことには目を瞑り

地上にある草の茎と葉だけを「刈って」いきました。


我が家の周りは、庭はもちろん、できるだけ土を土のまま露出させてあります。

よく見かけるのは、コンクリートで固めたり、砂利を敷き詰めたりして

草が生えてくるのを防いでいる様子ですが

我が家はあえて草が生えやすくなっています。


草は、どこからともなく忍び寄り、あっという間に勢いを増し

家の周りは草ぼうぼうのカオスになります。

我が家は植栽も多いですし、その上、いろんな草がびっしり生えますから

カエル、ミミズ、アリ、蝶、蜂、ヘビ、時にはツバメ、そしてネコなど

いろんな生き物が住み着きます。小さな生態系です。

他にも、いろんな昆虫が住んでいますし、植栽を植えるためにちょっと土を掘れば

立派なミミズがウネウネと顔(顔あったっけ?)を出します。


綺麗に手入れされた庭も素敵なのですが、生命力にあふれたカオスな庭も

なかなかに心地よく、夕暮れ時にカオスの中に座り込んで、草刈りすると

自然の一部になったような気持ちになります。

草刈りを全くしないで放置すると(たまに、そうなります)

本当に、びっくりするくらい、草が勢いを増して、びっしりと地表を覆います。

それはそれは、ものすごい勢いです。背の低いものから高いものまで

葉の小さなものから大きなものまで、草の香りもすごいです。


そんな様子は、あぁちゃんと手入れしなきゃなぁという思いと同時に

この生命力のすごさ!とてつもない命の勢い!と感動してしまいます。

誰も種を蒔いていないし、手入れもしないし、水もやらないし、肥料もやらない

なのに、草の勢いは止まりません。

命がもともと持っている力が、どれだけすごいか

僕は草の景色から元気をもらうのが、好きです。

元気をもらってから、草刈りします。






2022年5月18日水曜日

何事も、どこかへの途中経過だから。

その結果がすべてで、そうなってしまったらもう終わり
なんてことはそうそうなくて、たいていのことは、何が起きようと
世界は、日常は、個々人の気持ちとは無関係に、淡々と続いていきます。

でも、個人の気持ちはそうはいかなくて、望ましくない結果に直面すると
時には、全てが崩壊したような気分になり、絶望の淵に沈み
心身を壊してしまう例も少なくありません。

個人レベルで困ったことが起きようが起きまいが
日常は刻々と時を刻み、前へ前へと進んでいきます。
何が起きても、それはあっという間に過去へと流れ去ります。
何かが起きたら、その次に何かが起きて、その間に関係があったり、なかったり
どこかで完全に何かが終わる、ということは地球がなくなるまで、ありえないでしょう。

すべては、当分はやってこない終末へ向けての途中経過。
終末などということは、たかだか100年しか生きない個人には
考えても仕方のないことなので、言い換えると
良いことが起きようが、悪いことが起きようが
それは、それ以前に起きたことから、それ以後に起きることへ向けての途中経過。
しかも、止まることのない流れの中の途中経過。

最悪の出来事も、どんなに抵抗しようが、過去へと流れ去り
至福の瞬間も、どんなに抱きすくめても、思い出としてしか存在しなくなります。
どんなできごとも、ずっと自分の眼前に止まり続けることはなく
どんな現実も、その中に自分があり続けることは不可能で
すべて流れ去っていってしまいます。
自分は、開けくる未来と対面し続けるだけです。

であるならば、起きたことに、いずれ流れ去る起きたことに
束の間よろこぶのは良しとしても、絶望に絡め取られて
開けくる未来から顔を背けるのは、損しかない行為だと思います。

何が起きようが、起きたことの意味を決めるのは、それを受け止める側であって
起きたことそのものに意味はありません。
道端に100万円が落ちていても、そこに佇むカエルには何の意味もないのと似ています。

生きていられる限りは、自分がいる、今ここと
そこへ向けて開けくる未来を、深く受け止めながら
ゆったり、丁寧に、歩んでいきたいと思います。



2022年5月17日火曜日

街の思い出。

今、福井駅前では大規模な再開発が進行しています。

古びた建物群は取り壊され、空が広く見えています。

そのうち、この広い空に向かって、

新しいワクワクするような建物群が並び立つのでしょう。


街の景色をぼーっと見ていると、これまで自分が暮らしたことがある街や

訪れたことのある街の景色が、重ねあわさるように思い出されます。


京都の河原町通の賑わいに初めて「巻き込まれた」時、僕は18歳でした。

あまりの人の多さに圧倒され、どっちに進んでいいのかもわからなくなり

早くここを抜け出したい、と思ったものです。


大阪で働き始めた時、まだ日が沈み切る前から一杯飲み屋さんは賑わっていて

赤い顔した人たちが大声でおしゃべりしているのを

まだ仕事が終わっていない僕は羨ましげに見つめて通り過ぎました。


東京の通勤電車は辛かった。。。鞄から手を離しても、すし詰めの電車の中では

鞄が床に落ちないって、本当でした。どこに行っても人が多過ぎて

自分がここで暮らしているという実感は、いつまで経っても希薄で

ふわふわとお客さんのように過ごしていました。


初めて訪れた外国であるエジプトでは、ピラミッドよりも、砂漠よりも

市場の混沌としたエネルギーに魅了されました。

客引き?たちが次々に声をかけてきて、自分の店に引き入れようとします。

そう言えば、あってすぐに打ち解けお土産物屋のおじさんには

いきなり店番を頼まれたこともありました。


スペインでは、恐る恐る覗き込んだバル(飲み屋さん)で、地元の人の注文するのを

見よう見まねしてワインとおつまみを頼み、出てきた大量の小エビの揚げ物に驚き

そのうち慣れてきてバルを梯子し、朝はカフェでエスプレッソ、という毎日で。


モロッコでは、迷路のような、というか迷路そのものの旧市街を彷徨い

広場で毎夜くりひろげられるお祭り騒ぎの中、屋台を食べ歩き

そのうち、貧乏旅行者には高過ぎる絨毯を買わされたり、お金を盗られたり

その盗人を探すのに地元の人が協力してくれたり(見つからなかったけれど)。


長く暮らした京都でも6年、旅した外国の街は長くても1週間の滞在ですから

そんなに深い関わりはありませんが、どこも、やたらリアルに思い出します。

思い出すのは景色より、人の表情ですね。声は思い出さないけれど笑顔は思い出します。


どこの街にも、今こうしている間にも、いろんな人が、いろんな風に

自分の暮らしを暮らしているんだな、と当たり前のことを思います。

僕にとって、今日、たまたま見かけた福井駅前の夕暮れだって

別の暮らしを暮らしている人からは、きっと違って見えるんだろうな

ということも思いました。


世界のありようは、人の数だけある、いやいや、もっと多いですね。

僕にとっての福井の街だって、いろんな見え方をするわけですから。

誰といつ、何をしている時に、その街にいるかによって

街はまた違ったありようをするわけですから。




2022年5月16日月曜日

新幹線的なるものと、稲作的なるものと。

あと2年で、 北陸新幹線が敦賀まで開通する予定なので

我が家の近くでは、新幹線の駅と高架の工事が着々と進んでいます。

ほんの数年前まで、広大な農地ばかりだったところに

忽然と、力強いコンクリートの橋脚が立ち並び始めたと思ったら

その上に、線路を載せる橋桁がするすると伸びていきました。

あっという間に景色が変わったような印象です。


駅と高架の周辺は今も以前と変わらず、ほとんどが農地です。

高架の工事が進むすぐ下で、田植え作業が営まれているのは

とても不思議な気分にさせられる光景です。

なぜ不思議な気分になるのか、うまく説明できないのですが

新幹線というのは、時速300キロくらいで走るわけで

そのすぐ下で、数ヶ月をかけて実る稲を育てているという

そのスピードのギャップの隣接具合が、不思議の一番の要因のような気がします。


現代の技術はどこまでも発展し、大勢の人が一斉に高速で

遠距離を移動することを可能にしましたし

田圃ばかりだった光景を、数ヶ月の間に一挙に高架で貫かせることができます。

それでも、稲は1年に1度しか実りませんし

私たちは、あまり早食いをすれば体を壊しますし

サプリメントだけで食事を済ませるならば、やはり心身のどこかに皺寄せがくるでしょう。


技術の力で圧倒的な変化を起こし、利便性を一挙に高めることができる一方で

どうしても変えることができない、生命のリズムのようなものがあります。

それが、隣り合わせになっているのが、我が家のすぐそばにある新幹線の工事現場です。

おそらく、新幹線の駅周辺は、高度な開発がなされ農地は姿を消すと思います。

その時、生命のリズムを遥かに超えた速度と効率と利便性が地表を覆うでしょう。

それはおそらく、新幹線の、そしてその周辺の土地の価値を高めるはずです。


そうであっても、そのような価値の実現の仕方だけが素晴らしいわけではなく

そうではない価値が、それ以前から脈々とこの地にはあったのだということは

忘れずにおきたいと、現在の工事の様子を見ながら思いました。


いや、忘れないだけでなく、自分自身の日常に、新幹線的なものではない

稲作的なリズムのものを必ず残していかなければならないと思います。



2022年5月14日土曜日

分類する、喩えるという行為に共通するのは。

 先日の牡丹に続き、今日は芍薬の写真を撮りました。

何が「続き」かというと、どちらもボタン科に属する植物だからです。

それともうひとつ、この2つの植物は、ひとつの諺に並べ置かれているからです。


「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」


背の高い芍薬は立って見るのにふさわしく、やや低い牡丹は座って

そして、風に揺れる百合は歩いて眺めるのがふさわしい、との意味でもあり

女性の美しい立ち居振る舞いを花の美しさに喩えてもいるそうです。


異なるものの間に共通項を見出すという点で

植物を「科」に分類するという行為も、女性を花に喩えるという行為も

重なりあっています。


もし私たちが、牡丹と芍薬の違いにばかり目を奪われて

そのふたつは全く無関係な別の植物だと判断することしかできなかったら

植物学という学問は成り立たず、植物の生態を深く知ることもなかったでしょう。

花と女性は、そもそも植物と人間なんだから、同じに考えるなんてありえない

という発想しか、私たちが持たなかったら、詩のような文学は成り立たず

味気も湿り気もない、ドライな事実の断片で構成された世界になっていたでしょう。


違いの中に同じを見出す、違いを超えて何かを生み出す

違いの間に通底する本質を発掘する。


私たちは気づかずに、日々の暮らしの中で、こんな心の働かせ方をしています。

でも、こわばった心には、このような働き方ができにくいようです。

違いから衝突ばかりが生み出される報道を見るにつけ、そう思います。


心の強張りを解いて、違いに対する寛容さで世界が満たされて欲しい。

それが、創造的共生、だと考えています。



2022年5月13日金曜日

遭遇の危機と可能性。

 世界が、すべて同じ人種、いやそれどころか同じ人格の人で

構成されていたらどうでしょう。

もしかしたら、今起きているような、そして人類がこれまで起こしてきたような

痛ましい惨劇は起きないのでしょうか。

そんな馬鹿げた推測をするのは、人間の衝突は、

互いの違いを受け入れられないことから生じているからです。

違いが受け入れられずに衝突するなら、違いをなくせば衝突も無くなるのではないかと。


しかし、そんな馬鹿げた想像は、すぐに行き詰まります。

実際に同じ人格になれるかどうかは置いておくとしても

同じ人格で構成されてしまったら、自分は自分と出会い続けることになり

そもそもそれを出会というのかどうかも、怪しくなります。

出会っている感覚もないのではないでしょうか。

遺伝子が同じ双子だって育つうちに異なる人格へと成長し喧嘩します。

なのに、全く同じ人格の人同士が向き合ったら

喧嘩どころか、友情も愛情も共感もないような予感がします。


世界が多様な人格で構成されているのは、

やっかいな、時に悲惨な結末の原因でもありますが

それでも、みんながそれぞれに違っているからこそ

その出会いの先に、新たな可能性を開いてこれたのだと思います。

違いの出会いは、何も衝突だけを生むのではなく、創造もまた生みますから。

同じが出会っても、互いの限界を破れませんが

違いが出会って触発しあえば、互いの限界を破って、新たな道が開けます。


人間が地球に満ち満ちている現在

人と人が出会う可能性は、加速度的に高まっています。

いかに出会い、いかに関わるかは、ひとりひとりの未来はもちろん

地球の未来にも大きな影響を持ちそうです。



2022年5月12日木曜日

「捉える」を捉えるのは難しい。

 いつも小さいカメラを鞄に入れて

ちょっとした景色、瞬間を写真に捉えるのを楽しみにしています。

時間があれば、気に入った場所にしばらく居座って

いろんな角度から、シャッターを切ります。


その景色、その対象を、どの角度から、どの距離で、どんな明るさで、どんな焦点で

捉えれば、その魅力を一番捉えたことになるのか、あれこれ模索します。

そうこうしているうちに、風が吹いてきたり、陽が翳ったりで

捉えようとしていた対象の様子が変わってしまい、今日はこれまで、となります。


カメラを構えている僕にも、どんな風に撮りたいのかがわかっていません。

ただ、もっと良い捉え方があるはずだ、これではない捉え方が

と感じられるだけです。


写真の技術も知識もない、ただの素人の趣味ですが

「なんかちがうんだよなあ」という感覚だけは、拭がたくあるのです、生意気にも。

どう撮りたいのかはっきりしたビジョンがないのに

今の撮り方でないことだけはわかっている、という面倒な状況です。


何度も同じ場所に通って、対象と向き合って、自分とも向き合って

いつか、あぁこれが自分にとっての対象を捉えるってことだ

という感覚がやってくるんじゃないかと、のんびり構えて

今日もカメラを鞄に忍ばせます。


2022年5月11日水曜日

慣れとの付き合い方は。

 物事をスムーズにこなそうと思えば

何度もそれを繰り返し、意識しなくてもできるくらいに慣れることが大事

なのですが、慣れてしまうことの弊害もまた大きいです。


慣れたことについては、あまり考えなくても、一定の成果を出すことができます。

よく似た状況下においては、という前提付きですが

慣れれば、どんな状況なら成果が出せるかもなんとなくわかりますから

慣れは、安定した成果の出しやすさと結びついています。

初心忘るべからず、とか言いますが、毎回初心のつもりで臨むのは

理想かもしれませんが、それでは疲弊してしまうようにも思います。

ですから、慣れは大切です。


しかし一方で、慣れは甘えの原因にもなります。

同じ状況なんてひとつもないのに、状況の見極めがだんだん甘くなって

いつも同じの慣れたパターンで切り抜けようとしてしまいがちです。

結果についての自己評価も甘くなり、多少の成果の下振れは、そういうこともある、とか

そのくらいの方がいい時もあるんだ、とか、自分に対する言い訳にも

慣れによる甘えが生まれます。


同じ状況なんてひとつもない、ということを肝に銘じながら

慣れとうまく付き合って、慣れを活かしつつ、慣れに頼りきらず

常に状況の変化に敏感に、その状況におけるベストを目指していく

そんな姿勢を、大切な場面では持ち続けていたいと思います。

いつもそんなストイックに思っていたら疲れるので、大切な場面だけで、

というメリハリはつけますが。。。

いつも全力!では持続性が低いということは、慣れでわかっていますので。


自分が慣れに甘えているか、慣れを活かせているかを見極めるには

心静かに自分と向き合う時間が必要だと考えています。

そんな場所に、ふらりと立ち寄ってきました。

いつも初心に帰らせてくれる場所があるのは幸せなことです。



2022年5月10日火曜日

晴れた日の朝は。

季節が変わるにつれて、気持ちのありようが変わっていくのを

1年の中で一番感じるのは 、ちょうど今頃です。


雪が溶けて、土が見えてきて、緑が芽を出し

少しずつ暖かくなり、さらに暖かくなって、半袖でも過ごせる日もちらほら出てくると

朝は早起きして走ろう!という気持ちが前夜のうちから高まるようになってきます。


まだ冬のうちや、早春の肌寒い頃は、そんな気持ちになかなかならず

奮い立たせては挫折し、ということを繰り返していましたから。


最近の晴れた日の朝は本当気持ちが良くて、走るのにぴったりです。

だから、翌日が晴れることがわかっていると、起きるのが楽しみになります。

少々の睡眠不足でも、起きて、深呼吸して、ストレッチして、走りに出かけます。

。。。なのですが、ここは注意のしどころでもあります。


若い頃は、こういう気分の成り行きに任せて走っていれば良かったのですが

50歳にもなると、そうはいきません。

晴れていても、気持ちが昂っても、「走らない日」をあえてつくって休養しないと

疲れが溜まって怪我の原因になります。

そうすると「走れない日々」がやってきて、晴れているのに気が滅入り

走れないから筋力も弱くなり、怪我が癒えても、

もとのように走れるようにはなかなかならないという負のスパイラルに陥ります。

だから、良い天気が続く時こそ、はやる気持ちをおさえて、

ゆったり休むことが大事になります。

それが「走れる日々を続ける」のに、いちばん必要なことだからです。


走ることを求めるからこそ、走りたい気持ちをおさえて、走らない。

急がば回れ、と少し似ていますかね。


本当に欲しいことを見極めてこそ、今この瞬間に湧き上がる欲求に対して

冷静に向き合えるのだと思います。

思い返せば、走りたい走りたいという気持ちに突き動かされて

走る日々を続け怪我をし、走れなくなり、どんより気持ちが沈む、ということを

何度も繰り返してきました。

若ければ怪我の治りも早いので、沈んでいた日々が嘘のようにまた走り出すますが

今は怪我の治りが遅いので、走れる心身を取り戻すのにとても時間がかかります。


自分にとって一番何が大事かを見極めて

今ここで優先すべきことを判断する。

晴れた日の朝には、自分の心身と向きあって、そんなことを考えています。




2022年5月9日月曜日

この路上はどんな場所かと問われれば。

 路上スレスレの光景を写真に撮るのが楽しくなって

撮っては眺め、撮っては眺め、トリミングを変えて、また眺めしています。

最近は、自然の景色、花、寺社仏閣などを多く撮る傾向にあったのですが

そう言えば、ちょっと前、よく街中を散歩していた頃は

裏路地をよく歩いていました。

そして怪しまれないように、控えめに写真を撮っていました。


裏路地が好きなのは、大通りにはない、生活の体温のようなものを感じるから。

ゴチャゴチャしていて、無造作にいろんなものが置かれていて

誰かに見せるための正面にはない、裏らしいゆるやかさがあります。


裏路地に限りませんが、路上は、いろんな人の活動空間が交錯する場所です。

たばこ屋さんは、タバコを売るためにありますが

タバコ屋さんの店先の路上は、タバコを売るためにあるわけではなく

そのお向かいさんのお菓子屋さんの店先でもあり

その隣の料亭を一歩出たところでもあったりします。


僕にとって路上の面白さは、こういうところにもあります。

つまり、路上は、ここはどんな場所なのかと、一度考えはじめると

答えを出すのがとても難しい、多様な見え方、意味を持つ場所だという点です。


タバコ屋から見た路上と、料亭から見た路上は、それぞれ

同じ路上であっても少しだけ、もしかしたらかなり見え方、意味合いが違います。

そこに、タバコ屋の主人でも料亭の女将でもない僕がふらりとやってきて

その路上にとって赤の他人である僕が眺める路上は、また別の意味を持ちます。

僕が料亭に入れば、料亭の女将と、その料亭についての意味を共有できますが

路上の意味は、それぞれの人に少しずつ違って現れていて

その場所の意味をひとつに定めることができず、共有も困難です。


路上は、そこを囲み、そこに関わる多様な人の眼差しの数だけ、その意味を持ち

それは時と共に変わっていくものでもあり

であるならば、路上の意味は、考えても仕方ないのではなく

いつも、どんな解釈にも開かれて、ひっそりとそこにある

と考えるのが、僕にはいちばんしっくりきます。

そして、そんな目で路上を見つめると、とてもほっこりした気持ちになります。




2022年5月8日日曜日

猫には猫の世界があるわけで。

 子供の頃は、道路に寝転がるなんてことは、当たり前の日常でしたが

いつの間にやらそんなことをするはずもない年になり

いや、もうちょっと若い頃は酔っ払って路面に転がっていたことも

なくはなかったと思いますが。。。

ともかく、街を歩く僕の目は、たいていの場合

路面から170センチ近いところを移動します。

ですから、僕の目が捉える世界とは

地上170センチから見える世界が中心的になります。

ほとんどの場合、というか身長が170センチに達した高校時代以来

ずっとその高さで世界を見てきたわけですから

その世界の見え方が僕の脳に、心身に染み付いています。

その世界の見え方を無意識的な基準として世界を考えます。


ところが、人の身長には高いも低いも多様であって

200センチの世界が当たり前の人もいれば、130センチが当たり前の人もいて

車椅子の人はもっと低くなります。

ベビーカーの幼児はさらに低くなります。

目が不自由な人は身長の高さにかかわらず、目が見える人とは全く違う世界の

捉え方をしているはずです。


身長の高い低い、目が見える見えないだけで切り分けても

世界の見え方、捉え方は、個々人によってバラバラで

そこに経験や文化や価値観が入って来れば

同じ世界に住みつつ、同じ場所に立っていても

かなり違う世界を見ていることになります。


今日、路面スレスレにカメラを構えて写真を撮り

パソコンでモノカラーに加工してみました。

出来上がった写真を見て、あぁ、これは猫が見ている世界かも、と思いました。

マンホールの蓋がすぐ眼下にあり、人間が暮らす家はすべて見上げる位置にあります。

夏は、路面から感じる熱気は、人間が感じるそれとは比較にならないでしょうね。

匂いもそうでしょう。嗅覚が鋭いですから。あ、聴覚もか。


それに何より、僕は人間ですから、人間が創る家も道路も壁も電柱も

それが何かを、意味として理解していますが、猫にとってそれらは

人間がそれに与えている意味とはかなり違う意味を持つものでしょう。

同じ世界に生きていても、猫には猫の世界がある、という当たり前のことを

路上の視点からの写真を見ながら考えました。




2022年5月7日土曜日

蓮華が咲く頃に思うのは。

 我が家の庭には、今年、蓮華の花がたくさん咲いています。

蓮華の花は、いつの間にかあまり見かけなくなりましたが

以前は、春先の田圃一面を紫に染めていたように記憶しています。


初めてその光景を見た時は、あまりに、どこを見ても紫なので

「なんでどの田んぼも紫の花が咲くんだろう」と思っていました。

時を経て、その紫の花が蓮華という花であり、蓮華が田んぼに満ちている理由を知って

あぁ、なんて見事なんだ、と感動したものです。


後に知ったのは、蓮華はその根っこに根粒菌という細菌を寄生させて

根粒菌を通じて空中の窒素が大切な養分として蓮華に取り込まれること。

根粒菌は蓮華の光合成によって生成された養分を利用することで

両者は共生していること。

そして、窒素を豊富に含んだ蓮華を田圃で育て、田植えの前にすきこむことで

田圃を養分豊かな肥えたものにしている、という営みでした。


互いに生かしあう共生関係。

どちらかがどちらかを利用し尽くすのではなく

どちらも、どちらにとっても必須の存在であるような関係。

必須でありながら、縛り付けるようなものではなく

ただただ、互いに、自然に、そこにいる関係。


このように、多様な存在が、ゆるやかに共生して

世界を創ることの豊かさを思わせてくれる、それが僕にとっての蓮華の花です。


近頃の田んぼに蓮華の花を見かけないのは

化学肥料の使用によって、必要な養分を直接、田んぼの土に加えるからのようです。

そのおかげでの、収量の安定、生産効率の向上など、恩恵は多々あるのでしょうけれど

自然のリズム、関係性と切り離されたところで得られる恩恵には

限界があるようにも思えます。



2022年5月6日金曜日

香りの記憶。

 子供の頃、父の運転する車で

海水浴に行ったことをよく思い出します。

不思議なことに海のことはあまり覚えていないのですが

潮の香りのことを、とても鮮明に覚えています。


僕の故郷、越前市は盆地ですので、海に行くには山を越えなければなりません。

家族が乗った車は、まずいったん、蝉の鳴く山の中へと入っていき

どんどん登っていき、幼心に「本当に海に行けるのかな」と思い始めた頃

下り坂が始まります。クネクネと曲がる坂道を下っていくと

海が見えるよりも、ずっと前に、海の匂いが漂ってきました。


僕が今でも鮮明に思い出すのは、この瞬間のことです。

山の中にいて、海に着くのを今か今かと楽しみにしながら

海が見えない下り坂をクネクネと下っていく時に

鼻の奥をフワッと刺激する海の香りが漂ってきた、その瞬間。

「あぁ、とうとう海に着くぞー」と気持ちが昂ったものです。


昂った気持ちで下り坂の先を凝視していると

木の間からチラチラと海が見え始めます。

その時の心の踊りようといったら、もう。


だから、僕にとって、海水浴の記憶のハイライトは

山の中で嗅ぐ海の匂い、潮の香りです。

海に着いてしまえば、そこは一面の海で

もう海の匂いを意識することもなくなるのでしょうか

その辺りのことはぼんやりとしか覚えていません。


快晴の今日の夕方、近くの河原を歩いた時、ふと思い立って

いつもよりもずっと水際に近づいてみました。

大小の石がゴロゴロと地面を覆っていて歩きにくい中を

よろめきながら水辺に近づくと、、、そこには、潮の香りが漂っていました。

どういう原理なのかわかりませんが

山から川を通って海に流れこむのですから、その途中に海の匂いがあっても

おかしくはないのでしょう。


川の流れる音と、潮の香りは、なんともいえない心地よい組み合わせでした。

その時、父の運転する車で海水浴に行った、幼い頃の記憶が蘇りました。



2022年5月5日木曜日

その水の音を耳にするのは誰。

 夕暮れ時の神社。

木の茂みを通して夕日がやわらかにさしてくる境内は

カラスの鳴き声がたまに聞こえるくらいで、とても静かでした。


その静かな境内に、ひとつだけ、ずっと同じ調子で響き続ける音がありました。

手水舎の水面に落ちる水の音です。

その音は僕にとって、そこにあるのがあまりに当たり前で

最初は、その音が響いていることに気づかなかったくらいでした。

いや、気づいてはいたのでしょうけれど、意識にのぼっていなかった

というほうが正確でしょうか。


小さな神社の小さな手水舎。

境内には僕ひとりしかおらず、その音を聞くのも僕ひとりです。

僕がくる前は、そこには誰もおらず、誰に聞かれることもなく

その水の音が、そこに響いていたのでしょう。

それは想像するしかない光景ですが、とても心を鎮めてくれる光景でした。


誰もいない静かな境内で、誰の耳に届くこともなく響く水の音。

いや、聞こえていますね、神社の境内に生きる、いろんな生き物の耳には。

ただ人がいないというだけで、そこにはいろんな命の営みが

絶えずあるのですから。


それを観察する人間がいなければ、その営みは、ないのと同じでしょうか。

物理学でそんな思考実験があったように記憶していますが

そのようなドライで厳密な考え方ではなく、今日の僕は

それを想像する人がいる限りにおいて、その存在を直接、見聞きしなくても

それは存在しているんだ、と考えたくなりました。


僕がその境内に来るずっと前から、その水の音は響き続けていて

その音をいろんな生き物が聴き続けていて

それは、僕が去った後も、ずっと続く。

そう考えると、心がふわりと、やわらかくふくらんだように感じました。




2022年5月4日水曜日

生涯で経験できる回数は。

 近所の田圃では着々と田植えが進んでいます。

我が家の周りには田圃がたくさんありますから

1年を通じて田圃の景色が刻々と変わっていく様子を見続けることができます。


ほんの数ヶ月前まで、田圃は雪に埋まっていました。

雪が解けて土が顔を出し、雑草が生え始め、田圃の色に緑に染まり始めた頃

トラクターが走り、土を耕起し、濃い灰色が面に出てきます。

冬の間、雪の下の地面のそのまた奥底で

じっとエネルギーを溜めていた土が重々しく顔を表しているように見えます。

さらに、そこに水が引き入れられ、田圃の色は空の色を映すようになります。

晴れた日は青い空の色を映し、曇りの日は灰色に、雨の日は雨が水面を叩きます。

そして今、一定の間隔で、まだ幼い稲の苗が植え込まれていきます。

一年の中で最も、田圃が整然とした姿を見せる時期ではないでしょうか。

ここから、苗が稲穂を伸ばし、実をつけ、膨らませ

黄金色に染まりながら頭を垂れていきます。


随分前に、農家の方が

「米作りは一生の間に数十回しか経験できない。いつまで経っても見習いだ」

といった意味のことを話しているを聞いたことがあります。

米が実のは1年に1回だけですから、米作りを40年しても、経験は40回だけ。

例えばサッカーでシュートの練習は何千回、何万回もできますし

試合だって1年に10回、20回とできるでしょう。

その間にサッカーが熟達していきます。

でも、米作りは、生涯で数十回。

しかも同じ条件はおそらく、1度もないでしょう。

毎年少しずつ、時に大きく違う気候条件の中で、1回、また1回と経験を重ねる。

そんなかけがえのない営みの中で生まれたお米をおいしくいただけることは

なんと幸せなことだろうかと、田植えの景色を見ながら思いました。


そして、こうして眺めることができる田植えの景色も

僕の一生の中で、わずか数十回のことなんだと

その景色のかけがえのなさを思いました。



2022年5月3日火曜日

いつもの道の、いつもは見えてない景色。

 ゴールデンウィークで、快晴で、○○宣言もなしとなれば

それは、どこもかしこもすごい人で賑わうんだろうなと思いながら

カメラ片手にゆるゆると近所を散歩しました。


普段の移動はたいてい車、あるいは自転車なので

近所の道沿いに、何があるのか、実はよく見えていません。

ジョギングする時は車や自転車の時よりは見えますが

それでも、走る行為に意識が集中しますから、景色は背景へと退きます。


カメラを持って散歩すると、カメラ効果で、景色をよく見つめるようになります。

どんな角度から、どんな距離で、どう切り取ったら気に入る写真が撮れるか

そんなことを考えながら歩くものですから、少々不審です。

あっちいったりこっちいったり、しかもきょろきょろしていて

いきなり座り込んだり、何もなさそうなところを凝視したり。


そんな僕の姿を見る人には、少し不安を与えてしまっているかもしれませんが

僕自身は、こんな何気ない散歩からとても充足感を得られます。

特別にきれいな景色があるわけでも、観光地でもなく、ただのいつもの近所ですが

見れば見るほど、あぁこんなところに、という景色が見えてきます。

といっても、本当に、言ってしまえば、たわいもないものが見えるだけなのですが

それが、なぜだか、心をほっこりさせてくれます。


道沿いの雑草。手入れされた畑。田圃のカラス。街路樹の新芽。

通り過ぎる車。自転車のお兄さん。道を掃除するおじいさん。

群生する名もしれない綺麗で小さな花々。綿毛をいっぱいたくわえたタンポポ。


いつもの道は、いつも通りなんですが

でも見ないと見えないものがたくさんあります。

素通りしている宝物のような景色って、まだまだあるんだろうなと思うと

いつもの道をまったりと歩くのがとても豊かな行為に思えてきます。



2022年5月2日月曜日

王であるための条件は。

 ハシビロコウのマスコットが5つ手元にあるので

それを色んなふうに並べて置いて、そこから見てとれる関係性を想像する

という一人遊びを楽しんでいます。


5体のハシビロコウは、それぞれ違うポーズをとっています。

いちばん目立つのは立ち上がって翼を大きく広げているもの。

それに続くのが、立ち上がってはいるけれど翼は広げず嘴を開けているもの。

次に、立ち上がって嘴を閉ざしているもの。

さらには、座り込んでいるもの。最後に、座り込んで目を閉じているもの。


この5体は、ぱっと見には、翼を大きく広げているものが

いちばん勢力がありそうで、他の4体の上に君臨してそうに見えます。

特に、センターに置いて、一段高くすると、王のように見えます。

そうすると他の4体は、王のもとにかしずいているように見えてきます。


ところが不思議なことに、座り込んで目をつむっているものをセンターに置いても

同じように、いや、さきほどとは違った形の勢力の強さが滲み出してきて

静かなる威厳、静謐の力のようなものを感じさせます。

先ほど王位にあった翼を広げた個体は、むしろ屈強な番兵のように見えてきます。


嘴を開いた個体をセンターに置くと、他の4体に教え諭しているように見えますし

目を開いて座り込んでいる個体がセンターにくれば、睨みを利かせているようで

立ち上がって嘴を閉じている個体の場合は、信頼の眼差しを送っているようでもあります。


このささやかなひとり遊びから導き出されるささやかな気づきは

一段高いところに「いかに在るか」は、集団の性質に大きく影響するということ

そして、いろいろな在り方がありえるのだ、ということでもあります。


たまたまなのですが、王位にあたる場所を一段高くするために

「はずる」という、僕の好きな金属製のパズル(知恵の輪の進化形)を置きました。

これは、どう考えても、どう動かしても、まったくハズレそうにないパズルを

いかに「はずすか」ということから「はずる」という名前を与えられています。

王位に必要なのは、どうしても解けそうにない謎めいた奥行きと高さ、かもしれないと

ひとり遊びの妄想が広がりました。



2022年5月1日日曜日

込められた願いの強さが持つ引力。

 狛犬を見かけると、どうしても近寄って写真を撮りたくなります。

狛犬はもともと獅子として伝わったとも言われていますが

獅子も好きですし、龍も、一角獣も、いわゆる幻獣と言われるジャンルが好きです。


アニメのキャラクターにもそのようなカテゴリーがあるので

幻獣を愛好する層は、かなりの数、いるのでしょう。


アニメのことはよくわかりませんが、僕が好きなのは

古来から信仰を集めてきた幻獣です。

幻獣を見出す古の人の心には

荒ぶる強さ、逞しさ、豪放さなどへの憧れを感じます。


その強い憧れが、見たこともない獣の姿を、ありありと現前させ

石や木の塊から、まるでそこに閉じ込められていた獣を救い出すかのように

彫像として生み出してきた精神の働きに、途方もない力を感じます。


見たこともない何かを白い紙に絵に描くだけでも、

文字通り想像を絶する力が必要なはずなのに

それを、石や木から削り出すのは「どうしてもその獣を現前させたい」という

ほとんど狂気にも近い執念が必要なのではないかと思います。


現在、テクノロジーの力を借りれば

古の人の労力とは比べ物にならないわずかな労力で

想像上の存在を、絵として、彫像として、動画として、現前させることができます。

そこには、古の人の狂気に近いような執念は、必ずしも必要ありません。


狛犬を見かけると、どうしても近寄って写真を撮りたくなるのは

その精巧さや力強さに惹かれるのではなく

狛犬、獅子というその存在に、古より込められてきた願い、憧れの深さにこそ

惹かれているのだと思います。