2022年5月21日土曜日

意図なきところに意図を持つ。

 散歩の途中で、空き地にコンクリ製の土管のようなものが

無造作に積み上げてあるのを見かけました。

用途はまったく分かりませんが、周りの草の茂り具合から

しばらく放置されているように見えました。


この土管を見て、思い出したのは、

漫画「ドラえもん」に頻繁に登場する、ジャイアンやスネオがいつも遊ぶ空き地です。

そこには土管が放置されており、時にそれは、ジャイアンのリサイタルのステージになり

時には、のび太がジャイアンから逃げて隠れる場所にもなりました。


僕も近所の、なぜか積み上げてある大きな石(もはや岩)や

空き地に植わっている木、その下にある土が盛り上がっている場所などを

自分たちなりに、何かに見立てて、手を加えて、遊びの世界を作っていました。

そこになぜその石や木や土があったのか、大人たちがなぜそうしたのか

子供の僕らにはわかりませんし、ずっと放置されていたところを見ると

特に意図もなく、誰も何にも使う予定もなく、ただただ、そこにあったのでしょう。

大人たちにとっては、ないも同然、時には邪魔かもしれないそれらのものに

僕たち子供は、自分勝手に使い道を描いていく自由を見出していました。


使い道も使い方も決まっていない、ただただそこにあるそれらのものは

ワクワクする空白として僕の前にありました。

どうにでもできるもの、どうなるかわからないけど、何かしてみたくなるものとして。


今、自分の身の回りを見渡すと、何らかの意図を持ってそこに存在してるものが多く

それらで埋め尽くされ、意図もなくただ無造作にそこある、というあり方をしているものが

非常に少ないように感じます。

誰かの意図が働いて存在するもので世界が埋め尽くされた時

僕はそこに、とても窮屈なものを感じます。

何の意図もなく、ただの空白として放置された場所が、ものが世界にある時

そこには、そこをたまたま発見した誰かにとっての、世界を描き出す場所が現れます。

そして、その人がそこを去った後、そこはまた意図なき空白に戻り

他の誰かの意図がそこに見出されるのを待つことでしょう。


僕はそのような世界のあり方が好きです。



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