散歩の途中で、空き地にコンクリ製の土管のようなものが
無造作に積み上げてあるのを見かけました。
用途はまったく分かりませんが、周りの草の茂り具合から
しばらく放置されているように見えました。
この土管を見て、思い出したのは、
漫画「ドラえもん」に頻繁に登場する、ジャイアンやスネオがいつも遊ぶ空き地です。
そこには土管が放置されており、時にそれは、ジャイアンのリサイタルのステージになり
時には、のび太がジャイアンから逃げて隠れる場所にもなりました。
僕も近所の、なぜか積み上げてある大きな石(もはや岩)や
空き地に植わっている木、その下にある土が盛り上がっている場所などを
自分たちなりに、何かに見立てて、手を加えて、遊びの世界を作っていました。
そこになぜその石や木や土があったのか、大人たちがなぜそうしたのか
子供の僕らにはわかりませんし、ずっと放置されていたところを見ると
特に意図もなく、誰も何にも使う予定もなく、ただただ、そこにあったのでしょう。
大人たちにとっては、ないも同然、時には邪魔かもしれないそれらのものに
僕たち子供は、自分勝手に使い道を描いていく自由を見出していました。
使い道も使い方も決まっていない、ただただそこにあるそれらのものは
ワクワクする空白として僕の前にありました。
どうにでもできるもの、どうなるかわからないけど、何かしてみたくなるものとして。
今、自分の身の回りを見渡すと、何らかの意図を持ってそこに存在してるものが多く
それらで埋め尽くされ、意図もなくただ無造作にそこある、というあり方をしているものが
非常に少ないように感じます。
誰かの意図が働いて存在するもので世界が埋め尽くされた時
僕はそこに、とても窮屈なものを感じます。
何の意図もなく、ただの空白として放置された場所が、ものが世界にある時
そこには、そこをたまたま発見した誰かにとっての、世界を描き出す場所が現れます。
そして、その人がそこを去った後、そこはまた意図なき空白に戻り
他の誰かの意図がそこに見出されるのを待つことでしょう。
僕はそのような世界のあり方が好きです。
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