2022年6月14日火曜日

今日の昼食の味わいを決めたのは。

遠く高くを目指して行われる営みは説得力や求心力を持つのだと
手間暇かけて作られた天ぷらそばを食べながら思いました。

地味でしたが、とても清潔で落ち着いた雰囲気のお店でした。
新聞や雑誌が置いてあって、写真が飾ってあって
片付け前の食器がカウンターに仮置きされていて
という、どこにでもあるような光景が、なぜかとても落ち着いて見えました。

店主は、最小限のことしか話さないような接客でした。
メニューの選択肢はとても少なく、そっけない表記でした。

さほどお客さんがいるわけではありませんでしたが
僕の注文した蕎麦が出てくるまで、ずいぶんと待ちました。
お腹が空いていたはずなのに、待っている時間がちっとも苦痛ではありませんでした。
カウンターの向こうで蕎麦を作っている様子がチラチラ目に入るのですが
店主の調理する姿が、心が鎮まった熟練の職人のように見えました。
その姿を目にして待っていると、心が整ってくるように思えました。

ついに運ばれてきた蕎麦は、見た目も、味も、抜群でした。
手間暇かけて作られた蕎麦を、手間暇かけて(僕はもともと、非常に早食いです)
じっくり味わいながらいただきました。

この蕎麦を作る店主の目指しているところ、心がけているところが
チェーン展開している店では、そう易々と真似できない高みにあることが
すぐにわかりました。

どんな仕事でも、遠く高くを目指して営むこと
それこそが一番大事なんだと、感じさせてくれたお昼のひと時でした。



2022年6月13日月曜日

少数派に見えて実は。

 まわりを見渡すと、自分の意見が少数派であることになんとなく気づき

意見を表明しずらいような気持ちになることがあります。

あえて少数派であることを露見させて好奇の(または嫌悪の)目を集めるよりは

黙って状況の推移を見守ろうという判断になりがちです。


これは何も、僕に限ったことではなく、

多くの人に見られがちな心の動きではないでしょうか。

つまり、状況を見て、自分の意見を表明することを踏みとどまっている人は

実は結構、多いのではないか、ということです。


直接の話しあいにおける合意の方向性にせよ、

社会の雰囲気(いわゆる世論といわれるもの)にせよ

意志を表明した人たちの声が基調になって形作られていきます。

それは、当然、そうなるしかないのですが、その背後で表明されていない

いわゆるサイレントマジョリティな意見が、かなりありえるとしたら

そのような合意形成のあり方は、

そこに集う人の実態を反映していないということになります。


会議では、声の大きい人の意見が通りやすい、とよく言われますが

それは、いったん声を大にしてはっきりとした意見が投げ込まれると

それに追従する意見は言いやすくなり、それに反する意見は言いにくくなる

という心の動きによるのでしょう。

であれば、早い段階で、大きな声ではっきり意見を言うと通りやすくなる

と言えるかもしれません。

その他の意見を持つ人たちは、自分が少数派だと思い込んでしまって

意見の表明を控えてしまうので、声の大きい人の意見が主旋律になりやすいですから。


少数派に思えたら、実は、同じように自分が少数派だと思い込んでいる人が

思いのほか多数存在するのではないかと冷静になって

自分の意見を場に投げ入れてみるのは、話しあいを有意義にするにあたって

とても大切な姿勢であるように思います。


その投げ込み方が、そうでない意見を否定してかかるようなものであれば

不毛な論争になりますが、話しあいとは、不完全な視点を持つもの同士が集ってするものだ

という地点から、やんわりと投げ込みあうことで

それぞれの意見の角が取れるだけでなく、つながりやすさ、融合しやすさが増し

AかBか、という競合ではなく、AとBからCを生み出す

という創造へと道がひらけていくはずだと思います。




2022年6月12日日曜日

多すぎる情報源に乱される。

 筋トレしていたり、ランニングしていたりする時は

その瞬間にしていることに集中しやすいのですが

他の時は、いろいろ気が散っているなぁと、あらためて自分の精神状態を思います。

こうやって、文章を綴っていても、パソコンの画面からは

さまざまな情報が飛び込んできますし、目の前にはスマホもありますから

余計に情報、刺激は多いです。


情報源が多いというだけでなく、保持している情報が多くて、なおかつランダムだと

頭の中が常時混線状態になる、という恐れもあります。

実際、自分の脳内がそんな状態になって、

集中力を保ったり、回復したりするのが大変だと感じることも多々あります。


もし自分の脳みそがAIのように、瞬時に大量のランダムな情報を解析できるなら

情報量の多さは、判断の正確さや、もしかしたら創造性にもつながるかもしれませんが

自分の脳みその状態を観察する限り、そうではないようです。


おそらく、理想状態は、絞り込まれた目的の実現に対して

必要な情報を集め、随時、体系化して整理していき

時折、気分転換のように、ランダムな、畑違いの情報の海で遊ぶ

ようなものではないかと思います。


使いこなせないくらいなら、振り回され、乱されるくらいなら

情報は、今よりずっと少なくて良いのではないかと思います。


膨大な情報に触れる機会に溢れていて

かえって生産性、創造性が損なわれているのではないか

もっともっと、情報源を狭く絞り込み、触れる情報を減らし

その分、落ち着いて、深く、思索する、そんな方向を目指すべきかもしれないと

今は、考えています。


ガチャガチャで不動明王のフィギュアを手に入れたのですが

不動明王が、心の迷い、煩悩を取り除く存在だと知ったので

こんなふうに思考が動いたのかもしれません。

それは、余計な情報から得られたインスピレーションなわけですが。。。



2022年6月11日土曜日

わかったようでわからない話。

 勉強であっても、スポーツであっても

わかるという感覚は、できた後にこそ実感できるものなんだなと、改めて思います。


本を読んでいる時、説明を聞いている時にだって、わかった、と感じます。

だからこそ前に進めるのですが、しかし、わかったからといって

すぐに体現できるわけでもなく、何度も試行錯誤しながら出来るようになるものです。


そうして出来るようになると、初めに「わかった」と思っていた自分の感覚が

いかに曖昧でいい加減なものだったかがわかります。


説明を聞いている時の「わかった」感は、本当に雑な感覚で(あくまでも僕の場合)

自分のそれまでの経験の範囲でわかる範囲をわかっているに過ぎません。


できるようになると、できたという感覚だけでなく、そこに至る試行錯誤の経験の分も

自分のわかる範囲が広がっていて、それで初めて、わかるべきことがわかり

自分がいかにわかっていなかったかがわかる、という構造になっているんだと

何かができるようになるたびに、近頃、ことさらに思うようになりました。


わかったからといって、できるわけではない、とか言われますが

実際のところは、わかっていないからこそ、できないのでしょうし

できるまでは、何がわかっているかは、わからない

ということなのでしょう。



2022年6月10日金曜日

ライバルの効用。

 陸上の日本選手権、男子100m決勝を観ていました。

予想通り、サニブラウン選手が優勝でしたが、思ったより僅差でした。

隣の選手が想定よりも前にいたので、少し力が入り過ぎたのでしょうか

好条件の割には記録が伸びていないように思いました。


自分が極めようとする分野で、それを同じように志す仲間、ライバルがいることは

自分ひとりでは引き出せない力を、思いがけず引き出してくれる効用があるようです。

ひとりで黙々とがんばって練習しても、どうしても突破できなかった壁が

仲間と練習することや、試合でライバルに勝つことを目指すことで

ついに突破できる、というエピソードを聞くことがよくあります。


しかし一方で、ライバルに先行されると、必要以上に力が入ってしまい

自分本来のパフォーマンスを発揮することが出来なくなることもあります。

ひとりでなら伸びやかに走れるのに、ライバルと競り合うことで

走りがぎこちなくなって遅くなってしまうこともまた、よくある話です。


ライバルと良い影響を与え合う条件とは、どのようなものなのでしょう。


ひとつ、すぐに思いつくことは、負けることを恐れると

過剰に力が入ってしまい、本来のパフォーマスを失うということです。

ライバルが先行した場面で自分を見失うのは、「負け」の可能性が意識を乱すからでしょう。

すると、勝ち負けを意識するのではなく、

別の何かを意識した方が良いということかもしれません。それはなんでしょう。


それはおそらく、最高のパフォーマンス、境地に達すること、ではないかと考えます。

100mを43歩で走るとして(サニブラウン選手はそのくらいだそうです)

最高の43歩をいかに実現するか、そのための準備の時間をいかに充実させるか

そこに意識を集中して、やれることをすべてやる、それで出た結果は素直に受け入れる。

そのような姿勢を保とうと試みる時にこそ

ライバルと良い影響を与え合えるのではないでしょうか。

ライバルがいてくれることが、最高の境地への感覚をより鋭敏にしてくれる

まだ先があるはずだ、さらなる高みがあるはずだと、思わせてくれることにつながる。


100m決勝より前に行われた1500m決勝で

後ろから抜かれた瞬間、抜き去る相手を横目で見てしまった選手が

そのままズルズルと後退していくのを目にしました。

その時、その選手の脳裏には敗北への恐れが、よぎってしまったのではないかと

素晴らしい真剣勝負を観戦しながら、思いました。





2022年6月9日木曜日

その頃、僕はグレムリンに夢中でした。

 確か、僕が中学生の頃、まだ映画を観にいくことに特別感があった頃の話です。

当時、「ゴーストバスターズ」と「グレムリン」という映画が

ほぼ同時期に封切られていたように記憶しています。

テレビの予告CMを見たせいか

書店の雑誌コーナーで立ち読みした時に惹きつけられたのか

僕は、そのどちらの映画も見たくてしょうがありませんでした。


でも、近くの映画館では上映されておらず

電車に乗って、大きな街まで遠出しなければなりませんでしたし

(それはおそらく、内気な僕には大冒険に値するくらい勇気が必要で。。。)

お小遣いも足りていなかったのだと思います。

観たいな、観たいな、と思っているうちに時が過ぎていきました。


実は、その2本の映画をその時に観たのかどうか、記憶が定かではありません。

そんなに観たかったのに、なんではっきり覚えていないかというと

ひとつには、小説版を繰り返し読んで情景が頭に中に描かれたせいであり

ふたつには、その後、ビデオ版で何度も観たせいです。


観たい観たいと思っていた中学生の頃、僕の様子を見た祖父が

ふたつの映画の原作・ノベライズ本を買ってくれました。

僕はその2冊の本を繰り返し繰り返し読み、情景が頭の中に浮かぶくらいになっていました。

その後、どちらかの映画、おそらくゴーストバスターズを、友人たちと観に行ったのですが

その時は、小説を読みながら頭の中に描いていた情景を追体験しているような

感覚だったと思います。


その後、大学に入ってから、レンタルビデオで、どちらの映画も落ち着いて観ました。

それは、はっきり覚えています。

あぁこれが、中学生の頃に観たくて仕方なかったあの映画なんだ、と

しみじみ思い出しながら観た覚えがあります。

本で読んだ通りに、それ以上に、ワクワクし、夢中になれました。

ですから、大学生の時に観た記憶が、中学生の時の記憶と混ざってしまって

ワクワクしたのが、中学生の頃の感覚なのか、それとも大学生の頃のものか

あいまいになってしまっているのです。


後にも先にも、あんなに熱中して映画の原作本を読んだことはありません。

そんなに面白い作品なのか、とあらためて考えると

その後にたくさんの本を読み、映画を観た経験をふまえれば

何が当時の僕をあれほど夢中にさせたのか、うまく思い出せません。


中学生の頃、まだ映画を観るということが特別なことで

観たくて観たくて仕方なかった渇望状態の中で、与えられた本だったからこそ

そこまで夢中になったのではないかと思います。

飢餓状態で手にした食糧が、極上の味わいに思える、というのと近いかもしれません。

中学生の頃の僕の感覚に、ピタリとハマる何かがあったのかもしれませんし。

幸せな出会い方をした映画だったなぁと思い返しています。



2022年6月8日水曜日

偶然の出会いの正体は。

 不思議な日でした。

出先で、ふらりと散歩した商店街に、それはありました。

まるで今日の僕を待っているかのようで、驚きました。

なぜなら、それは、僕が最近、お気に入りの趣味にしていることと

とても関係の深い場所だったからです。


それがそこにあるなんて、僕はまったく知らずに、その地を訪れていましたし

近頃の僕はそれにとても関心が向いていたから、その場所を発見しましたが

少し前の僕ならば、その場所を見かけても、

特に関心を示さずに素通りしたかもしれません。


このところ毎日のようにそれを眺め、触っていたところに

たまたまでかけた先に、それの総本山のような場所があったわけです。

意味のある偶然の一致、シンクロニシティとでも言いましょうか。


不思議な出会いとは、そのようなものかもしれません。

向こうがこちらに近づいてくる場合にせよ、こちらが向こうに近づく場合にせよ

出会いが成立するには、こちらがそれに関心を向け、

価値あるものとして認識する必要があります。

でなければ、素通り、すれ違い、で終わってしまいます。


そう考えると、世界のあらゆる場所で、いろんなものが出逢われるのを待っていて

出会えるかどうかは、こちらのアンテナの開き具合による

ということなのかもしれません。


偶然の出会いだ!と喜ぶということは、出会う対象に価値を認めているからであり

価値を認めるということは、そのことについて日々考えていたからであり

だから、そうでなければ素通りするはずの、ずっとそこにあったものに

「出会い」として遭遇することができるわけですから。


そして多分、出かけてみないと、自分のどんなアンテナがどんな具合に開いているか

わからないのだと思います。

偶然の出会いを果たして初めて、自分のアンテナが

そこに向いていたことを自覚するように思えるのです。



2022年6月7日火曜日

多いなら多いなりに。

 ガチャガチャで手に入れたフィギュアの写真を撮るのが近頃のマイブームなのですが

今、気に入っているのは「わび・さび」シリーズです。

神社関係をモチーフにしたフィギュアが6種類ラインナップされています。

鳥居、灯籠2種、狛犬2種、地蔵、です。


これまで9回のガチャしての成果は

狛犬(1)が2個、灯籠(1)が2個、灯籠(2)が1個、そして鳥居が4個。。。

6種類あるのに、9回のトライで約半分が鳥居という、異常な鳥居率です。


このシリーズは、ガチャガチャとしては多分一番安い200円なのに

非常に高度な造作がほどこされていて、写真の撮りがいがあるのですが

鳥居ばかり4個も、さすがに、持て余します。


以前は、ハシビロコウのガチャガチャ全5種を

ちょうど5回のトライだけでコンプリートしたので

今回ももしかしていけるんじゃないかと、根拠の弱すぎる見通しで挑戦したら

このような結果になりました。


4個もある鳥居のフィギュアを眺めながら

そう言えば、京都の有名な神社はとてもたくさんの鳥居があった、と思い出し

同じように並べて写真を撮ったら面白いんじゃないかと、やってみましたが

どうも雰囲気が違います。


苦し紛れに、土の斜面に4つの鳥居を適当に立てて

それを狛犬が戸惑い気味に眺めるという写真にしてみました。

写真のテーマは「鳥居が多すぎる」です。


何事も、多いなら多いなりに、少ないなら少ないなりに

やりようはあるんだと、思いがけず面白い構図になった写真に

ひとり満足して眺めています。

思ってたのと違う結果が出ても、そこから面白くする。

現実との向き合い方の中で、大事なスタンスのひとつだと思います。




2022年6月6日月曜日

人に語りかけるということは。

「 私は私の思いを語りたいんだ」という欲求のあり方と

「私は他でもないあなたに私の思いを伝えたいんだ」という欲求のあり方は

文章ではよく似た表現になりますが、現実に対して持ちえる影響については

ずいぶんと違ったものになるのだということを、幾度も経験してきました。


私が私の思いをとにかく語りたい時、意識は自分自身に集中します。

自分の思いをいかに自分にわからせるかを意識して語っているとも言えます。

相手は自分の話を聞いてくれるなら、極端な話、誰でもよくなります。

良い聞き手に恵まれれば、これほど幸せなことはなく

気持ちよく話すことができるでしょう。

しかし、聞き手は、もしかしたら次第に苦痛を感じ始めるかもしれません。

なぜならば、自分が聞かされていることは、自分の興味関心には特に関係ないかもしれず

聴くことが自分に何かをもたらすよりも

時間や忍耐を奪っていくかもしれないからです。


一方、私が特定の誰かに対してこそ、自分の思いを伝えたいと思ったときには

相手が誰か、その相手は何に価値を置く人なのか、といったことがまず考慮されます。

なぜならば、他でもないその人に伝えたいならば

その人が受け止めやすい内容、話し方を選ぶ必要があるからです。

この場合、聞かされる相手が払う労力は、上述の場合と比べて低くなるでしょう。

いやおうもなく聞かされるのではなく、自分に語りかけてくれる、からです。


人を魅きつける語り手は、あきらかに後者のスタンスに立っているように思えます。

目の前の人、ひとりひとりを大切にし、個々にプレゼントをするように語りかけます。

だから、聞き手は「あぁ、他でもない、私に語りかけているんだ」と感じ

耳を傾け、惹きつけられていきます。


どんなに明快な原稿を用意しても、話し手の意識が原稿に集中しているならば

せっかくの明快なスピーチは空回りしてしまうことになるでしょう。

話し手は、相手よりも原稿を重視していることが伝わってしまうからです。


おそらく、文章を書く際にも同じようなことが起きるのではないかと思います。

特定の読み手を意識した文章は伝わりやすく

独り言のような文章は散漫な印象を与えたり

思い込みがすぎるように受け止められたりするでしょう。


このように振り返ってくると、では僕が書いているこの文章はどうなのだ

というブーメランに襲われることになりますが

この文章・ブログは、まずもって

自分の脳内に浮かぶ思考の断片を掬い取ることに重きを置いていて

特定の読者をまったく想定していません。いわゆる独り言です。

ここで十分に独り言をすることによって、いざ人の前に立つとき

目の前の人を大切に思える、そんなことが起きるように思います。

僕の独り言を、うっかり読んでしまった方がいたら、すいません。ありがとうございます。

いつかお会いしたら、目の前のあなたにこそ、語りかけます。




2022年6月5日日曜日

テクノロジーを使う者に求められる謙虚さの源は。

 どんなに時代が速く変化していても

人間が自力で100mを走るには、10秒くらいはどうしてもかかり

0.1秒という瞬きするような時間の短縮でさえ、途方もない鍛錬が必要です。

もちろん、テクノロジーの力を借りるならば、例えば車に乗れば

100mの世界記録並みのスピードで10キロを走ることも容易になり

このようなテクノロジーの進化は、日々刻々と高速で達成されています。


このギャップが気掛かりです。

私たち、生身の生命体としては、そう易々とは能力を向上させられないにも関わらず

私たちに操作可能なテクノロジーは、とてつもないスピードで

できることの範囲を広げ、能力を高め続けています。

どんなにテクノロジーが進歩しようとも、それを操作するのは生身の私たちであり

私たちの心身の能力は、操作する対象であるテクノロジーから

ますます置いてけぼりにされつづけています。


少しばかり極端なことを言うと

心身の鍛錬をしないならば、テクノロジーを使ってはいけないのではないか

とさえ思います。


自分の心身を動かすこと、その能力を向上させることが

いかに難しいかを骨身にしみてわかっているのであれば

高度なテクノロジーを謙虚に使うことも可能かもしれません。


しかし、自分の心身のことには無頓着で、それとはまったく別個のものとして

または完全に外部化から装着された新たな自分の能力として

テクノロジーを扱う時、そこに謙虚さは宿るでしょうか、疑問です。


スマホやゲームにハマって、運動不足になるなんて

あってはならないことです。

スマホという高度なテクノロジーを触るなら、心身と深く向き合ってこそ。

現代は、高度なテクノロジーを、あまりに安易に手にできます。


テクノロジーへの過度な依存によって、現代文明は行き詰まりを見せています。

それをまたテクノロジーで突破しようと姿勢は、短期的に道を開いても

いずれまた、さらに大きな壁に行き当たるのではないでしょうか。

生身の生命体が刻むリズムに調和するテクノロジーのあり方こそが

今、必要なのではないかと思います。

または、生身の生命体にできることをいかに高め深めるかの探求を

忘れてはいけないのだと思います。



2022年6月4日土曜日

速すぎる時代が目眩しをかける。

 ひとつ間違えれば命取りだった、とか

一歩先んじたおかげで成功できた、とか

確かに、ほんの一瞬の判断がその後の成果を決めることはあります。

いや、あるように見えるのですが。

その判断をしなかった後の経過は、その判断をしたしまった後にはわかりえず

もしかしたら、その判断をしなかったからといって

そこまで事態は良くも悪くもならなかったかも知れません。


「ひとつ判断を誤ったら」「一歩出遅れたら」という言い回しに馴染みすぎて

私たちは、一瞬の判断が命運を分けると思い過ぎているような気がします。


実際、拙速という言葉もあるわけで、

判断を急いだせいで、良い結果に結びつかないことも多々あります。


本当のところは、速い判断も遅い判断も、さほど変わりはなく

どちらも良い展開を招くこともあれば、悪い展開に陥ることもある

という程度ではないでしょうか。

一瞬がその後を決めるのではなく、状況との向き合い方の「積み重ね」が

刻々と変わる展開のありようを生み出しているのだと思います。


であるならば、速いとか、遅いとかを気にするのではなく

心を鎮めて、目の前で刻々と起きていること、起きつつあることを

まず受け止めること、それに対して、自分が望むことはなんなのかを深く自問すること

そのためにどうするのかを、あわてず、あせらず考えることではないでしょうか。

まわりくどく、のんきすぎる気もしますが

本当は、そんなことないような気がするんです。

速すぎる時代の変化に目眩しにかけられているだけのような気がするんです。



2022年6月3日金曜日

音の記憶。

 家の裏の田んぼから、かしましい蛙の鳴き声が響いてきます。

お昼は気にならないから、夕方から鳴き始めているのでしょうか。

これだけの音量が響くということは、それだけの数のカエルがそこにいるというわけで

どちらかというとカエルが苦手な僕は、蛙の集団を想像するとゾッとします。

でも、蛙の鳴き声は不思議と落ち着きます。

さっきまで主旋律を奏でていた、すぐ近くから聞こえた野太い鳴き声は、今は納まり

かわって、やや遠くからもう少し繊細な鳴き声が響いています。

これは蛙の種類が違うのか、それとも距離の違いがなせるわざか、定かではありません。

でも、こうやってカエルの声が自然に響いてくる環境で

季節の移り変わりを感じることができるのは、幸せなことだと思います。


都会に住んでいた頃、あれもこれも身近にあって、便利の極みのような環境でしたが

いつも人工的な音が空間を占めていて、自然の音が聞こえることは稀でした。

都会は決してコンクリートジャングルではありません。

公園の緑の豊かさや広大さは、むしろ都会の方が充実しているかもしれないとさえ思います。

ちょっと足を伸ばせば、広大な公園で緑に囲まれることができたことを覚えています。

僕の都会暮らしの記憶に欠けているのは「自然の音」です。

鳥やセミやカエルの鳴き声が、あまり記憶にありません。

もちろん聞こえてはいたのでしょうけれど

その他の人工的な音に圧倒されて記憶が薄れてしまっています。


今こうやって、自室でパソコンに向かっていて、聞こえてくる音は

扇風機の音、それからカエルの鳴き声、それだけです。

もちろん車が走る道路は近くにありますが

特に夜になってしまえば交通量は都会の比ではありません。


音の記憶は、文字通り深い余韻を残すように思います。

ただカエルの鳴き声だけが聞こえる今、ふと

若い頃に訪れたエジプトで、夜のナイル川のほとりで

無音の暗闇につつまれた対岸を眺めていたことを思い出しました。



2022年6月2日木曜日

夕日に向かって走れ。

バラバラの個性が集う組織の中で、ビジョンが共有されるとしたら
それは、どんな性格を持つものなのでしょう。

個性が多様であるということは、何を好み、何を好まないか、是とし非とするかが
必ずしも一致しないということです。
であれば、ひとつの価値、方向性を、ともに目指すことを
善しとする点で一致するというのは、とても難しいことのように思えます。

しかしそこが一致しないと、組織ばバラバラなまま、烏合の衆となってしまうでしょう。
簡単なのは、似通った価値観を持つものが集まって
その間で合意できるものをビジョンとして共有することです。
似たもの同士による、仲良しグループのようなものです。
これだと、ビジョンは共有され、一体感は高まるでしょうけれど
似たもの同士ということで、突飛な発想が生み出されることは少なく
変化に弱い組織ということになりかもしれません。
現代の環境であれば、致命的にもなりかねません。

多様な個性が集いながらも、烏合の衆に陥らず
チームとして一つにまとまるために共有できるビジョンとは。

そんなことを考えながら今日の夕日を見ていました。

そこで思いついたのは、ビジョンとは
誰かによって人工的に創られ与えられるものではなく
否応もなく、ともに見い出され、ありありとした実感を持ち
そこから得られる実感について、共に語らうことができるくらい五感に響くものである
ということです。

まさに、ともに見つめる夕日のように、です。
夕日は、誰にとっても、そこに、ありありと存在し
眩しく、暖かく、それがそこにあってくれてありがたいという気持ちが湧きます。
思わず魅入ってしまいます。

多分、太陽というものが私たちの命を根源的に支えているという
実感がそのような態度を生み出すのではないでしょうか。

そのような圧倒的かつ具体的な存在を目の前にした時
私たちは違いを超えて、思わずそちらを眼差し、魅入り
そちらに向かって歩もうとします。

多様な個性が集う組織の中で共有されるビジョンを生み出すには
会議室ではなく、海岸で朝陽や夕陽を見つめながらの対話をこそ
するべきではないでしょうか。
圧倒的な深さを持つ思考を手に入れるには、
圧倒的な存在を目の当たりにする必要があります。





2022年6月1日水曜日

そこにそれを置くだけで開ける世界。

 最近は、いわゆるガチャガチャで手に入れた小さなフィギュアを

身近な場所に、いくつか組み合わせて置いて

そこに生まれる世界を写真に収めることを楽しんでいます。


ガチャガチャは、僕が子供の頃からずっとあって

大人になった今も、小銭を入れて、ガチャ、ガチャっと回す時は

なんとも言えないワクワク感があります。

昔は30円くらいだったと記憶していますが

今は安くて200円くらい、高いものだと500円のものもあります。

物価の影響もありますが、それだけ造形が細かくなったということもあるでしょう。


しばらく、ハシビロコウの、ややデフォルメ気味のフィギュアが気に入って

いろんな場所で撮影していたのすが、

つい先日「わび・さび」シリーズを見つけ一目惚れしました。

僕の好きな、神社にまつわるフィギュアです。

これまで、灯籠、鳥居、狛犬を手に入れました。


近くにある公園は、今までも何度か撮影していますが

狛犬と灯籠のフィギュアを持って出かけて、どこに置こうかとあちこち見回すと

今までとは違った目で公園を眺めていることに気づきます。

今までは、公園の中の美しい景色、画角を探していたのですが

狛犬と灯籠のフィギュアを持った時には、それを置くにふさわしい

または、それを置くと面白い意味が広がる場所を探しています。


石の上にこんもり生えた苔の上に灯籠と狛犬を置いてみました。

背後には美しい植栽が広がります。

ギリギリまで接近して撮影すると、背景はぼんやりとぼやけて

苔の上の小さな灯籠と狛犬が、どんと浮かび上がります。

小さな灯籠と狛犬のスケールにあわせて、いつもの公園が広大な空間に

スケールアップしたように感じます。


馴染みの場所が、いつもと違う何かを持って歩くだけで違った世界に見えてきて

それを、そっと置いてカメラを向けると、あたらしい世界が開けてきます。

いつもの場所は、いつもの通りそこにある、なんていうのは

思い込みに過ぎないな、と思います。

たったふたつのフィギュアで、その場所は、いつもと違う意味を帯びた

新しい世界として開けてくるのですから。