まわりを見渡すと、自分の意見が少数派であることになんとなく気づき
意見を表明しずらいような気持ちになることがあります。
あえて少数派であることを露見させて好奇の(または嫌悪の)目を集めるよりは
黙って状況の推移を見守ろうという判断になりがちです。
これは何も、僕に限ったことではなく、
多くの人に見られがちな心の動きではないでしょうか。
つまり、状況を見て、自分の意見を表明することを踏みとどまっている人は
実は結構、多いのではないか、ということです。
直接の話しあいにおける合意の方向性にせよ、
社会の雰囲気(いわゆる世論といわれるもの)にせよ
意志を表明した人たちの声が基調になって形作られていきます。
それは、当然、そうなるしかないのですが、その背後で表明されていない
いわゆるサイレントマジョリティな意見が、かなりありえるとしたら
そのような合意形成のあり方は、
そこに集う人の実態を反映していないということになります。
会議では、声の大きい人の意見が通りやすい、とよく言われますが
それは、いったん声を大にしてはっきりとした意見が投げ込まれると
それに追従する意見は言いやすくなり、それに反する意見は言いにくくなる
という心の動きによるのでしょう。
であれば、早い段階で、大きな声ではっきり意見を言うと通りやすくなる
と言えるかもしれません。
その他の意見を持つ人たちは、自分が少数派だと思い込んでしまって
意見の表明を控えてしまうので、声の大きい人の意見が主旋律になりやすいですから。
少数派に思えたら、実は、同じように自分が少数派だと思い込んでいる人が
思いのほか多数存在するのではないかと冷静になって
自分の意見を場に投げ入れてみるのは、話しあいを有意義にするにあたって
とても大切な姿勢であるように思います。
その投げ込み方が、そうでない意見を否定してかかるようなものであれば
不毛な論争になりますが、話しあいとは、不完全な視点を持つもの同士が集ってするものだ
という地点から、やんわりと投げ込みあうことで
それぞれの意見の角が取れるだけでなく、つながりやすさ、融合しやすさが増し
AかBか、という競合ではなく、AとBからCを生み出す
という創造へと道がひらけていくはずだと思います。
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