2022年4月30日土曜日

心地よい理由はわからないけれど。

 なぜだかわからないけれど、体調も気分もとってもいい日

というのがあります。例えば今日とか。

祖母の命日だし、父の三七日だし、墓参りに行ったし

祖先に手に感謝の思いで手を合わせたから、心が整って調子が良い?

それもあるかもしれませんけれど、それだけでもない気がします。


昨日の食事が良かったのかもしれないし

トレーニングが効果的だったのかもしれないし

そもそも、今日の自分がどんなコンディションかっていうのは

今日が何の日かとか、昨日どう過ごしたかとかによって

影響を受けるほど単純ではなくて

今日までの長い時間の積み重ねの先に、今日という好調があるはずで


だから、今日はとっても好調な日なのですが

理由はわかりません。

でも、ひとつだけわかっていることは、理由は必ずあるということです。

今日まで自暴自棄で自堕落な日々を送っていたのに

今日になって突然好調、ということはありえないわけで


日々の積み重ねの中で、少しずつ調子が整い

気候の変化、置かれた境遇の変化などにも、対応できて、噛み合ってきて

いろんな理由がいろんなふうに絡みあって、今日という好調。


今日の体重は、数ヶ月前の食生活の結果、とも言われます。

だから、今日という日は、遠い未来の好調な1日につながると思って

健やかに伸びやかに毎日を過ごそうと思います。







2022年4月29日金曜日

生きた道のりの跡が形となって。

 公園の緑の中を散歩していると、不気味な姿の大木に出会いました。

太い幹の一部が、裂けて中が空洞になっていたり

木肌に瘤のようなものがゴツゴツと隆起して、うねっていたり。


周りの、いかにもすくすくと育った木々の中にあって異様な姿でした。

植物のことはまったく詳しくありませんが、育つ過程で病気になったり

傷がついたりして、その過程を乗り越えた結果が

現在の異形の大樹になったのではないかと思います。


出会った時は、ギョッとしましたが、よくよく見ると

畏怖の念を起こさせるような、静謐と迫力を兼ね備えた存在感が伝わってきました。

以前に、雷に撃たれた後も生き続けている大樹を見たことがありますが

その時と同じ感覚です。

雷に撃たれた大樹は、根本から半分に裂けてしまっているにもかかわらず

堂々とした枝振りを天に向かって伸ばしていました。


病気になったり、折れたり、裂けたりした木は

もしかしたら、そうそうは生き残れないのかもしれません。

もし生き残れるのなら、異形の木々は、もっと頻繁に見られるはずですから。


こうして、困難、厄災を乗り越えたて生きてきた道のりを

その姿そのものに留めていることが、これらの大樹の存在感の源のように思えました。


木に限らず、生きた道のりは、その姿かたちに痕跡を残します。

どんな姿かたちをした存在として歳を重ねていくか

自分ごととして、考えながら、異形の大樹に向きあいました。



2022年4月28日木曜日

仕事の合間に大切なひとときを。

 今日の仕事場に少し早く着きそうだったので

近くの公園を散歩しました。

大事な仕事の前は特に、早めに動いて時間の余裕を作り

緑の中をぶらぶらと散歩することが多いです。


何をするでもなく、考えるでもなく

ただただ、ゆーっくり歩きます。

自然と心身の力が抜けてきて、脳内に空白が広がります。

目に映る緑を映るままに眺め、耳に入る風の音を聞こえるままに聴き

吸い込む息に混じるほのかな花の香を感じます。


脱力して真っ白になった心身は、いざ本番となれば鋭敏に転じて

大事な仕事で大事な役割を果たしてくれることが多いです。

大事な仕事だからといって直前まであれこれ考えるのではなく

考えるだけ考えたら、あとは緑の中を散歩し、脱力、真っ白になる方が

僕にとっては、良いようです。


今日の公園では、小径の落ち葉を掃除してくれているおじさんの姿を見かけました。

僕が、こうやって気持ちよく、のんびり散歩できているのは

こうやって働いてくれている人のおかげなんだなと思い

心の中で感謝の言葉を呟きました。


誰かの働きのおかげで自分の日常がある、と実感できることは

自分も誰かの日常のために働こうという思いを引き出してくれます。


緑の中をぶらぶら歩きながら

脱力、真っ白になり、感謝の気持ちを心に満たして仕事に臨みました。

ほんの10分ほどの散歩ですが、とても大切なひと時になりました。



2022年4月27日水曜日

菜の花や月は東に。。。

 何かを見つめるとき、それそのものの背景も必ず視界に入ります。

何かを見つめるとは、何かを背景としてそれを捉えるという相対的な認識です。

山を背景にした家と、海を背景にした家では

たとえ同じ構造の家でも、見え方が異なりますから。


そんなことを考えたのは、河川敷に咲き乱れる菜の花が視界に入ったからです。

びっしりとした密度で群生している菜の花の迫力にも魅かれましたが

僕が魅かれたのは、それより少し離れたところで

ぽつんと咲いていた菜の花でした。

それは、ずっと向こうにある大きな橋を背景に咲いていました。

ぽつんと咲いた菜の花の可憐さの向こうに橋を見るとき

ただ単に橋を見るよりも、その橋はずっと人工の堅牢さを感じさせました。


そういえば、江戸時代の歌人、与謝蕪村は

「菜の花や 月は東に 日は西に」と詠んだのでした。

俳句を鑑賞する力は、あいにく持ちあわせていないのですが

菜の花を挟んで、東に月、西に日を見つめる与謝蕪村の姿が

広大な大地の中に見えるように感じます。


そんなことを考えていたら、中学校の頃の国語の授業を思い出しました。

国語の先生が「これは壮大な句」です、といって説明してくれたのが

万葉集の歌人、柿本人麻呂の

「ひむがしの野に かぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」

でした。


小柄な国語の先生が、全身を使って、「かえりみる」を演ってみせてくれて

かぎろひ(朝日)が昇るのを見て、「かえりみたら」月が傾いているんです

これは壮大な光景です。と説明してくれたと記憶しています。


広大な大地に立って、大空を見つめる二人の歌人の姿が

河川敷の菜の花を見つめる僕の脳裏に浮かびました。


二人の姿は、教科書に出てきた時とは違って

菜の花が咲く河川敷とその上に広がる大きな空を背景にして

ずいぶんと人間くさく、身近に感じられました。





2022年4月26日火曜日

2個体から始まる世界。

 何かが、ひとつ、ひとり、いっぴき、いっぽん、あるだけでは

事態はさほど複雑ではありません。

それが、そのようにあるだけですから

もし、その何かに意識、意志があれば、それに素直に従えば良いだけでしょう。

それを観察する存在すらいないのですから、何も気にすることはありません。


ところが、何かと何かの2個体以上が、存在して

そのすくなくとも何れかに意識のようなものがあれば

とたんに事態は複雑な様相を帯びてきます。

何かは、別の何かより、大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか

比較が始まります。


比較している限りは、それらの個体の間に強い関係性は結ばれませんが

意志を持って行動する主体が2個体以上あると、関わりが生まれます。

どちらかがどちらかに働きかけ、働きかけられ、働きかけ返します。


意志を持っていれば、価値観や(そこまでいかなくても)欲求がありますから

それらは、個体によって少しずつ違い、ときに大きく違い

快不快、利害のすれ違い、衝突が生じます。

それらが生じると、それぞれの意識は、自分とは違う意識のありようがあるのだと

幸運で賢明であれば学ぶでしょうし

そうでなければ、どちらかが自分の欲求を押し通そうとするでしょう。


わずか2個体でこのような複雑なことが始まるのですから

億の単位の人間が構成する社会は、すれ違いと衝突が生まれるのが常態でしょう。

すれ違わないようにする、衝突しないようにすることも知恵でしょうけれど

これだけの数の人間が存在する場合

すれ違いや衝突など、個体間の不都合な出来事から常に学び続ける

という姿勢は、社会を構成する以上必須だと思います。

このような学びは、すれ違いと衝突を忌避しているだけでは生まれないでしょう。

助け合いの姿勢も大事ですが、これも価値観や欲求の違いによって

助けたつもりが、好意の押し付けになったりもします。

やはり、どうしても、個体間の不都合な出来事を常態としてそこから学ぶ

という姿勢が、2個体以上から構成される世界では必要だと

2個のハシビロコウのマスコットが並んでいるのを眺めながら

とりとめもなく考えました。



2022年4月25日月曜日

ツツジはどうして躑躅なのだろう?

 隣町の鯖江市には、ツツジの名所、西山公園があります。

例年ゴールデンウィークあたりがツツジの満開にあたって

公園全体が、白や朱やピンクや紫に染まります。

今は、満開一歩手前、というところでしょうか。


ところで、植物の名前の漢字表記には

植物そのものとはなかなか結びつかないような不思議な表記をたまに目にします。

それでも、向日葵(ひまわり)や山茶花(さざんか)のように

一応は、何かの植物を表しているんだろうな、とわかるものが多いです。


ところが、ツツジの場合は、漢字では「躑躅」と書きます。

よりによって「足へん」なんです。

植物なのに足?

しかも躑躅という漢字は、なんとなく髑髏に似ていて、おどろおどろしく

華やかなツツジには、とても結びつきません。


なんでこんな漢字表記なのだろう、と調べてみると

確実な根拠、由来は見つけることができませんでしたが

多くの出典に共通する由来は

「躑躅とは、歩行の進まない状態、足踏み、を意味し

ツツジを食べた羊が足踏みして死んでしまったこと」でした。

ツツジの蜜には毒があるようです。


歩けなくなった羊のエピソードほどには多くないものの

もうひとつ見つけた由来は

「見る人が足を止めるほどに美しい」というものでした。

こちらの由来を信じた方が、満開のツツジを見た時に穏やかな気持ちでいられそうです。

「食べると死ぬから躑躅と書く」と思いながら、

ツツジに満たされた公園に佇むのは背筋が寒くなりそうですから。


漢字は、たった1文字の中に、豊かな意味を持ち

その組み合わせで無限の意味を表現できるので、好きです。




2022年4月24日日曜日

祈りの積み重なる場所で。

 特に信心深いわけではありませんが

神社やお寺やお墓では、手をあわせると心が鎮まります。

それは何か、これまでその場所で積み重ねられてきた祈りと

つながるような感覚です。


人が住まなくなった家は傷むのが早い、といいます。

手入れをしなくなるから、というのもあるでしょうけれど

家に対する愛着や、使うことによって伝わる気持ちが

家を傷むことから守るような側面があるのではないでしょうか。


それと同じく、神様がいるかどうか、ご先祖様が見ているかどうかは別として

神社やお寺では、その長い歴史の中で、たくさんの人が手をあわせ

真摯な祈りを祈ってきたのですから

その気持ちは、その場所に、少しずつ、少しずつ、祈りの痕跡として

積み重ねられているのではないかと思うのです。


そうやって積み重ねられた祈りの痕跡が

その場所の神聖さを支えるひとつの要素ではないでしょうか。

僕は、そのような空気と自分が響き合う時、すーっと心が静まっていくのを感じます。


思えば、僕のこの心身だって、僕自身が作り上げたものではなく

遠い祖先から少しずつ少しずつ、思いのこもった遺伝子を受け継ぎながら

いまここにあるわけですから、祈りの積み重なった場所で

響き合い、心が鎮まるのも、当然のことかもしれません。




2022年4月23日土曜日

木々が営む悠久の思考。

近所の神社の境内にある大木を見上げ、枝葉の間から漏れる陽光を浴びながら

「 森の木々は、互いの葉っぱが重なりあわないように成長する」

と聞いたことがあったな、と思い出し、調べてみました。


クラウンシャイネス(樹冠の遠慮)という現象だとわかりました。

近所の神社の大木の育ち方がそれに該当するかどうかはわかりませんが

互いに恥ずかしがり、遠慮するように育つことで

互いの生育環境を最善化しているようです。


葉が重なりあわないことで、陽光をまんべんなく浴びることができます。

空を閉ざさないことで、陽光は地面に届き、土を肥やし

他の生物の営みも活性化するのではないでしょうか。


思い思いに枝葉を伸ばしているように見えて

長い時間の流れの中で、互いに共鳴しあいながら

育ち方を調整しているのかもしれません。


自分が生きることを最優先に考えれば

短期的には、自分の枝葉を最大限に伸ばすのが有利ですが

そのままではおそらく、自分以外の生命の営みを抑圧することになり

生育環境としては貧しいものになるのかもしれません。

ですから、長期的に考えれば(まさに木が考えているように見えます)

自分のまわりに多様な命がもちつもたれつしながら

共生関係を築けるようにするのが有利になるのでしょう。


実際には、脳を持たない木々に思考も判断もないのかもしれません。

ですが、人間よりも遥かに長く生きる木々が、無限の試行錯誤の末に

そのような生き方を手に入れているとすれば

それは、高々100年しか生きない個人の思考を遥かに超えた思考のように感じられます。




2022年4月22日金曜日

世界の端と端を結ぶ橋。

 橋は、見るのも、渡るのも、潜るのも、好きです。

なぜか、橋に魅かれてしまいます。

大きな川に架けられた橋には、ふたつの土地を結ぶ力強さを感じますし

小さな川に架けられた橋には、歩く人を励ますような優しさを感じます。


橋の語源は、「端(はし)」だそうです。

「端」には「間(あいだ)」の意味もあり

両岸の間にわたすもの、離れた端と端を結ぶものの意味から

「橋」という言葉が成立しているようです。

 ※語源由来辞典


大学生の頃、エジプトを旅しました。

夜、ナイル川のほとりに佇み、遠い対岸を見つめました。

古代エジプト時代には、ナイル西岸は死者の町とも呼ばれ、

多くの墓が造られたと、日中の観光の際に耳にした、その夜のことです。


ナイルの西岸は、夜になると真っ暗な闇に包まれ、小さな光がポツポツと見えました。

数千年前、エジプトに暮らした人たちは、この川の向こうの世界を、死者の町を

どんな思いで見つめていたのだろうと

当時の人たちの眼差しに自分の眼差しを重ねる思いで、対岸を見つめ続けました。


橋というものがなければ、その川が大きければ大きいほど

その両岸に暮らす人たちは、対岸を、ある種の畏怖や羨望を持って眺めるしか

ないのではないでしょうか。

今、橋は、どこにでもあり、私たちは、ここではない、あちら側へ

最も簡単に移動することができます。

それは、もしかしたら、ここではない、違う価値を持った別の場所への

想像力や尊重の思いを薄めてしまってはいないだろうか、とも思います。


文明の進歩に従って、世界は「橋」に満ちて行きましたが

「端」という感覚は希薄になっているのではないでしょうか。

端に立つ時の、もうひとつの端に対する、畏怖と謙虚と想像力は

果たして健全に受け継がれているでしょうか。








2022年4月21日木曜日

嘴広鸛は、ハシビロコウと読みます。

 それまで全く知らなかったのに

それを知った途端に魅入られてしまって

ずっと好きなまま、ということがあります。


なんでこういうことが起きるのか、考えてみたのですが

おそらく、もともと自分の心の奥深くに、秘めたる価値観があって

その価値観を満たす何かにはまだ出会っていないために

自分がそのような価値観・好みを持っていることに自覚がないまま過ごしていて


ある時、その価値観にぴったりハマる何かに出会い

「うわ、これすごい。こういうの、大好き」と電気が走り

以来、自分がこれまで秘めてきた無自覚な価値観が

心の中心近くに自覚されて根を張る、ような現象が起きているのではないでしょうか。


例えば、僕にとってのハシビロコウとの出会いがそうでした。

動物好きの家族が、ハシビロコウという鳥がいて、とても面白いと教えてくれて

調べてみたら、「なんだこれ?」という怪鳥でした。

不釣り合いに大きな嘴、鋭い眼光、広げるとびっくりするくらい広い翼

長い足と爪、それに何より、ほとんど動かず、じっとしているのです。


アフリカに生息する絶滅危惧種らしいのですが

なんでじっとしているかというと、極たまにある、餌となる肺魚という魚が

呼吸をするために水面に上がってくる瞬間を逃さないために

じっとしているそうです。


鋭いめで、じーっと水面を見つめ続け

肺魚が浮上してきた瞬間を逃さずに、ものすごいスピードで捉えます。

静から動への急展開ぶりが、すさまじいです。


僕はこのハシビロコウの姿に魅せられてしまいました。

1日の間に、何度あるかわからない、おそらく数えるほどしかない

ほんの一瞬のために、じっと静止し続ける、感覚を研ぎ澄ませたまま。

やってきた一瞬にすべてを集中して、逃さない。

そしてまた静かに佇み続ける。


自分にとって一番大切な何かを深く自覚し

そのために、全神経を集中しているように見えます。

ハシビロコウは孤独を好み、単独行動が多いそうです。

そういうところにも、生きる姿勢の潔さのようなものを感じます。


こんなハシビロコウが絶滅の危機に陥っているのは

集団で文明を築き、環境を破壊してきた人間の営みが原因です。

人間は集団を作り、未来像を共有し、分業し、伝承できたからこそ

ここまで栄えたのでしょうけれど

個々の人間は、ハシビロコウの境地には、至っていないように思えます。




2022年4月20日水曜日

タンポポは、蒲公英と書きます。

 タンポポをよく見かける季節になりました。

タンポポには、小さい頃の思い出がいくつかあります。

あいまいな記憶を辿ると、確か、、、

タンポポの茎は筒状なので、数センチの長さに切り取って

両端にいくつかの切れ目を入れると、くるりと巻き上がるので

それを水車のようにして遊んだような、そうでないような。


そんなあいまいな記憶はさておき、強烈に残っているのは

やはり、タンポポの強さと、綿毛です。

アスファルトのちょっとの隙間からタンポポが歯と茎を伸ばし

花を咲かせている光景は、とても印象に残っています。

このカチンカチンの道路から、こんな細い茎が、どうやったら

出てこれるんだろう、と幼心に思っていたものです。


それから、綿毛。

フーッと吹いて、綿毛を飛ばすのは、誰に習ったわけでもなく

綿毛に導かれるように、自然にしてしまう遊びでした。

タンポポの子孫拡散戦略に絡め取られていたのでしょう。


と、このようなことが、幼い僕の心に残ったタンポポですが

今、あらためて、タンポポ、特にその綿毛を見ると

命の迫力のようなものを感じます。


鮮やかな花を咲かせた後、子孫を残すために

全力を振り絞って綿毛を作り、風に乗せて、時に子供の息の助けも借りて

子孫の生きる場所を、広げていく。

そして、すべての綿毛が飛んだ後は

綿毛が宿っていた半球状の頭をすくっと天に向けて伸ばし

何かをやりきった凛々しさ、あとは滅ぶのみという潔さのようなものを

勝手に感じてしまいます。


自分が親になったせいでしょうか。

祖父母や父を見送ったせいでしょうか。

タンポポの見え方が、幼い頃とはずいぶん変わりました。



2022年4月19日火曜日

静という動を見つめる。

 何かが動いていないように見える時

それが人工物だったら、おそらく本当に動いていなくて

静止状態なのでしょうけれど。

自然の中で何かが止まって見える時

それは、何かが絶えず動き続けている状態なんだなと

春の小川を見ながら考えていました。


「ゆくかわの流れは絶えずして。。。」ではありませんが

流れる小川は、小川としてずっとそこにありますが

そこに流れている水は、一瞬として同じではありませんし

川底に積もっている石も、一刻一刻と水の流れに、ほんのわずかだけ浸食されていて

木や草や花は、常に新陳代謝しているからこそ、そこに立っていられます。


こんなことを考えている自分自身だって

どんなに静止しようとしても、植物と同じく、常に代謝して

代謝するからこそ生きていられます。


立ち止まったら負けだ、とか、前進あるのみ、とか言って

動き続けること、行動することに価値を置く考え方がありますが

それは確かに、その通りだとは思いますが

まずは、じっと佇んで、心を鎮めて

静止の中で、絶えず動き続ける命の営みを感じることからこそ

力強い行動が生まれるのではないでしょうか。


2022年4月18日月曜日

食すという最先端の行為。

 今日、食べた越前そば、おいしかったなぁ。

越前市に暮らしていますから、あちこちに越前そばの店があります。

だから、気分や、ひらめきや、お気に入りで、いろんなお店で

越前そばを食べます。年に20回くらいは食べるでしょうか。


今日の美味しい越前そばは、蕎麦粉10割の、いわゆる十割蕎麦でした。

そこに、薄く削ったカツオブシと、細かく刻んだネギと、ほどよく辛い大根おろし

さらには、まろやかな蕎麦つゆが混ざりあって、極上の味わいでした。


蕎麦に限らないのですが、本当に美味しい食事に出会えた時は

その食事が自分の口に運ばれるまでの道のりを想像することがよくあります。

蕎麦は、それを調理してくれる人がいるから食べられるのですが

そもそも、蕎麦粉から蕎麦を打たなければなりませんし

カツオブシを加工する人、鰹を漁する人、ネギを育てる人

それぞれを卸し、運搬する人、店を経営する人、情報を発信する人

オーダーをとってくれる人、などなど

いろんな人の手を経てこそ、極上の越前そばを食べるという行為が成り立ちます。


こう考えると、食べるという行為は、いろんな人のいろんな営みが

結びついて、集大成した、最先端のところに成り立っているんだなと思います。

たくさんの人の努力が結晶した、最先端の一番いいところを、いただく。

蕎麦を食べるのは、ほんのわずかな時間ですが

蕎麦に携わってくださったたくさんの人の思いを受け止める

貴重で豊かな時間です。


心から、ご馳走様。


2022年4月17日日曜日

噴水とノートと、海の向こうの国と。

 晴れた日に行きたくなる場所はいろいろあって迷いますが

僕にとっては、ここに来れば正解。ハズレなし。という場所があります。

地元、越前市中央公園の噴水です。

僕が小さい頃からここにある噴水で

多分、形態も変わっていないんじゃないでしょうか。


晴れた日には、円形の水面に青空と雲がきれいに映ります。

噴き出す噴水は、何パターンかを定期的に繰り返していきます。

霧のような時もあれば、太い水の柱が何本も噴き上がる時もあります。


水が噴き出す音、噴き出した水が水面を叩く音、その繰り返し。。。

晴れた日に聴く噴水の音は、本当に心が和みます。

噴水の前のベンチに背中を預けて、時に目を瞑りながら耳を澄まし

時に目を開いて噴き出す水の形状、水面に広がる波紋を味わいます。


今日は、噴水の縁に、いつも持っているノート(トラベラーズノート)と

革製のペンケースを置いて、しばし眺めてみました。

僕が子供の頃からある噴水、その周りで何十年もの間に繰り広げられたいろんな光景。

そこに、僕のここ数ヶ月の生活が記されたノートをそっと置きます。


長い歴史のある噴水と、僕のささやかな日常が詰まった手帳。

長くて大きな時間の流れと、短くてささやかな時間の流れを象徴する

ふたつのモノの対置。


自分の日常の象徴であるノートが、大きな時間の流れの象徴としての噴水の前に

置かれることで、僕の日常が長い歴史の中に溶け込んでいくような感覚を味わいました。


そういえば、このノートの表紙は、遠い海の向こう、タイで

地元の原材料と、地元の人の手によって作られたものです。

越前市中央公園の噴水で、時と場所を超えて

いくつもの時の流れが出会っていました。









2022年4月16日土曜日

去るものの上に栄えるもの。

 以前、我が家の庭には、スモモの大きな木がありました。

あまりに大きくなり、スモモの実がカラスに狙われるようになり

あちこちに食い散らかすものですから、思い切って伐採してしまいました。


なかなかの大木でしたから、根こそぎというわけにはいかず

直径20センチほどの切り株が残りました。

今年の春は、その切り株の周りに、ハーブが密生し

他にもいろんな種が覆い尽くしています。

僕には、切り株が、いろんな草たちの日向ぼっこの縁台に見えます。


大木があった頃は、地面の草たちにとっては、暑い日差しを遮って

木陰を作ってくれる役割だったかもしれませんし

もしかしたら、その頃には、今とは別の植生があったのかもしれません。


スモモの大木は、もうありませんが

その周りの植物たちに、生きる場所を与えています。

周りの植物たちは、大木が残した切り株にうまく頼って茂っています。

整理整頓とか、体系化とか、論理とか、いったものとは

かなり縁遠い光景で、それぞれが思い思いに茂っているように見えますが

それでいて、それぞれの場所に一番ふさわしい茂り方をしているのでしょう。

全部がハーブでもダメでしょうし、何かの植生と別の何かの植生が

定規で区切ったように分かれていてもダメでしょう。

ゆるやかにもちつもたれつしながら共生しているのだと思います。

完全に無秩序ではなく、それでいて窮屈な秩序はなく

生きるべきところに生きるべきものが生きている。


そんな光景を眺める時、僕は飽きることがありません。



2022年4月15日金曜日

感情と身体運動と。

 忙しい時、煮詰まった時、落ち込んだ時など

感情の動きに呑み込まれ、足元がおぼつかなくなりそうな時にこそ

ちょっとした時間を見つけて、運動をします。

筋トレをしたり、走ったりします。


人間にとって、感情の動きはとても大事なもので

論理を超えた価値を持つと思います。

理屈で割り切れない時、自分の感情の動きにじっと耳を傾けることで

自分がすべきことが見えてくることが多々ありますから。


でも一方で、感情の力はとても強く、それに絡め取られると

気分がひとところに硬直したり、視野が狭く限定されてしまったりします。

それは、いずれ、判断を偏った方向へと導きかねません。


僕が、身体運動を大切にするのは、感情と距離を起きたいからでもあります。

感情の声に耳を傾ける大切さは重々承知しつつも

感情というのは、ちょっとしたことで変化する一時的なものでもあるので

ひとときの感情に絡め取られないように、筋トレをし、走ることで

固まりすぎかねない感情をほぐします。


感情は大事だけど、絶対視しない。

感情と同じくらい、身体運動を大事にする。

適度に追い込んで走った後、息を切らせながら、走り切った充実感に浸る時

走る前には感じていなかった幸福に包まれます。



2022年4月14日木曜日

存在は不在によって証明される。

 カレーライスにおけるジャガイモの役割は

ジャガイモ好きな人にとっては、はっきりしているかもしれませんし

昔ながらの大きめな具がゴロゴロしたカレーライスに馴染んでいる人にとっては

そんなこと説明するまでもなく、それなくしてカレーライスではない

というかもしれません。

だから、わざわざ、ジャガイモ抜きのカレーライスを

作ろうなどいう発想にはならないでしょう。


でも、どんなにわかっているつもりのジャガイモの価値も

ジャガイモがあり続ける限りにおいては、その理解には限界があるようにも思えます。

ジャガイモが入っているカレーラースを食べ続ける限りにおいて

ジャガイモがそこで果たしている役割や、ジャガイモそのものの価値の深さは

十分に理解できないでしょう。

なぜなら、ジャガイモが、そこに、あってしまうのだから。


それがそこにあってくれることの価値は

それがもう2度とそこにはない、という状態がやってきて初めて

深く理解されるのだと思います。


ジャガイモの存在する価値は、その不在によって証明される。

ジャガイモの価値を真に理解するために、わざわざジャガイモを不在にするのは

ちょっとしたお試し、お遊びとしては、ありですが

ジャガイモの価値を理解するために、2度とジャガイモをカレーに入れない

というのは、行きすぎた判断でしょう。

もっと素直にジャガイモ入りのカレーライスを楽しみ続ければいいと思います。


でも、万が一、ジャガイモが世界から失われたら

その不在を嘆き、ジャガイモの真の価値を深く理解した後は

ジャガイモなしのカレーをいかに美味しくするかという

新たな一歩を踏み出すのが、カレーというこの上なく美味な食べ物を生み出した

創造的人間のあるべき姿だと思います。

ジャガイモに代わる何かを、ジャガイモが果たし続けた役割の深い理解の上に

探し、生み出すことを試み続ける、そして新たなカレーライスを創造する。

そんな日常の歩みこそが、不在により明らかになったジャガイモの存在の価値を

より発展的に高めるはずです。



2022年4月12日火曜日

退屈を楽しんでいる。

 暇つぶし、という言葉が表すように

何もすることがない状態、または、したくてもできない状態に対し

私たちはマイナスのイメージを持ちます。


色々やるべきこと、やりたいことがあって

そのために時間を費やせる時、充実感を持ちます。


確かに、その通りであるようにも思えるですが

よく考えると、このような価値観を望ましいものとして生きると

老いるに従って、できないことが増え、空白の時間が増え

それと向き合うことが苦しくなりはしないでしょうか。

または、病に臥したり、怪我をしたりして、できることが

一時的に、またこの先ずっと制限された時、

暗澹たる気持ちになりはしないでしょうか。


だからこそ、いつまでも若くいたいのだ、という考えもあるでしょう。

だからといって、それがいつまでも、誰にでも可能なわけではなく

長期的に見れば、やはり、できることが減っていきます。


病に臥し、天井を見上げるばかりになってしまった父は生前

ポツリと「退屈を楽しんでいる」と呟きました。

深い老い方を、ひとつ学んだ気がします。


2022年4月11日月曜日

ゆっくりだから速いんだ。

学びであれ、身体運動であれ、何かのプロジェクトであれ

速く目的に到達したければ、実は、特に最初は、ゆっくり動き出した方が良い

ということが、よくあるように思います。


 例えば、僕が好きな走るという行為では

最初に、速く体を動かそうとすると、逆に遅くなります。

60kg以上のの身体が静止状態から運動状態に移行するためには

まず最初に、とても大きなエネルギーが必要です。

しかし、速く動こうとすると、そこまで大きなエネルギーは生まれません。

ジタバタするばかりで、疲れて、結局、大した加速に至らず失速します。

速く走るためには、まず大臀筋などの大きな筋肉をダイナミックに使って

グイッと地面を押すことで、前進力が生まれ、その前進力があるからこそ

だんだん小さな力でも前に進むようになって

最終的には、長く加速し、そのスピードを維持できる、ということになります。


闇雲に走り込みをしても、速く走れるようにならない理由は

いかに身体を前に移動させるかについての原理的なことを

身体で理解できていないまま、運動量を積み重ねるからだと思います。

それは、故障にもつながります。


こういったことは、走るという運動に限らず

どんなことにでも、あてはまるのではないでしょうか。

自分が達成したいと思っていることが何で

そこに至るためのエネルギーは、どのように生まれ、持続するのかを

初期の段階で、じっくり試行錯誤しながら、体得していくことで

次第に成長や発展が加速し、少ない労力でもそれが持続し

その持続力こそが、目指すことの達成を引き寄せる。


速さを求めるなら、まずゆっくりと、深く取り組んでみる。

時に焦ってジタバタする自分に、言い聞かせるようにしています。



2022年4月10日日曜日

この時期のSNSが紡ぎ出すのは。

昨日は夜桜のライトアップを観に行ってきました。

もしコロナ禍でなかったら、屋台など出て賑わうのではないかと思うくらい

多くの人が、マスクをして、光の中に文字通り「浮かび上がる」ような

桜を思い思いに楽しみながら、ぶらりぶらりと歩いていました。


カメラやスマホを構えて、夜桜の姿を写真に捉えようとする人もたくさんです。

僕もそのうちのひとりで、この目に映る神秘的とも言える夜桜を

なんとか写真に捉えようとしたのですが、夜の光量では露出不足になり

なかなかに苦戦しました。


この時期のSNSには、僕も含めて、桜の写真をアップする人が増えます。

もう、爆発的と言ってもいいくらい、短期間に急激にSNSは桜にまみれます。

それぞれが、それぞれの場所から捉えた桜の姿と

それに対するエピソード、気持ちなどを添えてアップされ、シェアされます。


ハッシュタグを使えば、見ず知らずの人たちがアップした無数の桜の写真と

それへの思いを、どれだけでも見つけることができます。

世界中で色んな桜がシェアされ、

たまたま見つけた、遠く離れた誰かが捉えた桜に心動かされ

それをきっかけに、自分の桜に対する見方が少し変わったりもします。


この時期のSNSは、少し大げさに例えていうならば

世界中の人たちが、桜にまつわる物語をともに紡いでいるようなものだと思います。


ひとりで、または仲間内で桜を鑑賞している分には

その見え方のバリエーションには限界がありますが

世界中の桜を、世界中の人がそれぞれの場所で捉え、シェアし

お互いの桜への眼差しのあり方を刺激し合って、世界の見方を深化しあう

そんな壮大なことを、今、私たちはしているのではないでしょうか。



2022年4月9日土曜日

アイスボックスが美味しい条件は。

 今日は、あったかいというより、もはや暑い、という天気でした。

午前中に、走ったのですが、この気温だと筋肉がいつもより動きやすいのか

いつもと同じような感覚で走ったのに、速いタイムがでました。

特別に根をつめて集中トレーニングしたわけではない、いつもの心身が

生み出すパフォーマンスが、少しの気温の差によって変わります。

当たり前といえば、当たり前のことなのですが

物事というのは、たいていにおいて、関係性の中で成り立つのだなと

あらためて思います。


昼を過ぎて、ますます暑くなってきたので

コンビニで「アイスボックス」を買ってきて、部屋で食べました。

サイコロ大の氷にグレープフルーツの風味がついた氷菓子で

ガリガリ噛み砕くように食べます。

これが売り出された時は、こういうアイディアがあったかと感心したものです。

以来ロングセラーになっています。


今日くらい暑かったら、さぞかし美味しいだろうと思って

ガリガリ食べていたら、途中で、うん?ちょっと多いかな、と感じました。

もし、汗ダラダラになるくらい走った後だったら

あっという間に食べきっていたはずですが

午前中のランニングから一段落していたので、汗はもうひいていたので

アイスボックスに対する渇望は、やや弱まっていたようです。


これも関係性の中で生み出された結果です。

同じアイスボックスなのに、春先はまったく意識に浮かばず

暑くなった途端に食べたくなったものの、激しい発汗の後ではないので

一気に食べ切るほどではなかった。

もし、ランニング直後だったら、一気に、もっと美味しく食べきったことでしょう。


アイスボックスそのものの構成要素は、科学的に説明できますが

アイスボックスを食べるという現象の構成要素は

厳密には科学だけでは説明できないということではないでしょうか。

こんな例は、身近にいくらもありますし

もしかしたら、世界はこんな例で埋め尽くされているのではないかとも思います。



2022年4月8日金曜日

青空がこんなに美しいのは。

 今日はジャケットがいらないポカポカ陽気で

こんな日は、やっぱり桜でしょ、ということで

またも桜を愛でに行ってきました。

思い立った時に、すぐ近くに見事な桜並木があるというのは

本当に恵まれた環境だなと思います。


1週間くらい前にもここに来たのですが

その時は曇り空で、桜も満開までもう少し、ということろでした。

ので、あまり鮮やかな色を見ることはできなかったのですが

今日の桜の見事なこと、見事なこと、本当に見事でした。


桜さん、なんでこんなにたくさんの花を咲かせるの?

と桜の木々に尋ねたくなるほど(実際につぶやきました)

ものすごい密度で桜の花が空間を埋め尽くしていました。

薄いピンク色が満ちた景色に、華やいだ気分になると同時に

これほどの花を咲かせる桜の生命の力強さに圧倒される思いでした。


ここの桜は、川を挟んで両側に植わっているのですが

川を渡る橋の真ん中から見ると、桜と川と桜のコントラストがとても美しいです。

そして、今日は、桜と川と桜の上に、とてもつもなく澄んだ青空が広がっていました。

こんなに澄み切った青空を見たのは、今年初めてではないでしょうか。


川沿いに満ち満ちた桜の花々が、青空の美しさを際立たせ

澄み切った青空が放つ光が、桜の花々の美しさを一層引き出しているようでした。




2022年4月7日木曜日

今、ここにある桜は。

 早起きして、カメラ片手に近所を散歩してきました。

河川敷まで行くと桜が満開なので、その写真を撮ろうかなと思って

そちらに向かって歩き出すと、途中で、思いがけず立派な桜に出会いました。


そこに桜の木があるのは、多分、ずっと前から認識していたはずですが

いったん河川敷の桜を見に行く、という気持ちになって歩き始めていたので

意識は河川敷の桜で占められているところに

その道すがら、唐突にその桜がグイッと現れた感じでした。


桜の写真を撮るのは難しいです。

近寄って花をアップで撮れば繊細な美しさを捉えられますが

今日の僕が感じた、意識の中に突如として現れたような迫力は捉えられません。

ちょっと引き気味に、より広い範囲の枝振りをフレームに収めようとすると

ピントがあったり、あわなかったり、空が明るすぎると桜の花の印象が弱まったり。


デジカメが世に出る前は、写真を撮っても、どんな写真が撮れてるかは

現像してもらって、それが手元に返ってくるまでわからなかったのに

今では、その場で確認できますし、しかも

写した後で、パソコンに取り込んで、色調、露出などを調整することができます。

何か人工的な加工みたいで、反則っぽい気もしますが

そんな時に、ふと思うんです、今日、僕が見た桜は、本当はどんなだったのだろうって。


今日の散歩の途中、僕の前に突如として現れた桜は

不意を撃たれた僕の驚きの中ではそのような見え方をし

カメラの性能と僕の撮影技術の中では、またちょっと違う写り方をし

パソコン上で色調や露出を調整した後は、また違う見え方をします。

どれが本当の、あの場所にある桜なのでしょう。


僕は少々近眼です。

もしとても目が良くて、色彩に敏感な人があの桜を見たら

僕とは違う見え方をしているはずです。

カメラの性能がもっと良ければ、もっと違う写り方をしたでしょうし

パソコンで色調のバランスを変えれば、また違う桜の姿が現れるでしょう。

目の前に、ありありと見えていたはずの桜は

本当は、いったいどんな姿をしているのか

もしかしたら、いろんなありようがあって、本当のありようを目にすることは

誰にもできないのかもしれません。







2022年4月6日水曜日

岩だらけの海岸、あるいは磯、それからキノコ。

 大学の同級生に、キノコにやたらと詳しい友人がいて

彼と一緒に歩くと、僕がまったく気に留めない草むらの一部に

ある種のキノコを見つけて、なにやら教えてくれたことが

たびたびあったな、と思い出しました。


なぜ、そんなことを思い出したかというと

今日の仕事先のすぐ近くに、石だらけ、岩だらけの海岸があって

はて、こういう海岸は何と呼べばいいのだろう?と疑問に思い

調べてみると「磯」と呼ぶことがわかりました。

英語だと「rocky shore」です。


磯という言葉は、よく耳にしますし、

そもそもサザエさんの「磯野」という苗字で昔から馴染みがあります。

にもかかわらず、僕は、磯の正体をはっきりとは知らなかったのです。

磯の正体を知っている人にとっては

今日、僕が目にした石と岩だらけの海岸を見て

「美しい磯だ」とか「広い磯だ」と認識したことでしょう。

でも僕には「石が多い海岸も、あらためて見ると綺麗だな」と思ったわけで

磯と認識した人と比べると、ずいぶんと雑な捉え方になっています。


何でこの話が、キノコ好きの友人の話につながるかというと

彼は、信じられないくらいのキノコについての知識を持ち合わせていて

そういう彼の目に見える世界は、キノコと言ったら椎茸と松茸とシメジくらいしか

思い浮かばない僕に見える世界とは、

ずいぶんと違って見えているんだろうなと思ったからです。

少なくとも、キノコについての解像度が格段に違って

草や土にまぎれたほんの小さなキノコでもくっきりと見出すのでしょう。


磯にせよ、キノコにせよ、あらかじめ何をどれくらい知っているかによって

私たちは同じ世界に暮らしながら、違う世界を見ているんだなと思いました。





2022年4月5日火曜日

鬱金香の開花。

 ポストを確認しようとした時か、

荷物を受け取ろうとした時か忘れましたが

ほんの一瞬、庭に目をやった時、

いつもと違う色がそこにあるのを感じました。


目って、すごいですね。

ほんの一瞬でもいつもと違う何かを捉えるんですから。

そうかと思うと、いろんなことを見逃したりもするから

すごいんだか、鈍いんだか、わかりませんけれど。。。


さて、僕の目が一瞬のうちに捉えた、

庭先にある、いつもと違う色はチューリップでした。

ほとんどはまだ緑色の蕾の状態で

いくつかはうっすら朱を滲ませて膨らみつつあるものもある中で

たった一株だけ、鮮やかな朱色の大きな花びらを、パッと開いていました。


緑色だらけの環境の中で、たった一点だけが朱色を発していれば

それは、僕の鈍い目でも、一瞬で気づけたわけです。


昨日みた桜の花の形とあまりに違っていて

なんでこんなワイングラスみたいな形なんだろうと

そこに水を注ぎたくなったりもしました。


ふと気になって、チューリップは漢字ではどう表記するのか調べてみました。

「鬱金香」だそうです。なんだか重々しいというか、濃厚な字面です。

中国での表記がそのまま日本で使われるようになったようです。

由来は、チューリップの香りが、ウコン(鬱金)のそれに似ているからだとか。

ウコンが鬱金なのは、鬱金が「鮮やかな黄色」を表すからだとか。


チューリップの開花を通して

遠い昔の異国の人の思いに触れたように感じました。



2022年4月4日月曜日

桜を愛でるのは誰。

 外出ついでに、近くにある桜の名所に、ふらりと寄ってきました。

小川の両脇に並ぶ桜の木は、川に覆いかぶさるように枝を伸ばし

その先々にある蕾は、満開までもう少しというところでした。

ここから数日は天気が良いみたいですし

今週末にはちょうど満開の花見日和になるのではないでしょうか。


僕は、特別に花が好きというわけでもありませんが

一面に咲き誇る桜を観ると、やっぱり心が晴れやかに

浮き上がるような気持ちになります。


綺麗な花を見れば、美しさに見惚れ、写真を撮ったりもしますが

桜の場合は特別に心が動くように思います。

日本人には、桜を愛でる本能のようなものが埋め込まれているのでしょうか。


自分が、目の前の桜に対して、綺麗だな、美しいな、と感じ入っている時

果たして、これは、誰が感じていることなのだろう、と不思議な感覚になりました。

確かに、僕自身が、桜を観て、心を動かされてるのですが

僕の心がそのように動く性質というのは、僕が作ったものではなくて

子供の頃、周りの大人が桜に感動するのを見たことによってだったり

桜にまつわる物語や歌に、繰り返し触れてきたことによってだったり

または、もっと深く、僕の遺伝子の中に、はるか祖先から脈々と受け継がれてきた

桜に心躍らせてきた経験のせいだったりするのではないでしょうか。


日本の風土に生まれ育った祖先の末裔として

いろんなものことを脈々と受け継いだ結果として

今日の僕は、桜を愛でていたのではないかと思うのです。

桜を愛でていたのは、僕自身でありながら

僕の中に受け継がれている祖先の感性でもあるのですから。


そういえば、今日、目の前にあった桜は

はるか昔の桜の祖先から何を受け継いでいるのでしょう。

僕と桜の今日の出会いは、遠い祖先から脈々と何かを受け継いできた

人間と桜の出会い、長い時間の流れの交錯でもあったのだと思い返しました。




2022年4月3日日曜日

偶然の成功がもたらすのは。

 ここ数ヶ月、解けそうで解けなかったパズルが

パズルが解けないことについての記事を昨日、書いた途端に

今日の午後、ポロリと解けてしまいました。まったくの偶然です。

いつもと同じような動き方をしていたのですが

何かの拍子で、ちょっとだけ違う角度で動いて

そこから後は、パズル自体が勝手に動き出すように

スルスルと解けていってしまいました。

あらら、解けちゃった、という感じです。


数ヶ月、解けなかったものが、やっと解けた、という充足より

えっ?という驚き、呆然、という感覚に包まれました。


僕が望むパズルの解け方は、なんでそうすると解けるのかが

ちゃんとわかった上で、解ける、そして元に戻せる、というものです。

でも、今回の解け方は、あまりに偶然すぎました。

ですから、充足、喜びが、あまり湧いてこなかったのだと思います。


ラッキーな成功が得られたら

なんでそうなったのかを丁寧に振り返って

成功のメカニズムみたいなものを自分なりに取り出して

再現可能な状態にすること。


今回の偶然の成功は、再現可能な理解に辿り着いた時に

深い喜びを生み出してくれるはずだと思っています。

ので、解けてしまったパズルを、なんで解けたのかがわかるまで

いましばらく、もしかしたらだいぶ長く、あーでもないこーでもないと

触り続けることにします。


2022年4月2日土曜日

解けない過程をいかに楽しむか。

 パズルとか知恵の輪とかが好きです。

中でも、「はなやま」というメーカーの「はずる」というパズルが好きです。

以前は確か「キャストパズル」という名称だったように記憶しているのですが

今は「はずる」に変わったようです。


ずっしりとした重量感のある金属製のパズルで、造形的にも美しく

かちゃかちゃと動かしているだけでも気持ちが落ち着きます。

このブランドのすべてのパズルが好きなわけではなく

造形的に美しいものを選ぶようにしています。


パズルは、基本的に、そう簡単に解けないものですから

美しくないものを長時間、いじくっているのは楽しくないと思うからです。

見た目に美しく、触った感じも心地よく、ただ動かしているだけでも満足感を

与えてくれそうなパズルを選んで、いつまで経っても解けなくても

たとえ何ヶ月も解けなくても、手のひらに転がし、ためつすがめつしながら過ごします。

1週間も2週間も放ったらかしのこともあります。

でも、机の上の視野に入るところに転がしてあります。

ちらちら見ているだけでも美しいですし、ふっと解き方をひらめいたりするんです。

ひらめきが正しいとは限らないんですけどね。


解くことを急ぐと、解くことだけが目的になると、パズルは面白くなくなります。

いつまでも解けなくてもいいか、くらいの気持ちで

解く過程を楽しむ時、ポロリ、と解ける歓喜の瞬間がやってきます。

そんな時は、まず呆然とし、じわぁぁあと歓喜が押し寄せます。












2022年4月1日金曜日

創造的に優柔不断。

 昨日の記事で、街の本屋をうろうろ歩くのが好きなことと

街の本屋をめぐる体験には、オンライン書店にはない魅力がまだまだあって

それはこれからも続くと信じている、みたいなことを書きました。


それを書いた直後に、youtubeで、とある動画を視聴し

そこで紹介された出版されたばかりの本の内容に、ピン!と来まして

今日は、その本を探しに、街の本屋を覗いてきました。


その本は、ありました、1冊だけ。

まだ棚に並ぶ前なのでしょう、レジの横のワゴンのようなものに

仮置きされているのを見つけました。

表紙には近未来的な都市の光景が描かれ

僕の大好きな映画、ブレードランナーを思い出させました。

ピンク色の帯には「メタバースとは「神」の民主化だ」という

ちょっと煽りすぎじゃないの、と言いたくなるようなコピーが踊っていました。


昨日の僕は、街のリアル書店でしかできない実体験こそが大事なのだ

と言いつつ、すぐ翌日にはメタバースについての本に惹かれるのは

なんとも優柔不断だなと思います。


メタバースは、少し前から、脳裏をチラチラとよぎる程度には気になっていました。

zoomなどのオンラインコミュニケーションのもどかしさに、げんなりしつつも

もし技術がもっともっと高度化したら、すごい可能性が開けるはず、とも

思っていたからです。


今日、手にした本のタイトルは「世界2.0 メタバースの歩き方と創り方」です。

読み始めてすぐに、著者である佐藤航陽さんの考え方、世界観に引き込まれました。

あっという間に3分の1ほどを読み終えて、この記事を書き始めました。


本の内容の紹介のために記事を書き始めたのではなく

優柔不断であることの創造的な側面について言葉にしてみたくなったからです。

もし、昨日の僕が書いた記事のように、リアルの書店こそが大事なのだ

という価値観をいっさい譲ることがなく、ひたすらにその道を突き進むならば

「メタバース」についての本を読むことはないでしょう。


でも、何かを信じたら、常にその反対側、周辺にある

自分が真剣に見ていないものについての視野を確保しておくというのは

創造的な態度であるように思います。

一見、対立するようなふたつの概念を深く見つめることで

その両方が目指す、より深い領域というものが見えてくることがあります。

片方だけ見ていたのでは見えない、より本質的なものです。


昨日の僕は、街の書店の中に、大きな世界を見ていたのですが

今日、手にとった「世界2.0 メタバースの歩き方と創り方」もまた

単なるハウツーではなく、世界の成り立ちについて深く考察した本でした。

僕はこの本を手にすることによって、リアルかバーチャルかという対立を超えて

世界とはどのように成り立つのか、創られるのか、について

より自由に考えられるようになる予感がしています。

最後まで読み切るのが楽しみです。