2022年2月28日月曜日

いつの間にか想定していたこと。

 天気が良く、日差しが暖かかったので

近くの山に出掛けてみました。

といっても、そんな大袈裟なことではなく

散歩の延長のように登れる、ごく小さな山です。

少し大きな丘、のようなものでしょうか。


最初の坂を登り始めた時に

自分が、いつのまにか、意識することもなく

ある景色を当然のこととして想定していたことに気づきました。


家の周りでは、除雪が行き届き

道路は、歩くのにそんなに不自由はありません。

田んぼこそ、雪に覆われたままですが

車道はもちろん、歩道も多くは、路面が見えています。

そんな景色を山の上り口にも想定していた自分に

そこにたどり着いて初めて気づきました。


そこでみた景色は、ほんの数十メートル進むと

普通の靴では歩くのが怖くなるような雪道でした。

暖かい季節なら車が通れるように整備された道が、です。


自分の家の近所で起きていることは

少し離れた山の辺りでも起きているだろうと

特に意識することなく想定していたことが、ちょっと怖くなりました。

怖いというと言い過ぎかもしれませんが

身近なことを、身近ではないところまで延長して想定するという

考え方が自覚することなく生じていることに、不意を打たれたので。




2022年2月27日日曜日

見逃していたことに気づく。

 運動と気分転換とシャッターチャンス探しをかねて

夕方、近所の散歩に出かけました。

もう少し暖かければ、元陸上部としては

走りに出かけるところですが、今日の気温ではまだ無理せず

のんびり散歩を選択しました。


歩き始めは、体のバランス、動きのタイミング、息遣いなど

運動としての散歩、ウォーキングに意識が向いていて

景色はただ視界に入っているだけ、という状態でした。

このように自分の動きに意識を向けるというのは

僕にとってとても良い気分転換になります。

自分で自分を制御できてるかどうかをチェックし

より良い動き方を模索することで、

大袈裟にいえば自己効力感を涵養しているような感覚になります。


動きのチェック・修正をしながら1キロ半ほど歩いた頃

河川敷にさしかかりました。

ちょうど夕暮れの太陽が、川の水面に映っているタイミングでした。

なぜだか夕暮れは、とかく心惹かれて、シャッターを押したくなる景色です。


沈みゆく太陽と、水面に伸びる太陽の光の、一番のバランスを捉えるべく

スマホの画面を凝視してタイミングを待っていました。

その時、ふと、画角を広げることを思い立ち、広角設定にしてみると

今まで凝視していた夕暮れの太陽と川の水面という狭い景色の上に

広大な夕空とそこに流れる雲が飛び込んできました。


飛び込んできたというのは僕の印象で

実際は、僕が夕暮れに向きあっている間ずっと

そこに、その空と雲はあったのですが

僕が夕暮れを凝視するあまり、それに気づかなかったわけです。

それが広角にしたとたんにフレームインしてきたので

まるで飛び込んできたかのように見えました。


何かを見つめるということは、何かを見逃すことだと

広大な空を走る雲が教えてくれました。















2022年2月26日土曜日

海と空がある理由は。

 昨日は山奥でラーメンを食べ

今日は海沿いでカレーを食べました。

久しぶりに海を見ました。

寄せては返す波の音、水面を吹く風の音。

水平線を押す空、空を支える水平線。

空と海が溶けあうように見える時もあるのですが

今日は、空と海がキッパリと向きあっているように見えました。

一度として、一瞬として同じ景色は見えません。

ずっと眺めていても飽きることがありません。


この空と海が、今まさに砲火を交える遠い国にもつながっていることを思い

その人たちはどんな思いで、空や海を見つめるのだろうと思いました。


今日の僕のように、ゆったり穏やかな気持ちで見つめていることは

あまりないのではないかと想像します。

もしかしたら、空も海も、視界に入らない状況かもしれません。

ただ身を守るために、ただ大切な人と生きるために

生き延びる道のありかを探し求めるのが精一杯かもしれません。


そんなことを考えているうちに

世界の人たちが共有しているのは、空や海だけでないことに思い至りました。

私たちは一人残らず、この空の下で、この海の恵みから進化してきた

生命体であるということです。


ひとりひとりの個性の違いはあれど

人種が違っても、ホモサピエンスとしての成り立ち方は

まったく同じものを互いのうちに共有してるはずです。


もしかしたら、だからこそ、海を見つめる時に

人は(全ての人ではないかもしれませんが)落ち着くのかもしれません。

波の波長が、自分の波長と同期するように感じるのは

そのせいかもしれません。


大いなる空と海に包まれて生き

そのうちには、生命体としてのまったく同じ成り立ちを持ちながら

互いの命を否定しあう世界を創り出してしまっている現実に

どう向きあえばいいのか、途方に暮れます。


生命体としての私たちが長い歴史先に存在しているのと同じく

生命体としての私たちが起こしてしまっているできごとには

長い見通しを持って、解決を諦めるわけではなく

目を逸らさず、向きあい続けることが必要なのだと思いました。


おそらく、途方に暮れるというのは、長い歴史を持つ問題に対して

その歴史の長さに比してあまりに短期の解決を望むが故に

起きる心のありようなのでしょう。


私たちが何を共有しているのか、を深く感じることが

向きあい続けるために、いちばん必要なのではないかと思います。

そのために、海と空が、世界にあるのではないかとさえ思えました。




2022年2月25日金曜日

それが生まれた場所で。

ミルクボーイのネタで

コーンフレークは生産者さんの顔が見えない

というのがありましたが(僕はとても好きです)


自分が食しているものの素材、狩猟者、加工者、調理者が

生きている場所で、それを食すというのは

ゆったり味わうべき、とても貴重な感覚をもたらしてくれます。

少なくとも、僕にはそんな時が訪れました。


獣害対策として始まった、山奥の亥ラーメンの店

それが今年は亥が獲れず、代わりに鹿が大量に獲れたので

鹿ラーメンを提供するようになっていました。

いずれにしても、そのラーメン屋さんは、亥と鹿が暮らす山奥にあり

今年の鹿を狩猟し、加工してくれた人は、そこに暮らしています。


雪に鎮まった山林の中にある小さなラーメン屋さんの

小さなテーブルに向きあって

その地の人が採取・加工してくれた柚子胡椒を混ぜて食べた

鹿ラーメンは極上の味わいであるだけでなく


それに関わった全ての命が、まさにこの地のものなのだ

その地の中で自分は、そこから得られた命をいただいているのだ

という、あたりまえのことが、深く響いてくる時間でした。


それは、その山に抱かれたような、その地と一体になるような

おおらかで安らかな食事体験でした。




2022年2月24日木曜日

過去の写真が知らせるのは。

 

これまで自分が撮ってきた写真を

振り返ってみると、気づくことがあります。

今なら、この光景に足を止めることはないかもしれない、とか

今なら、別のアングルから撮るかもしれない、とか。


自分が撮った過去の写真が現在の自分に知らせてくれるのは

その時に自分が目にした光景というよりも

その時にその光景を写真として切り取り残そうと試みた

自分の眼差しのあり方です。


精密機械であるカメラで撮影しているですから

そこに写っている光景は、確かにそのようなあり方をしていたのでしょう。

しかし、私がそこに向かってカメラを向けて

その瞬間にシャッターを押さなければ、その写真は撮影されないというのは

とても単純な原理、事実です。


過去の写真を眺めて

そこでシャッターを切った自分を

なんだか気恥ずかしくなることがあります。

時には、その時の自分を誇らしく思うこともあります。

いずれにせよ、その時と同じ眼差しを持つことは

時が流れる以上は、できないわけで

その眼差しの唯一性が愛おしくなることには変わりありません。



2022年2月23日水曜日

芽生えることと失われることと。

 雪の切れ目に、近所を散歩してきました。

真夏には呪わしいくらいに熱気を放出するアスファルトは

冷たく固く重々しく雪を載せていました。


近所には田んぼが多く、雪が積もれば、文字通り一面の雪化粧になります。

雪に覆われた白い光景というのは、もしかしたら

鏡のような役割を果たすことがあるのではないか、と思います。


穏やかな気持ちで見れば、しーんと静まり返って見え

昂った気持ちで見れば、雪の下から何かが湧き出てくる予兆が見えたりもし

落ち込んだ気持ちで見れば、どんどん閉ざされていくようにも見えます。


景色は、ただただ白いだけで、そこにはどんな意味もなく

そこに生まれる意味は、それを見つめる僕の内面を映していことになります。

今日の雪景色は、少し重苦しく見えました。


そんな気分を取り払うべく、大股で速歩な散歩をしました。

3キロくらいでしょうか、長靴で歩くから、余計にエネルギーを消費し

歩き終える頃には、身も心もホカホカしていました。


ホカホカした心身は、ホカホカした何かを景色の中に見出します。

出かける時には気づかなかった玄関先の鉢植えの芽吹きです。

芽が膨らみ、うちに秘めた力を、そとに噴き出そうとしている様に気づくと

実は、そんな芽は、あちらにも、こちらにもあることが見えてきました。


いくつもの芽吹きを見つめながら、もうひとつ気づいたことは

この姿は、何かが生まれてくることを意味しているだけでなく

この誕生を支えた何かが失われていっていることもまた

意味しているということでした。


この芽吹きは、地中の養分や陽の温もりや空気や水によって生まれたのであり

それらは、芽吹きのために費やされ、失われました。

失われたというと、起きてはいけないことが起きたような感じがしてしまいますが

実際には、失われることと生まれることは、自然の摂理として

あらゆるところで日々刻々と生起しているわけで

そこには、どんな特別な意味もないでしょう。雪景色と同じです。




2022年2月22日火曜日

もぞもぞと。

今年の雪はしつこくて、2月も下旬になるというのに

毎朝のように雪かきから1日が始まります。

雪が降ると外で運動するのが難しくなるので

気持ちが塞ぎがちになります。

太陽の下で、思い切り体を動かすことは、僕にとって

とても大事なことなんだなぁと、この季節、あらためて思います。


その上、何度目かのコロナ感染拡大で、しかも今までと一桁違う規模で

去年暮れには、ぼちぼち収まり始めたかかと微かな希望を持ったところに

いろんなことに急ブレーキがかかってしまっています。


顔と顔を合わせて、互いの息遣い、表情、声色など

人のエネルギーを感じながらのコミュニケーションが、また遠のきました。


コロナ禍を通じて、学び方も、働き方も

かなりの加速力でリモート化、バーチャル化が進んだようにも感じます。

それはそれで便利なことで、わざわざ出かけて行かなくても出来ることって

結構あったんだな、と日常の効率が上がることに喜んでもいます。


それでも、僕の心身が、やっぱり、もぞもぞと抵抗するのは

自分の心身の感覚を大事にしながら、世界との社会との人との

直接的な結びつきを大切にしたい、ということです。


私たちは脳のみにて生きるにあらず。

と、僕の心身の奥深くから叫びが聞こえてきます。

叫びというと大袈裟けですが、なんだか、世の中が手触りのない方向へ

加速しているような気がして、焦るのです。


雪が降るのを眺めながら

閉ざされた室内で、ダンベルを持って、自分の体と対話しながら

そんなことを感じています。