2022年3月31日木曜日

街の本屋とアマゾンの違いは。

 本屋の中をぶらぶらするのが好きです。

何の目的もなく本屋に入り、入口すぐにある「○○フェア」のような平積みを

取りとめもなく眺め、単行本の新刊コーナーをゆっくり見て歩きます。

単行本は大きくて高いので、専門書でなければ、あまり買いません。

文芸書はたいてい文庫本で買います。


文庫本コーナーを経て、雑誌コーナーに至ります。

雑誌コーナーの良いところは、あらゆる分野の雑誌が

その内容を表紙でわかりやすくアピールしているので

歩くだけで、いろんな世界のことが直感的に伝わってくることです。

盆栽もあれば、バイク、俳句、料理、収納、ファッション、サッカー、アイドル

などなど、ざーっと歩くだけで、世の中には、どんな営みがあるのかが

次々と目に飛び込んできます。


ファッション誌のコーナーでは、カッコよさや美しさを極めたような

モデル、芸能人が、こちらに最高の表情を向けてくれています。

ひとりひとりの顔を見るだけで、こちらの顔が綻びます。

はたから見たら、ちょっと不気味な光景でしょうけれど。。。


というわけで、僕は街の本屋をあてもなくぶらぶらするのが好きです。

本を見るだけなら、アマゾンのようなオンライン書店でも十分ですし

情報量や本探しのしやすさは、アマゾンの方がはるかに上です。

でも、僕は、街の本屋が好きです。

それは多分、ぶらぶらと、自分の足で歩きながら

本の世界をめぐることが、充足をもたらしてくれるからだと思います。


足を使ってぶらぶら歩き、目をあちこちに巡らせながら、思いがけない発見をし

本を手に取り、重みと紙の匂いを感じ、指先でパラパラめくり

こういった、体を使ったひとつひとつの本屋巡りの行為が

僕を豊かな気分にさせてくれます。


時折、ふっと立ち止まって、気が遠くなるようなことがあります。

それは、この本屋の棚にある本すべてに含まれる知恵や思いや情報を足すと

どれくらいの重さに、広がりに、高さに、深さになるのだろうと考える時です。

様々な著者が、編集者が、記者が、いろんな思いで本を世に送り出します。

この棚にある1冊1冊の本の向こうに、ひとりひとり違う顔を持った

本の送り手がいると思うと、限られた本屋のスペースは無限の世界にも思えます。

その無限の世界を、自分の体を使って、いろんなことを感知しながら

歩いている、巡っているという実感は、オンライン書店では味わえないものです。


今、いろんなことがオンライン化して、リアルの価値が問い直されていますが

僕は、自分がその世界にありありと存在し、動き回れるという点において

街の本屋は、オンライン書店をはるかに、当分の間、凌駕し続けると信じています。




2022年3月30日水曜日

無計画を計画する。

 もともと計画的な方ではないですが

やはり何かを成し遂げるには、事前に計画を立てて

進捗を管理しながら実行、修正を積み上げていくのが良いと

いろんな経験から、思います。

特にチームで何かを成し遂げる時には、計画が支えになりますね。


じゃぁ、なんで僕は計画的になりきれないかというと

計画を立てると計画通りに進めることこそが大事、という意識になってしまって

そんな自分がとても窮屈なんです。で、計画を放り出します。

そんなことを繰り返してきました。


もうひとつは、もし自分に先見性のある優れた計画が立てられるなら

計画に従うことも、もしかしたら窮屈ではないのかもしれませんが

僕の先見力、計画力は、たいしたレベルにはなく

自分が立てた計画に従うと、やはりたいしたことにはならないことが

次第にわかってきて、もはや計画に従うことも、計画をしなおすことも

嫌になってしまう、という残念な能力と性格によります。


でも、やっぱり計画が有効な場合は、日常にとても多いわけです。

多分、緻密な計画ではなく、隙間だらけの大雑把な計画を立てて

その隙間に、無計画に行動する、という要素を計画的に含めることが

僕にとっては一番、有効なんじゃないかと思います。


無計画に行動してみることで発見できることは、実はとても多くて

そもそも発見というのは偶発性の結果によることが多いですから

その発見に応じて、もともと大雑把な計画を修正するというスタイルを

とることが多いです。

大雑把な計画ですから、修正することに罪悪感も負担感もありませんし。


見通しは持たないといけないけれど

やってみないとわからないことって、いっぱいあるよね、って感じで生きてます。

いつも同じものを食べているラーメンですが

時折、いつもと違う食べ方をすると、発見があるわけです。

ささやかだし、失敗することもありますが。




2022年3月29日火曜日

元気の源は、ちょっとしたこと。

 走るのが好きな僕は、週に4日から5日くらい、走ります。

最近は、夕方に走ることが多いですが、朝の時もあります。

数年前は、10キロとか、長い距離を走っていました。

今は、体と相談しながら、500mや600mの距離を

ちょっと速い目のランニング(ダッシュとジョギングの中間くらい)をし

その後、筋肉の状態に応じて、30mから80mくらいの短いダッシュを何本か。

今の僕には、このくらいの負荷がちょうど心地よいです。


今日は、昨日の疲れが少し残り気味のような気がしたので

ペースを落として負荷の低いランニングにしようかなと思いながら

いつものスタート地点に向かっていたら

農作業をしていた、顔馴染みのおじさんに声をかけられて

しばらくお喋りを楽しみました。


じゃぁ、走ってきます、と声をかけて、おじさんと別れ

走り始めたら、思っていたより体が軽いのに気付きました。

そのままゴールまで走って時計を見たら、予定よりかなり速いペースでした。

その後も、上機嫌でダッシュをくりかえし

今日のメニューを終えました。


おじさんとのちょっとした会話が

今日のランニングをとても軽やかなものにしてくれました。

元気の源って、ちょっとしたことなんだなぁと思いました。


2022年3月28日月曜日

知り得ることと、感じうることと。

 最近は、もっぱら幕末の時代小説を読むことが趣味になっていますが

江戸から明治にかけて、人々の時間の感覚が変わったのだということに気づきました。

明治初頭に、1日を24時間にわけて時刻を表す「定時法」が導入されて

それまでの感覚からはあり得ないくらい、緻密に時を考えるようになったはずです。

なにしろそれまでは、「丑三つ時」とか「巳の刻」とか大雑把な時の捉え方しかなく

それが正確にいつを表すのかは、人の主観によって変わるので、定まらないという

ものすごい大雑把さだったのですから。


時を細かく、正確に知るようになって、得したこともいっぱいあるでしょうけれど

時をじっくり味わうように感じることは失われたような気がします。

自分の感覚で、互いの感覚で、今が1日のうちのいつにあたるのかを感じ取ることが

当たり前だった時代には、むしろ時に対して鋭敏だったのではないでしょうか。


今は、客観的な時を知り、共有することは当たり前であり

世界のどこで起きていることも、ほとんど起きた瞬間に知ることができます。

特に重大なニュースでなくても、身近な人や、身近でない人が

いつ、どこで、何をして、どんな気持ちなのか

SNSにいくらでも流れてきます。


時代とともに、知りうることは、とてつもないスピードで膨張しているのですが

その速度と量にふりまわされて、自分の手の届く範囲や内面で起きていることを

深く味わい、感じ、自分の考えを持って歩む

ということが難しくなってるなぁと感じます。


どこそこの誰それが○○をしたってさ、すごいなぁ、馬鹿だなぁ、羨ましいなぁ

そんなことができるのか、じゃぁさっそくやってみようか、などなど

気持ちが反射神経的に揺さぶられる機会ばかりが増えています。

ほんの20年ほど前は、今、知り得ていることなど、ほとんど知らないまま

日常を暮らしていたのに。




2022年3月27日日曜日

ひたすらに歩くことで。

 じっとしているのが苦手なもので

部屋にいるときでも落ち着きなくウロウロしていることが多いです。


脳というのは、放っておくと、余計なことでいっぱいになって

肝心なことを考える余力や集中力がなくなるので

瞑想のようなことも試みるのですが、なかなか続きません。

そのかわりに、僕はウロウロすることを無意識的に選んでいるようです。


ウロウロ歩き回ることで、脳内の余計なあれこれが鎮まって

整ってくるような感覚になるのです。

ウォーキングメディテーションとでもいいましょうか。


パソコンのディスプレイや、白紙に向かって、うんうん考えても出てこないアイディアが

ひたすらに歩き回っているうちに、ふわりと浮かんでくることがよくあります。

もしかしたら、人間の脳というのは、動きながら思考するように

進化しているんじゃないかとさえ思います。個人的な感覚ですが。


歩くことは、走ったり、筋トレしたりすることほどには負荷がなく

それに没頭する必要がないので、ほどよく脳が脱力して

思考の焦点がふんわりとぼやけて、創造的になるのではないでしょうか。

じーっと考えるのも大事なのでしょうけれど

それだと、考えが同じところをぐるぐる回ったり、硬直したりします。

思考の焦点というのは、あまりギリギリに絞り込まず、ぼんやりと全体を俯瞰するように

考えるのが良いように思うのですが、歩き回ることで意識が体の動きにほどよく分散し

思考の過度の集中を防いでくれているではないかと、歩きながらぼんやり考えました。



2022年3月26日土曜日

見る角度によって違うから。

 カメラを持ってウロウロと写真を撮り歩くのが好きです。

技術的なことはよくわからないまま、好きなように撮ります。

どちらかというと、自然のものに目が向くことが多いでしょうか。

花や、木や、空や、海や、動物や。


当たり前のことですが、写真に写るのは

僕が立っている位置からカメラを向けた対象の

その時間、その瞬間における姿です。


精密なカメラで写すからといって、写る対象のすべてを捉えられるわけではありません。

その時、そこから見えたように写るだけです。


ある対象を、捉える角度を変えながらパシャパシャと撮影し

あとから写真を見返してみると、同じものが写っているのに

カメラを向ける角度によって、ずいぶん違った印象が浮かび上がることに気づきます。


見る角度だけでなく、見る気分というのもありますね。

お腹がいっぱいの時に、ある写真を見たとして

同じ写真を、空腹の時に見たら、全然ちがう意味を見出すかもしれません。


何かを写真に捉えるということは

その時、その場所からに限って、対象を切り取ることであって

いったん切り取った対象だとしても、いつ、どんな気持ちでそれを見るかによって

何が写っていると解釈するかは、異なるのだと、あらためて思いました。


2022年3月25日金曜日

ただそこにいることが許される場所が。

 書店に行けば、普通は本を物色したり

お目当ての本があれば、その棚に向けてまっしぐらだったり。

コンビニに行けば、缶コーヒーを買い、立ち読みはあまり許されないので

そそくさと店を出たり。

職場に行けば、仕事を次々とこなし、より短時間でより高い成果を出せば

高い評価を受けて、良い待遇を得られたり。

学校へ行けば、授業を受けて、テストのために勉強をし

成績を返されるたびにヒリヒリとした思いをし

そこから束の間逃げ出そうとしてゲームに没頭すれば

ついついのめり込んで、親に怒られたり。


世の中、とかく忙しいというか、すべきことが詰まっているというか

あっちにいっても、こっちにいっても、そこですべきことが決まっていて

いや、時には、何にも決まっていないこともあるのですが

今時は、ネット情報が豊富で、どこどこへ行ったら、なになにをした方が良いとか

余計なアドバイスが山のようにあります。


ボーッとテレビやネットを見ているだけでも、すべきことが押し寄せてきます。

CMであれ、ドラマであれ、スタイリッシュだったり、可愛かったり

頑張り屋だったりする登場人物が、魅力的な日常を生きてみせます。

そこに込められた暗黙の、時に明示的な、メッセージは

あなたの生活は、まだ不十分ですよ。こんな生活してみたいでしょ。

だったら、これを選びなさい。これをしなさい。

という、視聴者の生活の欠落を指摘し、その充足を商品やサービスによって

埋めるように誘うものです。


世の中が忙しないのは、押し寄せる情報のせいでもあり

都市化が進んで、目的に向けて効率的にそれを達成する機能的な場所が

街に溢れてしまったせいでもあるように思えます。


何もしなくてもいい、ただそこにいることが許される場所。

一見、無駄で、非効率で、何のためにあるのか、よくわからない場所。

濃密な町の中に、そんな余白や余剰のような場所があることで

何もしない、ただただ、そこにいるだけ、という時間が持てるのではないかと思います。



2022年3月24日木曜日

森の落ちつき。

 森にわけいって、木々に囲まれて風の音や木漏れ日を感じると

なんでこんなに落ち着くんだろう、というくらい心がシーンと鎮まります。

大きな命の中に包み込まれたような感覚です。

海でぷかぷか浮かんでいる時には感じず、森の中で感じます。


森といえば、小学校の頃の秘密基地を思い出します。

最初に基地を作ったのは、家のすぐ近くのススキ林の中。

小学生がその中に分け入って仕舞えば、周りからはもう見えません。

誰にも見えないその場所で、ススキを切って、落ちているゴミを組み合わせて

子供ふたりが入ったらもう鮨詰めになるような小さな秘密基地を作りました。

誰にも見えないところに作った、誰もしらない秘密基地の中で

枯れたススキが立てる音や、土の匂いを感じながら

ボーッとしていたことを思い出します。


子供がススキとゴミで作った基地ですから

何度か雨が降ったら、壊れてしまったんだと思います。

その基地がどうなったか、記憶が途切れていますから

あまり執着がなかったのでしょう。


もう少し大きくなってから、小学校の高学年くらいの時

近所より少し離れた山の中、太い竹がいっぱい生えている場所がありました。

そこにわけいって、小さな斧を使って、勝手に竹を切り倒し(ごめんなさい)

さらに短く切ったり、割ったりして、組みあわせ

以前のものより、もう少し大きな秘密基地を作りました。

子供の手には大掛かりだったので、1日では完成せず、

何日か通いながら作り上げました。

でも、なぜか、ススキ林の秘密基地のような高揚感はありませんでした。

ススキ林の頃より、少しだけ成長して、自分の世界が広くなって

あれこれ知って、興味のアンテナも広くなって、相対的に秘密基地の価値が

落ちていたのかもしれません。

完成したら満足して、すぐに放置してしまいました。

1週間か10日がすぎた頃、あれどうなってるかなぁと、基地を覗きに行ったら

さすがに竹で作っただけあって丈夫で、しっかり残っていました。

まだ、ちゃんとあるんだぁ、と驚き、中に入ったら、さあ大変。

秘密基地の中で、しっぽり落ち着いた空気に包まれることを期待していたのですが

実際は、ものすごい数の蚊に襲われました。

竹で作ったので、そこが蚊にとっての絶好の住処になったのでしょう。

わーっと逃げ出し、もう2度と近づきませんでした。


以来、秘密基地を作ったことはありませんが

秘密基地的なものに対する憧憬は、ずっと続いています。

誰からも見えない、誰も知らない、自分で作った、ひっそりとした空間。

そしてそれは、森に包まれていないといけません。

さわさわと風の音がして、木漏れ日が差してくる森の奥に。








2022年3月23日水曜日

過去が不確定であること。

 過去に体験したことについて思い出していると

いつの間にか記憶が都合よく脚色されていて、無自覚だったり

または、とんでもない勘違いが紛れ込んでいたり

時を隔てたふたつの出来事が一体のものとして記憶されていたり

記憶が変形していることがよくあります。


完璧な記憶なんてものがないのであれば

過去に何が起きたかは、どこまでいっても不確定なんじゃないか

そんなことを考えることがよくあります。


事実はひとつ、とはいうものの、事実は何らかの解釈を含み

解釈はある特定の立場、利害などからなされるので

誰がいつ解釈するかによって、過去の事実の意味はいくつも生まれ得ます。


過去に何があったかは、思い出す人と、時期によって変わります。

青年時代の苦い思い出が、中年になって微笑ましい出来事として思い出されたり

かつては大成功だと自負していたことが、今思えば、赤面ものの勘違いだったり

人は成長したり退化したり、とにかく時間と経験の中で変化していきますから

過去を見つめる視点も解釈も刻々と変わっていきます。

だから、過去に何が起きたのかは、どこまでいっても不確定だと思うのです。


過去については何も知り得ない、という希望のない話にしたいわけではなく

過去からは、振り返るたびに、多様な意味を発掘することができて

それは、未来を切り開く手がかりやエネルギーに変換できるはずだ、という

希望に満ちた話をしているつもりです。



2022年3月22日火曜日

考えること、行動すること。

 うじうじ悩んでいるんだったら、思い切ってやってみろ

というアドバイスは、よくありますね。

考えすぎずに行動することで道が開ける、というケースです。


これだと、ただの無鉄砲になってしまうこともありえるので

行動する前にはよく考えよう、という考え方もありますし

選択肢としては、じっくり考えたけど行動はしない、というのもあります。


考えるか、考えないか、行動するか、行動しないか

2×2で、4パターンの選択がありえるわけです。

あれ?上の説明には、ひとつ抜けていますね。


もうひとつ残っているのは

考えもせず、行動もせず、というパターンです。


これはもはや、生きていることになるのか、という気もしますが

でも、思うんです。こういう時間が、日々の暮らしの中にあってこそ

考えたり、行動したりする時の、切れ味が増すんじゃないかって。


ただただ今ここに居る、佇む。

何を思い悩むわけでもなく、目指すわけでもなく

勇気ある一歩を踏み出さず、仕方なしの行動もしない。

ただただ、今ここに、いる、あるだけ。

なんだか禅の境地みたいですけど、そこまで高尚なことでもなく

この前、動物園に行った時に、動物たちが、あまりにも自然に

ただただそこにいるだけ、特に動かず、表情も変えず、ただ佇んでいる

という姿を見たことを思い出して、なんで人間はそういう時間が少ないんだろう

ただ佇むというのは、本来、自然で、必要な時間の過ごし方ではないだろうか

と思った次第です。




2022年3月21日月曜日

おおらかであることこそ。

 浅田次郎の一刀斎夢録を読んでいたら

深く共感する一節に出会いました。

新撰組の生き残りである斉藤一が主人公なのですが

彼が時代の流れを振り返りながら、次のように語ります。


「早い話、世の中が大まかであった。大まかというのは、大らかの異名じゃ。

文明開花は人間を小さくしてしもうたの。はてさて、このように次から次へと

文明の機械が世に現れれば、百年の後には

いったいどれほど人間が小さくなってしまうのか。

少なくともそれは進歩ではあるまい」


物語の設定では、彼がこの言葉を語ったのは、1915年頃と思われます。

ですから、彼のいう「百年の後」とは、ちょうど現在にあたります。

現在から文明開花を見れば、なんとも素朴な「開花」ではありますが

それであっても、江戸時代を知る斉藤一には、おおらかさを失い

人間を小さくしてしまったと映ります。


現代は、あらゆるものが高速化し自動化し、AI時代を迎えようとさえしています。

そんな中で、私たちは、ますますストレスにさらされ

人生百年時代と言いながら、その内実は、はたして進歩しているのだろうかと

疑問に思う出来事が次々に起きています。


自分と世界をゆったりと、おおらかに捉え、本当に大切にしたいことを

じっくりと大切にしながら日々の暮らしを営む。

そんな中で人間として内実を少しずつ磨き深めていくべきなのに。


すぐに物が手に入り、簡単に何かが実現できて、手間暇かからなくなって

でも、みんな辛そうです。忙しそうです。

本当に進歩したなら、楽しそうで、ゆったり、むしろ暇になるはずなのに。

じっくり手間暇かけて、ゆっくり、暇に、暮らすことを目指したいです。





2022年3月20日日曜日

歳を重ねるということは。

 歳とったかなぁと感じることが、50歳にもなれば

さすがに日常のそこここであります。

40歳頃までは、陸上部で走っていたようなフォームで走れましたが

今は、かつてのフォームの上辺をなぞったようなぎこちなさが滲みます。

望ましい形、タイミングで体を動かすために必要な筋力が

弱まってしまっているのでしょう。


かといって、闇雲に動いて、走る速さを取り戻そうとすれば

効果的面に怪我をします。これまで何度もそんな目に遭ってきました。

走れなくなることの喪失感が、焦りを生んで、無茶をして

余計に走れなくなるという悪循環です。


最近は、どこか力が抜けてきて、そういう衰える自分と向きあって

今の心身で可能な走り方を模索することを楽しむようになりました。

この筋力と反射神経なら、どんな動き方をすれば一番心地よく走れるのか

そのために必要なトレーニングはどんなものかを考えるのです。

筋力も疲労回復力も十分にあった若い頃は、今にして思えば

ずいぶんと雑な走り方、鍛え方をしていたものです。

今の方がずっと繊細に自分の心身と向きあっているように思います。


歳だからと言って、あきらめるのではなく

歳を受け入れつつ、その中のベストを見つける。

しがみつかず、うけいれ、それでいて諦めず、今ここからの道を開く。

歳を重ねるということは、考えようによっては、なかなかにクリエイティブです。





2022年3月19日土曜日

奇妙に見えていたはずが。

 動物にせよ、植物にせよ

どうして、そんなにヘンテコリンな姿に進化したのだろう

と思わざるを得ないような種がたくさんいます。


長かったり、短かったり、赤かったり、緑だったり

トゲトゲだったり、ツルツルだったり、ヌルヌルだったり。

考えうる限りの、いや、僕の想像力をはるかにこえて多様な姿が

自然界にはあります。


動植物のそんな多様さは、おそらく、いや確実に

動植物がフザケてやろうと思ったり、素行不良になってやろうと思った結果ではなく

生きているその場所に一番適した結果として、その姿があるのでしょう。

簡単に言って仕舞えば、自然にそうなった、ということです。

そうするのが、そこでは一番、自然で、生きやすいということで

長い時間の流れの中で選択されてきた、もしくは、他が消去されてきたはずです。

彼ら(動植物たち)の姿は、一見奇妙ですが、このように考えてくると

とても自然な、必然性を持った姿に見えてきます。

そうなるべくしてそうなったという、強固な根拠を持っているのですから。


それにくらべて、彼らよりはるかに高い知能を持っているはずの

人間の姿や社会は、自然とはかけ離れた奇妙なありようをしています。

なんでそうなるのか、わけのわからないことが、日々起きています。

そんなことをして、誰が得をするのか、豊かになるのか。

動植物が必要なものを必要なだけ生産したり、消費したりするのに比べ

私たちは、とんでもない量や種類を生産し、消費し

高速で変化させていき、資源を無駄にし、同類を、そして自然を痛めつけます。

ごく短期的に見えれば、そのような営みで得をする人たちもいるのですが

人間の知能とは、その程度のものなのでしょうか。


動植物が長い時間をかけて、自然に変化していくのに対し

私たちは短い時間で、不自然な変化を繰り返し、自他を苦しめます。

自然な根拠を欠いたルール(暗黙も含め)を作り

それを時に無理やり共有し、首を絞めあっています。

とても奇妙に思えます。


サピエンス全史、ユヴァル・ノア・ハラリによれば

ないものをあるかのように信じ込んで共有することで

つまり、虚構の物語を共有することで

人間はこのような文明を創り得たわけですが

自然の摂理からまったく乖離した短期的な虚構は

自分も自然も破壊するのだと思います。


自然に基礎を置く、長くて深い虚構を紡ぐことが

これから必要なのではないでしょうか。



2022年3月18日金曜日

あるがままの力が滲んで。

 動物園が好きです。

たまに行くだけですが、夢中の時を過ごせます。

子供の頃よりも今の方が動物を見るのが好きだと思います。


何が好きって、、、一番の理由は、あの、あるがまま感でしょうか。

檻の中で生活している動物は、やはり不自然ではあるのですが

それでも、現代社会を生きる人間よりはずっと

のびのび自然であるように感じられます。


あるがままの動物たちには、現代人が失ってしまっている

溢れ出る力が見えます。

大きくて、太くて、一見、にぶそうな動物でも

背中や肩や太ももや顎の筋肉の躍動を見ていると

そこにとてつもない力が潜んでいることが伝わってきます。

あるがままの自然でいることで、その肉体に宿す力を

いつでも最大限に発揮できる状態に見えます。


それにしても、そんなにも力を宿しているように見える動物たちは

本当に、じーっとしている時間が長いです。

落ち着きなく動き回る時間もありますが、たいていはじーっとしています。

のんびり草を食べて、じーっとして、たまに歩き回って

それでいて、分厚い皮膚の下にはしなやかではち切れそうな巨大な筋肉。


人間の中にも、鍛え上げた巨大な筋肉を持つ人たちがいますが

動物たちの筋肉は、人間のそれとは、何か根本的に違うように見えます。

鍛えて強い、のではなく、強く育つのがスタンダードという感じです。

もちろん、強いといっても、人間と比べてということで

動物の世界の中では、強い弱いの差があるのでしょうけれど

動物たちは、自分の持つ力を、ごく当たり前に使えるのに対して

人間は、あれこれ考えて、やっと動物の何分の1の力しか発揮できません。

迷いのない、雑念のない、純粋な強さ、といったら

人間目線での描写になってしまいますが。。。


なんだろう。。。必要な時には躊躇なくすべてを使い切ることができて

必要でない時にはとことん弛緩できる、あるがままの在り方。

そんな動物たちを眺めるのが大好きです。



2022年3月15日火曜日

植えられたわけではなく。

 美しく整えられた植栽と、それらによって構成された庭も良いのですが

計画されたわけでなく、なるようにしてそうなった景色に

僕はとても惹かれます。


例えば、今日見かけたのは

近くにある公園の、古くなって崩れてしまったブロックの隙間から

力強く芽吹き、茎と葉を伸ばしている植物。

雑草ではないかもしれませんが、もともとはブロックで閉ざされていたところに

自分の居場所を見出した植物が芽吹いていました。


本来、意図していなかった場所に生えているのですから

公園のあるべき姿を描いている人、特に管理者にとっては

引き抜くべき雑草なのでしょう。


僕がこのような意図せざる景色に惹かれるのは

それがもともとあった意図を力強く乗り越えて、はみ出て

自分を表現しているからかもしれません。

緻密な計算のもとに作られた何かの隙間から

その緻密さを乗り越える力がランダムにじわじわと芽吹くのが好きです。





2022年3月14日月曜日

言葉の海を自在に泳ぐには。

 「博士と狂人」という映画を視聴しました。

オックスフォード英語辞典を創り上げた人たちのドラマです。

使われているすべての英語の意味、その変遷などを

辞書としてまとめあげる途方もない努力が描かれています。


ひとつの単語の検討に何日も何日も費やし、それからまた次の単語

という営みを見ていると、こんなに先の見えない仕事、まるで砂粒を積み上げて

ピラミッドを作るような仕事に、何が彼らを駆り立てるのだろうと思いました。


彼らの熱量に圧倒されるままにエンディングを迎えてしまい

その熱量の源は、一度の視聴では掴みきれませんでした。


あらためて思ったのは、自分が生きているこの世界も

彼らが生きたその世界も、すべて言葉でできていて、言葉を使うことによって

世界を生きることが可能になるのだな、ということです。

少ない言葉しか知らなかったら、世界は解像度の荒い姿で捉えられるでしょう。

多くの言葉を使いこなせたなら、世界の微妙な差異を味わうことができるでしょう。

ひとつの景色、体験が、多くの言葉によって語られることもあれば

少ない言葉によって語られることもあります。


言葉数を費やせば良いというものでもなく

詩や俳句のような世界の捉え方もありますが

世界を、いかに少ない言葉で表現するかが問われる時

それは、世界の微妙な意味の差異を豊かな語彙で捉え

そこから少ない言葉へと濃縮することが求められるのでしょう。

同時に、読み手も、少ない言葉の背景を思い描くには

与えられた言葉を起点として、豊かな意味世界を自ら描く力が求められるはずです。


自分は、日々、言葉の海という世界を泳いでいるのだと思いました。

言葉の海を自在に泳ぐには、世界をより広く深く知りたいという

欲求を持ち続けることが必要で、その欲求は世界を新たに紡ぎ出したい

という欲求につながっていくのではないでしょうか。



2022年3月13日日曜日

時の流れを感じたのは。

 あるお店で、若い店員さんが僕に向かって

「小学校の時、地区の運動会で

ものすごく速い人がいたので、よく覚えています」

と、まっすぐな眼差しで話しかけてくれました。


確かに、僕の人生にはそんな頃もありましたね。

陸上部で短距離をやっていましたし、社会人になってからも

ぼちぼちとは何らかの運動を続けていたので

40歳頃でも地域の中で目立つ程度には速く走ることができました。


彼の記憶の中にポジティブな印象を残せていたのなら

それは幸せなことだなぁと思いつつ

それは過ぎし日の僕の姿であって

当時の「ものすごく速い人」と、今の僕はだいぶ違っていて

なんだか、辛いなぁとも思いました。


それに、速い僕を見た小学生であった彼は

もう立派な若者になってもいるわけで

今度は、彼のような若者が、小学生たちから

すごいお兄ちゃんがいる、とか見られるんでしょうね。


陸上部でガツガツ走っていた僕は、社会人になりぼちぼち運動を続け

地元の運動会で、いつの間にか小学生の記憶に残り

その小学生が立派な若者になって、店員としてお客の僕に

当時のことを話しかけてくれる。

時の流れと、縁の巡りを感じた出来事でした。



2022年3月12日土曜日

太い根を深く広く。

 伝えようとした内容は、そう大きく間違っていないと思うけれど

ちょっと感情がたかぶって雑な言い方になったかなぁ

と思うことがあります。

自分では、たまに、だと思っていますが

もしかしたら、客観的には、ちょくちょく、なのかもしれません。

真実は、自己解釈と他者解釈の間にあるのでしょう。


それはともかく、そういうことがあった後は

だいたい自己嫌悪に陥ります。

だめだなぁ、雑だなぁ、乱暴だなぁ、浅いなぁ、などなど

自分の未熟さを責めることがしばらく続きます。


他者とのやりとりの中で、このような、自分的には、残念な言動が

引き出されるのですが、やり取りのさなかは、半ば自動的なので

そこでどのような言動になるかは、ひとりの時間にどれだけ

深くものごとを考えることができているか

にかかっているように思えます。


じっくりと、ゆったりと、自分が何を、なぜ大事にしたくて

どう進みたくて、誰と、どう関わりたいのか、など

自分の生き方の根幹についての、深い思索があればこそ

他者とのやりとりのなかでも、落ち着いていられるのではないでしょうか。


自分が生きるということについての、太い根を、深く広く伸ばし

常に、さまざまなことを吸収しながら、未来を太くし、枝を伸ばし

葉を茂らせ、花を咲かせるようでありたいと思います。


身近で起きることに振り回されたり、状況に慣れてしまったりすると

根を太くすること、深く広く伸ばすことが、疎かになるようです。

切り株の写真を見ながら自戒します。




2022年3月11日金曜日

ひだまりの縁側に佇むのは。

 今日は良い天気で、日差しが暖かくてやわらかく

心身のあちこちにある凝りや軋みをやさしくほぐしてくれるようでした。

父母の暮らす実家を訪ねると(自転車で5分ですが)

幼い頃の僕の遊び場だった縁側に、幼い頃と同じくやわらかい

ひだまりができていました。

幼い僕はここを走り回ったり、積み木を広げたり、お描きをしたりしていたのですが

そんなことができたとは到底思えないくらい

今ではこじんまりとした縁側に見えます。


そのひだまりに、これまた幼い頃から実家にある、頭の長いおじいさんの置き物を

床の間から持ち出して置いてみました。

以前ここで記事にした布袋様ほどには、僕にとって馴染みがなく

なんでこんなに頭が長いんだろう、と怪訝に思うばかりで

あまりまじまじと見たことも触ったこともない置き物です。


その置物が、なぜだか今日は、とても気になって、しかも

どうしても縁側のひだまりに置きたくなったのです。

ひだまりの縁側に佇む、頭の長いおじいさんは

おだやかに、ゆったりと、何かを思案しているようにも

遠い昔を思い返しているようにも見えました。


この縁側で日向ぼっこをすると幼い頃の感覚が蘇るように

このおじいさんも、この縁側で、自分の子供の頃を思い返しているのかもしれない

そんな思いも浮かびました。


幼い頃には、あまり気にしなかったこの置物の佇まいが

今日はとっても好ましく感じられました。

特に、このひだまりの中に佇む姿が、僕の奥深くに響きました。

暖かな中で、ゆったり、しずかに、おだやかに。

いいなぁ、こういう佇まい。


どうやら、この頭の長いおじいさんは

七福神のひとりで、福寿録と呼ばれるようです。



2022年3月10日木曜日

巨人の肩にのって。

 昨日のこと。

古い友人からの何気ない連絡がきっかけとなって

少し前に、立て続けに読んで感動した

でも、今は、本棚に詰め込まれたままになっている

ユヴァル・ノア・ハラリの本を手に取りました。


ノア・ハラリの「サピエンス全史」を読んだのは4年ほど前になるでしょうか。

歴史を俯瞰して、ダイナミックな動きをとらえるとはこういうことかと

目から鱗が落ちたことを覚えています。

その感動は、次作の「ホモ・デウス」でも再現され

続く「21Lesssones」では、今まさに見たこともない未来が生まれる

分岐点に生きているんだという興奮を覚えました。

エンターテイメント小説よりもずっと引き込まれたと思います。


ノア・ハラリは歴史学者で、歴史のことを語っているわけですが

彼の語りが感動的なのは、僕がまったく知らないことを材料にしているわけではなく

僕であっても学生時代の勉強や大人になってからの読書で

学んできて、知っているはずのことを材料にしながら

彼独特の鮮やかな手法でそれを捉え直し、分析し

歴史に対する深い洞察、未来に対する長い展望を描いて見せているからです。


例えて言うなら、僕と彼が同じ積み木を使って遊んでいたとして

僕は小さなお城を創って満足していたのに

その横で、彼は生き生きと動くバベルの塔を創って見せてくれた

という感じでしょうか。ちょっと違うかな。。。


知ること学ぶことは大事だし、多様な経験をすることも大事ですが

個々の知識・経験の積み重ねでは、なかなか辿り着けない境地

というものがあって、その境地からの景色を見るまで独力で歩むには人生が短過ぎて

だから、彼のような巨人の肩に乗せてもらって

深く、遠くまで見通すという経験をすることが大事なのだと思います。


巨人の肩からの景色を少しでも経験したら

そのすぐ後に、自分の身長の目線に戻ったとしても

遠くまで見通した残像とともに、目の前の現実を見ることができますから。

ずっと自分の身長の目線だけから現実を見ているよりも

少しだけ余裕が生まれるはずですから。




2022年3月9日水曜日

食べながら思うに。

 幸せなことに食欲が落ちるということがなく

毎日、毎食、美味しくいただけています。

日本に暮らす僕の日常の中で、食べるという行為は

ありがたいことに、ごく普通のこととしてあり

なおかつ、至福の時としてもあるという

あらためて考えてみると、なんと幸せな境遇にいるのだろうと

緊張する世界の中での自分の置かれた状況の希少さを思います。


今日は海沿いにあるサービスエリアでの昼食でした。

海を見ながら焼き魚を食べ、ご飯を口に放り込み、味噌汁を啜ります。

ときおり、添え物、漬物を間に挟みながら

淡々と、豊かな時間が過ぎていきます。


食べる物や場所は、時と場合によって変わりますが

(夕食は自宅で酢豚でした)

毎日、必ず、どこかで、何かを食べています。

そしてそれが、僕の血となり肉となります。

未来の僕は、つまるところ、この食べるという行為の

積み重ね、延長線上にあるのだなと思いました。


当たり前のことではあるのですが

実はすごいことのような気もします。


何をどう食べたか(誰と、どんな気持ちで、どこで、何を見ながら。。。)の

積み重ねが未来の自分を作るのであれば

日々、何をどう食べるかを、少しばかり意識すれば

未来は少しばかり望ましい方向に変わっていくということのようですから。


そして、もしかしたらそれは、食べることに限らず

何をどう読むか、何をどう見るか、誰とどう関わるか、などが

すべて未来の自分を作ることにつながるとしたら

やっぱり、これは、とてもすごいことのように思えます。

毎日、自分で自分を作り続けられるなんて、未来を作り続けられるなんて。

こんなに、美味しい話は、ないのではないかと、海を見ながら思いました。





2022年3月8日火曜日

お天道さんの偉大さについて。

 今日は快晴でした。

雲ひとつない青空が広がり、降り注ぐ陽の光が冬の地面から

生気を優しく引き出すようでした。


お天道さんが見てるぞ、ってよく言われますが(最近は言わないか)

太陽の力は、本当に凄まじく、素晴らしく、偉大だと

春が近づくこの頃には、しみじみ感じます。


どの命も、お天道さんの呼びかけに応じて目覚め

お天道さんめがけて伸びていくのですから。

逆もありますね。お天道さん目がけて伸びていく枝葉の反対には

地中深くへと根を伸ばす営みもありました。

いずれにせよ、お天道さんの力降り注ぐこの季節は

いろんな命が、お天道さんの力を自らの中に取り込んで

自分の命を解放していく季節です。


こんな季節に、部屋にこもっているのは、お天道さんに対して失礼。

ちょっとの時間であっても、お天道さんの顔を伺いに外に出ます。

その偉大な力は、ほんのわずかな時間でも、受け取れば

自分の中に眠る力を目覚めさせてくれますから。


そんな大袈裟な?

と冷めた自分が冷めた言葉で問いかけますが

冬の鬱々とした景色が、お天道さんの力で、あれよあれよと

緑に変わっていく様子を目の当たりにすれば

この広大な大地を変える力を持つお天道さんが

ちっぽけな自分の力を解放しないわけがないと思えます。


晴れた日は、どんなに時間がなくても、ほんの数分であっても

お天道さんの力を全身に浴びるようしたいです。



2022年3月7日月曜日

ニンニク諸相。

 昨年の秋、庭にニンニクの球根を植えました。

15個くらいだったでしょうか。

唐突に思いつき、植えたくなったのです。

ニンニクがどんな育ち方をするかなど、全く知らないまま

ごく簡単に植え付け時期と植え方を調べて植えました。


しばらくしたら、もこもことあちこちで地面が盛り上がり

ニンニクの芽が出てきました。

そこからの成長は速かったです。

スルスルスルと芽が伸びて葉になり、それが伸びて増えて。

この調子で大きく育っていくのかなぁと思っていたところに

雪の季節がやってきました。


ニンニクがどうやって冬を越すのかなど、全く知らないまま

どうなるんだろうと思いながら、ニンニクの上に積もる雪を眺めていました。

植えた場所は道路に近いため、除雪をした後の固い雪が

どうしてもニンニクの上にかぶさって固まってしまいました。

重い雪がニンニクの上に居座る日々が長く続きました。


2月も下旬になって、ようやく庭の地面が見え始めた頃

ペシャンコに潰れたニンニクの葉たちが現れました。

黄色く変色して、もう地面と一体化してしまったような

枯れているんじゃないかというような悲惨な状態でした。


これはもう、ダメなんじゃないだろうか、冬の間に何か

雪から守るような手立てをしなきゃいけなかったんじゃないだろうか

と思いながら、なすすべもなく、見守る日々が続きました。


3月になって、晴れ間が出る日が少しずつ増えてくるにつれて

ニンニクの葉が立ち上がってきました。

折れ曲がったまま、つぶれかけたまま、むっくりと頭をもたげるように。

黄色く変色して枯れているように見えた葉は、根本の方から

新たな力強い緑色の部分を覗かせていました。


冬の間、何してたんだよ。心配したじゃないか。

念を送りましたが、ニンニクは、じっとしたままでした。

これから、どうなるのか、見守る日々が続きます。



2022年3月6日日曜日

願いを込める。

どんなことであれ、100%確実なことはなく
どんなに優れた人であっても、やり損なうこともあれば
環境に恵まれなかったり、不意の出来事に足元を掬われたりするわけで
だから「願う」という行為があるのだと思います。

願うことと、要求することは、違います。
求めてはいるのだけど、相手によって齎されるのを待つのではなく
願う以上は、自分はそれに見合うだけのことをします
という誓いを立てるという側面が、願いにはあるように思います。

つい先日のオリンピックに出場したスター選手が、確か
「報われない努力もあるんだな」というようなことを発言していました。
極限の努力をした上でなお、叶えられない願いがあるとしたら
願うことの価値は、願いと共に生きる日々の中にこそ
あるのかもしれません。

昨年の春、いくつかの願いを込めて
龍の模型を創りました。
たくさんの金属部品からなる、精巧な模型で
けっして上手な出来ではありませんが
部品のひとつひとつに深い願いを込めながら、苦心惨憺の末、完成させました。
その龍は、今の棚の上にずっと佇み、家族を見守ってくれています。

願いを込めて作ったことに
そもそも願うべきことがあることに
そして、願いと共に健やかに過ごせていることに
感謝しながら、今日も美味しく晩御飯を食べました。



2022年3月5日土曜日

七福神についての勘違いが。

 幼い頃、おばあちゃん子だった僕は

祖母の歌や昔話を聴きながら育ちました。

どんな歌で、どんな話だったのか、ほとんど忘れてしまいましたが

「いなばのしろうさぎ」のことは、よく覚えています。

話の筋を覚えているのではなく、ひとつの場面を強く覚えています。


皮を剥かれてしまったウサギの姿や痛さを何度も想像して

忘れられなくなってしまったのと

何かの植物の上に寝転ぶと、ウサギの毛が元に戻ったというできごとが

なんで植物が動物の毛になるんだろう?という不思議とともに

記憶されていました。


その物語で、ウサギを救ったのが「だいこくさま」だということも

どんな文字を書くのか、どんな意味なのかもわからず

祖母の語りの中で覚えました。


当時、僕がいつも過ごしていた居間には、

にっこり微笑んだ太っちょの男の人の置き物がありました。

手触りが良くて、そのお腹や禿頭を、よく撫でていました。

撫でれば撫でるほど、ますますにっこりするように思えたのです。

僕が祖母から、いなばのしろうさぎの話を何度も聴いていたのは、その部屋です。

その太っちょの男の人の置き物を見ながら、撫でながら聴いたことも

あったと思います。

いつのまにか、僕は、その置物は大国様なんだと思うようになっていました。

確か祖母は、「これは神様なんやで」と言っていましたし

余計に、うさぎを救った神様である、だいこくさまだと思い込んだのでしょう。


今でも、その置物は実家にあります。

今日、実家の仏壇で、今は亡き祖父母に手を合わせた時

すぐ近くにある、その大国様であるはずの置物が目に入りました。

昔は居間にあったその置物は、今は仏間にあったのです。


近くでよく眺め、触ると、幼い頃の感覚が蘇りました。

それから、ふと、大国様ってこんなんだったっけ?と違和感が浮かびました。

七福神のひとりには違いないけれど、大国様はこんな姿ではなかったような。。。

すぐに調べてみました。僕の違和感が正しかったことがわかりました。


どうやらその置物は、布袋様のようです。

僕の中では、七福神を思い浮かべる時には、大国様は大国様として浮かびます。

なのに、幼い頃に撫でていたその置き物を目にすると

すでに知っている大国様とは違う姿形なのに

自動的に「これは大国様」と考えてしまうのです。

僕にとってのそれは、かけがえのない、唯一の大国様なのかもしれません。





2022年3月4日金曜日

河川敷にて。

 河川敷の遊歩道は、お気に入りのジョギングコースで

ジョギングをしなくても、ゆったり散歩するためにやってきます。

走ったり歩いたりするのに適した場所は

もっと家の近くにもあるのですが、少し離れた河川敷までわざわざやってくるのは

川の流れとその音に視覚と聴覚を刺激されることが

なぜだかとても落ち着くからです。


僕は音楽を聴きながら走る(歩く)習慣はありませんが

いつも耳を澄ましながら走ります。

大抵は、自分の足音を聴いています。

足音は自分の心身と地面が対話するリズムのように感じるからです。


河川敷を走る(歩く)時は、足音よりも川の流れの音に耳が誘われます。

川の流れの音の中に自分の心身が溶け出すような感覚になった後

それを伴奏に、足音がリズムを刻むのが聞こえ始めます。


車が行き交う場所を走っている時には決して得られない

自分が大きな何かの一部になる感覚です。

ゆったり落ち着いて、時の感覚が薄れていきます。




2022年3月3日木曜日

相手と出会うということは。

以前、蕎麦屋さんと話した時のこと。
今でも印象に残っている言葉があります。

蕎麦屋さんの仕事ぶりについて、伺っていたのですが
前日のうちに始まる仕込みから始まって、翌日の蕎麦打ちをへて
夜の片付け、そしてまた仕込みまで
同じことを、毎日繰り返しているように、僕には聞こえました。

それで「毎日同じで、飽きないですか?」と尋ねました。
その蕎麦屋さんの答えが、今も心の奥に残っています。
「同じということはないです。蕎麦粉は毎日ちがいますから」

細かい言葉の表現は忘れましたたが
彼の言葉から僕が受け取った意味は

「毎日向き合う蕎麦粉の状態も、その日の天気も、少しずつ違うから
その日にすべき仕事、その進め方も、少しずつ違う
同じことをしているように見えて、同じ日は一日もない」

というものでした。

蕎麦粉という生き物を扱う仕事のあり方とは
このようなものかと感心し
自分の物事の捉え方が、あまりに機械的で単純だったことを恥じました。

そういえば、包丁を作る刃物職人さんも
よく似たことを言っていたような記憶が、今、蘇りました。
同じ包丁をいくつも作っているように見えて
素材の状態は、ひとつひとつ違うから
その作り方もまた、少しずつ違う、と。

相手が生き物であれ、鉄であれ
同じものに出会うことは、ほとんどなくて
同じに見えて、少しずつ、時に大きく違う対象であることを
理解することが、ちゃんと出会う、関わるということなのだなと思いました。



 

2022年3月2日水曜日

むっくり。

 庭先の花壇に、チューリップの球根から芽が

むっくりと頭を出しているのを見つけました。

木に咲く花は、高い位置にありまし、鮮やかな色で目立ちますが

地面からわずか数センチ、頭を出している芽のことを

うっかり今日まで見逃していました。


よくよく見てみると、とても力強いです。

鍛え上げたアスリートの力強さではなく

天に向かってジリジリと一歩も引かずに伸びていく

覚悟を決めたような強さを感じます。

何を頼りに、このタイミングで出てきたのだろうと

尋ねてみたくもなります。


時計もタイマーもなく、お互いに合図をするわけでもなく

いくつもの芽が、ほとんど時を同じくして頭を出し始めています。





2022年3月1日火曜日

咲く花を見て思うのは。

 雪国の冬の空はどんより曇ることが多いので

気持ちもどんよりしがちです。

あくまでも僕個人の気持ちで

冬でも活力に満ちた方は多くいらっしゃいますが。


どんよりする景色の中に、早々と花が咲くと

一際目立ち、それに目をとめると、じっと見入ってしまいます。

見ている間、心の中にほんのり明かりを灯してくれるように感じながら。


こんな季節だからこそ、こんな景色の中だからこそ

色鮮やかな花は、とても希少で、価値の高いものに思えます。

でも、ふと立ちどまって考えてみると

花にとって、それを咲かせている木にとっては

花が咲くという現象は、自分が生きている間に生じる

ひとつの場面にすぎなくても、花が咲いていなくても

それはその木にとって、かけがえのない毎日のはずです。


花を咲かせることに向かって日々を生きている、というのは

人間が植物に与えがちな物語で、植物が側からすると

花が咲いていようが、じっと冬に耐えていようが

自分が一生懸命(これも人間による意味付けですが)生きている

時間であることには変わらないでしょう。


鮮やかな花に見惚れているうちに

見失いがちな、花が咲いていない日々のかけがえのなさを思いました。