浅田次郎の一刀斎夢録を読んでいたら
深く共感する一節に出会いました。
新撰組の生き残りである斉藤一が主人公なのですが
彼が時代の流れを振り返りながら、次のように語ります。
「早い話、世の中が大まかであった。大まかというのは、大らかの異名じゃ。
文明開花は人間を小さくしてしもうたの。はてさて、このように次から次へと
文明の機械が世に現れれば、百年の後には
いったいどれほど人間が小さくなってしまうのか。
少なくともそれは進歩ではあるまい」
物語の設定では、彼がこの言葉を語ったのは、1915年頃と思われます。
ですから、彼のいう「百年の後」とは、ちょうど現在にあたります。
現在から文明開花を見れば、なんとも素朴な「開花」ではありますが
それであっても、江戸時代を知る斉藤一には、おおらかさを失い
人間を小さくしてしまったと映ります。
現代は、あらゆるものが高速化し自動化し、AI時代を迎えようとさえしています。
そんな中で、私たちは、ますますストレスにさらされ
人生百年時代と言いながら、その内実は、はたして進歩しているのだろうかと
疑問に思う出来事が次々に起きています。
自分と世界をゆったりと、おおらかに捉え、本当に大切にしたいことを
じっくりと大切にしながら日々の暮らしを営む。
そんな中で人間として内実を少しずつ磨き深めていくべきなのに。
すぐに物が手に入り、簡単に何かが実現できて、手間暇かからなくなって
でも、みんな辛そうです。忙しそうです。
本当に進歩したなら、楽しそうで、ゆったり、むしろ暇になるはずなのに。
じっくり手間暇かけて、ゆっくり、暇に、暮らすことを目指したいです。
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