最近は、もっぱら幕末の時代小説を読むことが趣味になっていますが
江戸から明治にかけて、人々の時間の感覚が変わったのだということに気づきました。
明治初頭に、1日を24時間にわけて時刻を表す「定時法」が導入されて
それまでの感覚からはあり得ないくらい、緻密に時を考えるようになったはずです。
なにしろそれまでは、「丑三つ時」とか「巳の刻」とか大雑把な時の捉え方しかなく
それが正確にいつを表すのかは、人の主観によって変わるので、定まらないという
ものすごい大雑把さだったのですから。
時を細かく、正確に知るようになって、得したこともいっぱいあるでしょうけれど
時をじっくり味わうように感じることは失われたような気がします。
自分の感覚で、互いの感覚で、今が1日のうちのいつにあたるのかを感じ取ることが
当たり前だった時代には、むしろ時に対して鋭敏だったのではないでしょうか。
今は、客観的な時を知り、共有することは当たり前であり
世界のどこで起きていることも、ほとんど起きた瞬間に知ることができます。
特に重大なニュースでなくても、身近な人や、身近でない人が
いつ、どこで、何をして、どんな気持ちなのか
SNSにいくらでも流れてきます。
時代とともに、知りうることは、とてつもないスピードで膨張しているのですが
その速度と量にふりまわされて、自分の手の届く範囲や内面で起きていることを
深く味わい、感じ、自分の考えを持って歩む
ということが難しくなってるなぁと感じます。
どこそこの誰それが○○をしたってさ、すごいなぁ、馬鹿だなぁ、羨ましいなぁ
そんなことができるのか、じゃぁさっそくやってみようか、などなど
気持ちが反射神経的に揺さぶられる機会ばかりが増えています。
ほんの20年ほど前は、今、知り得ていることなど、ほとんど知らないまま
日常を暮らしていたのに。
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