2022年3月19日土曜日

奇妙に見えていたはずが。

 動物にせよ、植物にせよ

どうして、そんなにヘンテコリンな姿に進化したのだろう

と思わざるを得ないような種がたくさんいます。


長かったり、短かったり、赤かったり、緑だったり

トゲトゲだったり、ツルツルだったり、ヌルヌルだったり。

考えうる限りの、いや、僕の想像力をはるかにこえて多様な姿が

自然界にはあります。


動植物のそんな多様さは、おそらく、いや確実に

動植物がフザケてやろうと思ったり、素行不良になってやろうと思った結果ではなく

生きているその場所に一番適した結果として、その姿があるのでしょう。

簡単に言って仕舞えば、自然にそうなった、ということです。

そうするのが、そこでは一番、自然で、生きやすいということで

長い時間の流れの中で選択されてきた、もしくは、他が消去されてきたはずです。

彼ら(動植物たち)の姿は、一見奇妙ですが、このように考えてくると

とても自然な、必然性を持った姿に見えてきます。

そうなるべくしてそうなったという、強固な根拠を持っているのですから。


それにくらべて、彼らよりはるかに高い知能を持っているはずの

人間の姿や社会は、自然とはかけ離れた奇妙なありようをしています。

なんでそうなるのか、わけのわからないことが、日々起きています。

そんなことをして、誰が得をするのか、豊かになるのか。

動植物が必要なものを必要なだけ生産したり、消費したりするのに比べ

私たちは、とんでもない量や種類を生産し、消費し

高速で変化させていき、資源を無駄にし、同類を、そして自然を痛めつけます。

ごく短期的に見えれば、そのような営みで得をする人たちもいるのですが

人間の知能とは、その程度のものなのでしょうか。


動植物が長い時間をかけて、自然に変化していくのに対し

私たちは短い時間で、不自然な変化を繰り返し、自他を苦しめます。

自然な根拠を欠いたルール(暗黙も含め)を作り

それを時に無理やり共有し、首を絞めあっています。

とても奇妙に思えます。


サピエンス全史、ユヴァル・ノア・ハラリによれば

ないものをあるかのように信じ込んで共有することで

つまり、虚構の物語を共有することで

人間はこのような文明を創り得たわけですが

自然の摂理からまったく乖離した短期的な虚構は

自分も自然も破壊するのだと思います。


自然に基礎を置く、長くて深い虚構を紡ぐことが

これから必要なのではないでしょうか。



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