雪の切れ目に、近所を散歩してきました。
真夏には呪わしいくらいに熱気を放出するアスファルトは
冷たく固く重々しく雪を載せていました。
近所には田んぼが多く、雪が積もれば、文字通り一面の雪化粧になります。
雪に覆われた白い光景というのは、もしかしたら
鏡のような役割を果たすことがあるのではないか、と思います。
穏やかな気持ちで見れば、しーんと静まり返って見え
昂った気持ちで見れば、雪の下から何かが湧き出てくる予兆が見えたりもし
落ち込んだ気持ちで見れば、どんどん閉ざされていくようにも見えます。
景色は、ただただ白いだけで、そこにはどんな意味もなく
そこに生まれる意味は、それを見つめる僕の内面を映していことになります。
今日の雪景色は、少し重苦しく見えました。
そんな気分を取り払うべく、大股で速歩な散歩をしました。
3キロくらいでしょうか、長靴で歩くから、余計にエネルギーを消費し
歩き終える頃には、身も心もホカホカしていました。
ホカホカした心身は、ホカホカした何かを景色の中に見出します。
出かける時には気づかなかった玄関先の鉢植えの芽吹きです。
芽が膨らみ、うちに秘めた力を、そとに噴き出そうとしている様に気づくと
実は、そんな芽は、あちらにも、こちらにもあることが見えてきました。
いくつもの芽吹きを見つめながら、もうひとつ気づいたことは
この姿は、何かが生まれてくることを意味しているだけでなく
この誕生を支えた何かが失われていっていることもまた
意味しているということでした。
この芽吹きは、地中の養分や陽の温もりや空気や水によって生まれたのであり
それらは、芽吹きのために費やされ、失われました。
失われたというと、起きてはいけないことが起きたような感じがしてしまいますが
実際には、失われることと生まれることは、自然の摂理として
あらゆるところで日々刻々と生起しているわけで
そこには、どんな特別な意味もないでしょう。雪景色と同じです。
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