2022年2月23日水曜日

芽生えることと失われることと。

 雪の切れ目に、近所を散歩してきました。

真夏には呪わしいくらいに熱気を放出するアスファルトは

冷たく固く重々しく雪を載せていました。


近所には田んぼが多く、雪が積もれば、文字通り一面の雪化粧になります。

雪に覆われた白い光景というのは、もしかしたら

鏡のような役割を果たすことがあるのではないか、と思います。


穏やかな気持ちで見れば、しーんと静まり返って見え

昂った気持ちで見れば、雪の下から何かが湧き出てくる予兆が見えたりもし

落ち込んだ気持ちで見れば、どんどん閉ざされていくようにも見えます。


景色は、ただただ白いだけで、そこにはどんな意味もなく

そこに生まれる意味は、それを見つめる僕の内面を映していことになります。

今日の雪景色は、少し重苦しく見えました。


そんな気分を取り払うべく、大股で速歩な散歩をしました。

3キロくらいでしょうか、長靴で歩くから、余計にエネルギーを消費し

歩き終える頃には、身も心もホカホカしていました。


ホカホカした心身は、ホカホカした何かを景色の中に見出します。

出かける時には気づかなかった玄関先の鉢植えの芽吹きです。

芽が膨らみ、うちに秘めた力を、そとに噴き出そうとしている様に気づくと

実は、そんな芽は、あちらにも、こちらにもあることが見えてきました。


いくつもの芽吹きを見つめながら、もうひとつ気づいたことは

この姿は、何かが生まれてくることを意味しているだけでなく

この誕生を支えた何かが失われていっていることもまた

意味しているということでした。


この芽吹きは、地中の養分や陽の温もりや空気や水によって生まれたのであり

それらは、芽吹きのために費やされ、失われました。

失われたというと、起きてはいけないことが起きたような感じがしてしまいますが

実際には、失われることと生まれることは、自然の摂理として

あらゆるところで日々刻々と生起しているわけで

そこには、どんな特別な意味もないでしょう。雪景色と同じです。




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