2022年6月5日日曜日

テクノロジーを使う者に求められる謙虚さの源は。

 どんなに時代が速く変化していても

人間が自力で100mを走るには、10秒くらいはどうしてもかかり

0.1秒という瞬きするような時間の短縮でさえ、途方もない鍛錬が必要です。

もちろん、テクノロジーの力を借りるならば、例えば車に乗れば

100mの世界記録並みのスピードで10キロを走ることも容易になり

このようなテクノロジーの進化は、日々刻々と高速で達成されています。


このギャップが気掛かりです。

私たち、生身の生命体としては、そう易々とは能力を向上させられないにも関わらず

私たちに操作可能なテクノロジーは、とてつもないスピードで

できることの範囲を広げ、能力を高め続けています。

どんなにテクノロジーが進歩しようとも、それを操作するのは生身の私たちであり

私たちの心身の能力は、操作する対象であるテクノロジーから

ますます置いてけぼりにされつづけています。


少しばかり極端なことを言うと

心身の鍛錬をしないならば、テクノロジーを使ってはいけないのではないか

とさえ思います。


自分の心身を動かすこと、その能力を向上させることが

いかに難しいかを骨身にしみてわかっているのであれば

高度なテクノロジーを謙虚に使うことも可能かもしれません。


しかし、自分の心身のことには無頓着で、それとはまったく別個のものとして

または完全に外部化から装着された新たな自分の能力として

テクノロジーを扱う時、そこに謙虚さは宿るでしょうか、疑問です。


スマホやゲームにハマって、運動不足になるなんて

あってはならないことです。

スマホという高度なテクノロジーを触るなら、心身と深く向き合ってこそ。

現代は、高度なテクノロジーを、あまりに安易に手にできます。


テクノロジーへの過度な依存によって、現代文明は行き詰まりを見せています。

それをまたテクノロジーで突破しようと姿勢は、短期的に道を開いても

いずれまた、さらに大きな壁に行き当たるのではないでしょうか。

生身の生命体が刻むリズムに調和するテクノロジーのあり方こそが

今、必要なのではないかと思います。

または、生身の生命体にできることをいかに高め深めるかの探求を

忘れてはいけないのだと思います。



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