侘び寂びとか、くわしくはわかりませんが
飾り立てた美しさの対極にある、時の経過ともに増してくる、
削ぎ落とされた美しさのようなものでしょうか。
海外旅行は何度か経験があるものの、日本以外で暮らしたことはなく
いつも身近に和風の何かがあるのが当たり前の環境です。
お寺があり、神社があり、日本茶があり、日本庭園があり
初詣をし、墓参りをし、床の間には生け花や掛け軸があることに
何の抵抗もなく、特段の興味もありませんが、あぁいいな、程度には思って育ちました。
でも、これは多分、当たり前のことではないのだろうなと
外国の方が身近に増えてきた今、または外国との情報交流の機会が格段に多い今
あらためて思います。
和風の文化を好んで旅行に来てくれる外国の人は多いですし
中には日本人よりもはるかに高度な知識を身につける人もいます。
ですから、日本文化を愛好し理解するレベルにおいては
日本人の僕よりも、はるかに高みに到達する外国の人は多くいるはずです。
でも、傲慢でも何でもなく、ごく当たり前の想像として
生まれた時から身の回りに当たり前にあるものを、当たり前として育った場合と
物心ついてから、後から、外部からそれを学び取ったのとでは
何かが違うように思います。
違うから、どちらかが優れていて、どちらかが劣っているということではなく
そこには確かに違いがあるのだ、という姿勢でいてこそ
他文化の理解、交流、共生が可能になるのだと思うのです。
日本に生まれ育った自分は、自分でもうまく言葉にできない色んなことを
当たり前だと見做していて、だからこそわざわざ言葉にする必要性を感じずに暮らしていて
ところが、外国の人から見たら、僕が当たり前に思っていることの、ひとつひとつに
興味や違和感を持って、時に困り果てて、時に喜び、興奮する。
そういうひとつひとつに、立ちどまって、
互いの中に生じているなかなか言葉にならない思いを、
四苦八苦しながら交換できたら、そんな時を積み重ねられたら
世界の見え方は徐々にしなやかになっていくだろうなと、思います。
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