2022年5月30日月曜日

生まれた時からそれがそこにあったから。

 侘び寂びとか、くわしくはわかりませんが

飾り立てた美しさの対極にある、時の経過ともに増してくる、

削ぎ落とされた美しさのようなものでしょうか。


海外旅行は何度か経験があるものの、日本以外で暮らしたことはなく

いつも身近に和風の何かがあるのが当たり前の環境です。

お寺があり、神社があり、日本茶があり、日本庭園があり

初詣をし、墓参りをし、床の間には生け花や掛け軸があることに

何の抵抗もなく、特段の興味もありませんが、あぁいいな、程度には思って育ちました。


でも、これは多分、当たり前のことではないのだろうなと

外国の方が身近に増えてきた今、または外国との情報交流の機会が格段に多い今

あらためて思います。


和風の文化を好んで旅行に来てくれる外国の人は多いですし

中には日本人よりもはるかに高度な知識を身につける人もいます。

ですから、日本文化を愛好し理解するレベルにおいては

日本人の僕よりも、はるかに高みに到達する外国の人は多くいるはずです。

でも、傲慢でも何でもなく、ごく当たり前の想像として

生まれた時から身の回りに当たり前にあるものを、当たり前として育った場合と

物心ついてから、後から、外部からそれを学び取ったのとでは

何かが違うように思います。


違うから、どちらかが優れていて、どちらかが劣っているということではなく

そこには確かに違いがあるのだ、という姿勢でいてこそ

他文化の理解、交流、共生が可能になるのだと思うのです。


日本に生まれ育った自分は、自分でもうまく言葉にできない色んなことを

当たり前だと見做していて、だからこそわざわざ言葉にする必要性を感じずに暮らしていて

ところが、外国の人から見たら、僕が当たり前に思っていることの、ひとつひとつに

興味や違和感を持って、時に困り果てて、時に喜び、興奮する。

そういうひとつひとつに、立ちどまって、

互いの中に生じているなかなか言葉にならない思いを、

四苦八苦しながら交換できたら、そんな時を積み重ねられたら

世界の見え方は徐々にしなやかになっていくだろうなと、思います。



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