2022年5月14日土曜日

分類する、喩えるという行為に共通するのは。

 先日の牡丹に続き、今日は芍薬の写真を撮りました。

何が「続き」かというと、どちらもボタン科に属する植物だからです。

それともうひとつ、この2つの植物は、ひとつの諺に並べ置かれているからです。


「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」


背の高い芍薬は立って見るのにふさわしく、やや低い牡丹は座って

そして、風に揺れる百合は歩いて眺めるのがふさわしい、との意味でもあり

女性の美しい立ち居振る舞いを花の美しさに喩えてもいるそうです。


異なるものの間に共通項を見出すという点で

植物を「科」に分類するという行為も、女性を花に喩えるという行為も

重なりあっています。


もし私たちが、牡丹と芍薬の違いにばかり目を奪われて

そのふたつは全く無関係な別の植物だと判断することしかできなかったら

植物学という学問は成り立たず、植物の生態を深く知ることもなかったでしょう。

花と女性は、そもそも植物と人間なんだから、同じに考えるなんてありえない

という発想しか、私たちが持たなかったら、詩のような文学は成り立たず

味気も湿り気もない、ドライな事実の断片で構成された世界になっていたでしょう。


違いの中に同じを見出す、違いを超えて何かを生み出す

違いの間に通底する本質を発掘する。


私たちは気づかずに、日々の暮らしの中で、こんな心の働かせ方をしています。

でも、こわばった心には、このような働き方ができにくいようです。

違いから衝突ばかりが生み出される報道を見るにつけ、そう思います。


心の強張りを解いて、違いに対する寛容さで世界が満たされて欲しい。

それが、創造的共生、だと考えています。



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