夕暮れ時の神社。
木の茂みを通して夕日がやわらかにさしてくる境内は
カラスの鳴き声がたまに聞こえるくらいで、とても静かでした。
その静かな境内に、ひとつだけ、ずっと同じ調子で響き続ける音がありました。
手水舎の水面に落ちる水の音です。
その音は僕にとって、そこにあるのがあまりに当たり前で
最初は、その音が響いていることに気づかなかったくらいでした。
いや、気づいてはいたのでしょうけれど、意識にのぼっていなかった
というほうが正確でしょうか。
小さな神社の小さな手水舎。
境内には僕ひとりしかおらず、その音を聞くのも僕ひとりです。
僕がくる前は、そこには誰もおらず、誰に聞かれることもなく
その水の音が、そこに響いていたのでしょう。
それは想像するしかない光景ですが、とても心を鎮めてくれる光景でした。
誰もいない静かな境内で、誰の耳に届くこともなく響く水の音。
いや、聞こえていますね、神社の境内に生きる、いろんな生き物の耳には。
ただ人がいないというだけで、そこにはいろんな命の営みが
絶えずあるのですから。
それを観察する人間がいなければ、その営みは、ないのと同じでしょうか。
物理学でそんな思考実験があったように記憶していますが
そのようなドライで厳密な考え方ではなく、今日の僕は
それを想像する人がいる限りにおいて、その存在を直接、見聞きしなくても
それは存在しているんだ、と考えたくなりました。
僕がその境内に来るずっと前から、その水の音は響き続けていて
その音をいろんな生き物が聴き続けていて
それは、僕が去った後も、ずっと続く。
そう考えると、心がふわりと、やわらかくふくらんだように感じました。
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