2017年12月21日木曜日

馴染むのには時間がかかるわけで

使い古された感が落ち着きます





















前回は、自他の考えに対する態度が
話しあいの深さを決める、といったことを
考えてみました。

照らせる範囲は限られているから

自分の考えの不完全さに謙虚に向きあい
他者の考えに可能性の眼差しを向ければ
話しあいは深まるだろう、ということでした。

しかし、現実は、こんなに
簡単でも、美しくもないわけです。

謙虚さと可能性の眼差しがあったとしても
互いに傾聴し譲りあうだけだったり
互いに尊重し、ツギハギパッチワークの
結論になってしまったり、しかねません。

傾聴や尊重だけでは
話しあいに、ダイナミックな展開
進化、深化、閃きがやってこないのです。

またまた、当たり前の話になりますが
話しあいをダイナミックに展開する駆動力は
強力、鮮明な目的であるはずです。

この話しあいが、何のためになされるのか
について、参加者がドーンと肚落ちしていれば
話しあいはダイナミックに活性化します。

ただの傾聴、尊重を超えて
目的に照らしあわせて、その意見は
何が優れていて、何が不足しているのかを
互いに発見しあうことができます。
どの意見をどう組みあわせ、重ねあわせれば
目的に対して最適な結論が導けるのかを
互いの知恵を集めて、協働的に話しあえます。

目的の肚落ちと
自他の意見に対する態度。
このセットが必要だったのですが
前回の記事では、後者のみの指摘に
とどまっていたわけです。
記事の長さの都合です。はい。

で、この目的ですが
話しあいの最初に、くっきり鮮明に提示して
それをみんなが、そうかなるほど、わかったぞ
と深く肚落ちしてくれれば、ことは簡単ですが
そうはいかないでしょう。

この辺りに、話しあいを主催する人と
招かれて参加する人の間にある
認識の断層、すれ違いがあると思います。

ごくごく単純な断層なのですが。
主催者は、目的は明らかだし
言えばわかってもらえると、思いがちです。

一方、参加者は、そうではありません。
目的は、言われれば、それはそうだなと
思いはするものの、それぞれの事情、文脈の中で
その場にやってきているわけですから
主催者が思うほどには、目的を
はっきりと理解するわけでも
大切な自分ごととして
捉えてくれるわけでもありません。

その結果、主催者の内心に
こんなにはっきり目的を説明してるのに
みんなの話は、何で脱線ばっかりなんだ!とか
何でもっと意欲的に話してくれないんだ!とかの
苛立ちが募ったりします。

その時、参加者の内心は
何で、あの人は、あんなにキリキリしてるんだ?
もうちょっと、俺の話も聞いてくれよな。
という漠然とした疑問や不満が生まれています。

何がなぜ起きているかは簡単です。

要は、人は誰しも
自分の文脈で物事を理解するので
参加者にいきなり目的を理解して欲しいと
求めても、どんなにクリアに説明しても
やっぱり、そりゃ無理ってものです。
ということになります。

参加者は、まず
その話しあいの場所、空気に
そして、まわりの人たちとの関係に
馴染む必要があります。馴染んでから話したいんです。

で、さらに
自分の話が確かに相手に届くっていう
安心感を持った上でなら、より深い話をしますが
そうでない限りは、なかなか本腰を入れません。

目的のわかりやすい説明があったところで
それと自分がどういう関係があるのか
自分の解釈を人に話してみて、聴きあって
あれこれ手探りを互いにしているうちに

あぁ、この目的は
俺たちにとって、大事なんだな
わかった気がするよ。

という風に、じわじわーっと
目的に対しても馴染んでいくんだと思います。

会議は目的が大事、ルールが大事、進め方が大事
とか、クッキリ、はっきりな論理を
主催者は場に対して通そうとしますが
いきなりそれだと参加者は動けないんです。

人は何事においても
馴染むまでに時間がかかります。
論理的に正しければ、すぐ動けるわけではないです。
モゴモゴ、もさもさしながら、場に馴染み
ごそごそ、ジタバタしながら、目的に馴染み
そうやって、ようやく、話が本筋に入っていきます。

時間がかかります。
でも、そうやって一旦入ったスイッチは
なかなか切れないものです。

みんなが
馴染むまで
じっくり時間をかける。

何より、自分自身が馴染むまで
あれこれがんばろうとしないこと。

そんな感じで
ファシリテーターしてます。
いや、生きてます。


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