2017年12月10日日曜日

音楽の力から、妄想へ



有名な
大阪桐蔭高校吹奏楽部の
演奏会に行ってきました。

いやはや、凄すぎでした。
これが全国トップクラスかと。
なるほど、こういうレベルなのかと。
感動しました。

僕は音楽の素人ですから
技術的なことはわかりません。
でも、演奏する一人一人が
「音楽の中」「曲の中」を
生きているように感じました。

うまくタイミングを合わせようとか
音が外れないようにとか
音符を間違えないようにとか

という発想は
演奏している曲を客体として
扱う時に生じるものでしょう。

でも、大阪桐蔭高校の演奏は
演奏する誰もが、自らが演奏している
曲の中にいました。
曲と演奏者が客体と主体の関係にない
一体のもののように見えました。

彼ら彼女らが曲であり
曲が彼ら彼女らである。
のような光景でした。

曲とは、自分たちの
息遣いや指使いから生まれるものですが
その自分たちが生み出した曲の中を
生きることによって、次の展開を生み出す
エネルギーを得ているのではないかと
僕の妄想は広がりました。

ノリがノリを生む。
ような感覚でしょうか。

そして、僕は
そのノリの中に取り込まれていきました。

僕が音楽に聴き入っている時に
よくあることなのですが
次第に音楽そのものが背景へと退いていき
BGM的な存在になるというか
僕が音楽の世界の中に入り込んでしまうというか
客体としての音楽を主体としての僕が味わう
という関係ではなくなっていき
音楽は鑑賞対象ではなくなっていきます。

音楽が生み出す世界の中で
様々な思念が好き勝手に膨らみ始めます。
妄想っていうやつですね。

音楽に聴き入りながら
入り込んでいく妄想の世界は
いつもの妄想よりも
展開力がたくましく
時に貴重なひらめきを生みさえします。

対象として何かを捉える次元から
対象の中に入り込んで
主客の境がなくなった時に
生まれる世界の見え方に注目しています。

西田幾多郎的でしょうか。
いや、そこまで西田哲学を理解してませんが
なんとなく、近いものを感じていて

ファシリテーションにも
そんな次元があると思っています。

そういえば、敬愛する越前屋俵太さんが
「街の人にインタビューしている時
 うまくいくときは、自分が聴き手なのか
 語り手なのか、境目がなくなってくる」
という意味のことを話してくれたことがあります。


主客一体の境地。




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