2017年12月11日月曜日

消滅するファシリテーション



ファシリテーターとして
10年以上の活動を積み重ねながら
ずっとさいなまれている感覚があります。

ファシリテーターは
いらないんじゃないか。

いや、必要かもしれないけれど
ずっと必要とされるファシリテーターは
いてはいけないんではないか。

ということです。

話が勝手に盛り上がって
深まっていくのが一番良くて
それを、ファシリテーターが
何かわざわざすることによって
促していくようなことは
やっぱり、自然なあり方ではないと
感じます。


自分の感覚を
うまく言葉にできないのですが
特に、違和感を持っているのが
「わざわざする」ファシリテーションです。

ファシリテーターが決まっていて
ちょっとしたアイスブレイク的な時間があって
クリアに問いかけて、意見を引き出し
なんなら、綺麗に整理して書き出して
議論を進行していくような。

そんな、しっかりしたファシリテーションが
僕には、いつも違和感の源になっていました。

「わざわざ」なのか「しっかり」なのか
それも、自分の中で整理できていませんが
ともかく、ファシリテーション「している」状態が
「よく見える」「あぁしてるな」という感覚が
なんだか、居心地が悪いのです。

何をしてるんだか、よくわからないくらい
フェザータッチだったり、不親切だったり。
そういうアプローチから、場を創れないかと
次第に思うようになりました。

そこに集った人に
ファシリテーション「されてる」と
感じさせることのないような

むしろ、ファシリテーターとしての僕自身が
自分のファシリテートを、その場から
「引き出されている」と感じるような。

すべての人が
場と一体になって
溶け合っているような。

しているのでも
されているのでもなく
ただ、ともにある、ともに紡ぎあっている。
紡ぎつつ紡がれるような感覚。

そこでは
ファシリテーション「する」という
能動的な感覚は、消滅します。

次第に、ともにファシリテーション「しあう」という
能動でありながら受動でもあるという
感覚になり、主体でも客体でもなく
その両方である、主客一致の境地になります。

そしてついには
ファシリテーターが「いる」という
積極的な存在も、消滅するでしょう。

僕が目指しているのは
消滅するファシリテーションです。

ファシリテーターと自称しながら
つまりそれは、「私は何者でもない空白である」
という宣言でありえるような
あり方を模索しています。






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