2017年12月17日日曜日

互いの存在を意味づけあう

























カレーライスを食べました。
向かって左上方から右下方にライスが侵攻し
それを右下方から左上方にルーが迎え撃ちます。
いや、戦場じゃないですけど。
ま、位置関係の話です。

画面やや上方で
ライスとルーはあいまみえ
ここにカレーライスが誕生します。

カレーライスは
ライスだけでもルーだけでも成り立たず
それぞれが分離されていても成り立たず
ライスとルーが混ざりあった時に
成り立つ、いわば現象です。

戦場ではありませんが
ライスとルーが、あいまみえる合戦の場で
何が起きているのかを考えることは

多様な意見が飛び交う話しあいの場で
何が起きていて、ファシリテーターはどう
考え振舞うべきかのヒントをもたらしてくれます。

かなりの無理矢理感が漂いますが。
ま、おつきあいを。

話し合いの場において
意見Aと意見Bが対立している状況は
両者が、交わらず、遠目に互いの違いを
指摘し合っている状況と言えるでしょう。

自分の意見の正しさに対して
頑ななディフェンスの構えをとり
相手の攻撃、指摘を跳ね返そうとしあいます。

この状況では
それぞれの意見を根拠づけているのは
それぞれの考えです。
意見Aの成立を根拠づけるのは
意見Aを持つ人の考えです。
何を当たり前のことを、と思われそうですが。

これは、カレーライスに話を戻すと
ライスとルーが、同じ皿にありながら
画然と隔てられて、並存している状況です。
これは、カレーライスではなく
ライスとルーが乗った皿に過ぎません。

カレーライスが美味しいのは
ライスとルーが混ざりあい
ライスの味と食感が
ルーの味と食感と出会うことによって
互いの味と食感の意味を引き立てあい
ライスはルーとともにある
新たなライスとしての意味を持ち
ルーはライスとともにある
新たなルートしての意味を持ちます。

ここで、話がややこしいのは
ライスはルーと混ざりあった時の
自分の存在を自分では確証できず
ルーも同様だということです。

混ざろうが、囲まれようが
自己認識は、相変わらず
ライスはライス、ルーはルーです。

で、上述のように
互いの存在を引き立てあうことに気づけるのは
ひとえに、食べる人の行為、味覚によってです。

食べる人が、混ぜ合わせ、一緒に口に運び
味わうことによって
ライスとルーは、新たな意味を帯びます。


例え話を終えて、話しあい場面に戻ります。
意見Aと意見Bをまぜあわせ
互いの意味を引き出しあう、引き立てあうのは
相互の自力に頼っていては、困難でしょう。
それぞれが、それぞれの正しさを
主張するのに精一杯ですから。
皿の中央で、混ざり合おうという意識は
生まれません。

ここで、食べる人としてのファシリテーターの存在が
重要な意味を持ちます。

ファシリテーターは、おそらくその場でひとりだけ
皿の全体像を俯瞰することができる位置にいます。
そして、意見Aと意見Bを皿の違うゾーンに対立的に
並置するのではなく、皿の中央で混ぜあわせたら
互いに、どんな意味を引き出しあえるのかを
試す行為に踏み出すことができます。

なぜなら、ファシリテーターは
どちらの意見に対しても
その成立を根拠づける立場にはおらず
全体としての新たな意見の成立を、いわば孵卵する
立場にいるからです。

ライス命の人が、カレーライスを前にして
ライスしか食べないのとは、違いますから。

で、異なる意見を食べる人としてのファシリテーターは
意見AとBを場の中央に寄せ、並べ、関係づけを試み
Aから見たB、Bから見たAの解釈の一例を示したりします。
要は、ふたつを同時に味わって見せるのです。

それを目の当たりにした
意見AとBは、自分の考えの、新たな可能性に気づきます。
いや、気づかないかもしれないけれど
少なくとも、大きな皿の上に、両者とも乗っていたんだ
川を隔てて、鉄砲構えて向き合っていたわけではないんだと
気づくことができて、多少ともディフェンスを緩めるでしょう。

カレーを食べる人が
口の中でどんな味覚が広がるのかについて
最終決定できず、それは、皿の上に何が乗っていて
スプーンで、どう救ったかにかかっているのと
同じように

ファシリテーターは
意見AとBを混ぜて、味わって見せはしますが
どんな味かを、控えめな食レポのごとく
場に伝えるだけで、その食レポを聞いた両者が
互いに新たな混ざり方を生み出し
もしくは新たな食材を持ち込み
カレーライス作りへのコラボレーションが
生まれていくのを支援します。

食べる人としてのファシリテーターが
対立する両者が混ざり合う可能性を示して見せ
そこから両者が、互いにとっての互いの存在の意味を
深めあい、新たな意味を見出していく営みが始まる。


カレーライスが大好きな僕は
ファシリテーションの現場に
そのような妄想を抱いています。


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