2022年5月3日火曜日

いつもの道の、いつもは見えてない景色。

 ゴールデンウィークで、快晴で、○○宣言もなしとなれば

それは、どこもかしこもすごい人で賑わうんだろうなと思いながら

カメラ片手にゆるゆると近所を散歩しました。


普段の移動はたいてい車、あるいは自転車なので

近所の道沿いに、何があるのか、実はよく見えていません。

ジョギングする時は車や自転車の時よりは見えますが

それでも、走る行為に意識が集中しますから、景色は背景へと退きます。


カメラを持って散歩すると、カメラ効果で、景色をよく見つめるようになります。

どんな角度から、どんな距離で、どう切り取ったら気に入る写真が撮れるか

そんなことを考えながら歩くものですから、少々不審です。

あっちいったりこっちいったり、しかもきょろきょろしていて

いきなり座り込んだり、何もなさそうなところを凝視したり。


そんな僕の姿を見る人には、少し不安を与えてしまっているかもしれませんが

僕自身は、こんな何気ない散歩からとても充足感を得られます。

特別にきれいな景色があるわけでも、観光地でもなく、ただのいつもの近所ですが

見れば見るほど、あぁこんなところに、という景色が見えてきます。

といっても、本当に、言ってしまえば、たわいもないものが見えるだけなのですが

それが、なぜだか、心をほっこりさせてくれます。


道沿いの雑草。手入れされた畑。田圃のカラス。街路樹の新芽。

通り過ぎる車。自転車のお兄さん。道を掃除するおじいさん。

群生する名もしれない綺麗で小さな花々。綿毛をいっぱいたくわえたタンポポ。


いつもの道は、いつも通りなんですが

でも見ないと見えないものがたくさんあります。

素通りしている宝物のような景色って、まだまだあるんだろうなと思うと

いつもの道をまったりと歩くのがとても豊かな行為に思えてきます。



2022年5月2日月曜日

王であるための条件は。

 ハシビロコウのマスコットが5つ手元にあるので

それを色んなふうに並べて置いて、そこから見てとれる関係性を想像する

という一人遊びを楽しんでいます。


5体のハシビロコウは、それぞれ違うポーズをとっています。

いちばん目立つのは立ち上がって翼を大きく広げているもの。

それに続くのが、立ち上がってはいるけれど翼は広げず嘴を開けているもの。

次に、立ち上がって嘴を閉ざしているもの。

さらには、座り込んでいるもの。最後に、座り込んで目を閉じているもの。


この5体は、ぱっと見には、翼を大きく広げているものが

いちばん勢力がありそうで、他の4体の上に君臨してそうに見えます。

特に、センターに置いて、一段高くすると、王のように見えます。

そうすると他の4体は、王のもとにかしずいているように見えてきます。


ところが不思議なことに、座り込んで目をつむっているものをセンターに置いても

同じように、いや、さきほどとは違った形の勢力の強さが滲み出してきて

静かなる威厳、静謐の力のようなものを感じさせます。

先ほど王位にあった翼を広げた個体は、むしろ屈強な番兵のように見えてきます。


嘴を開いた個体をセンターに置くと、他の4体に教え諭しているように見えますし

目を開いて座り込んでいる個体がセンターにくれば、睨みを利かせているようで

立ち上がって嘴を閉じている個体の場合は、信頼の眼差しを送っているようでもあります。


このささやかなひとり遊びから導き出されるささやかな気づきは

一段高いところに「いかに在るか」は、集団の性質に大きく影響するということ

そして、いろいろな在り方がありえるのだ、ということでもあります。


たまたまなのですが、王位にあたる場所を一段高くするために

「はずる」という、僕の好きな金属製のパズル(知恵の輪の進化形)を置きました。

これは、どう考えても、どう動かしても、まったくハズレそうにないパズルを

いかに「はずすか」ということから「はずる」という名前を与えられています。

王位に必要なのは、どうしても解けそうにない謎めいた奥行きと高さ、かもしれないと

ひとり遊びの妄想が広がりました。



2022年5月1日日曜日

込められた願いの強さが持つ引力。

 狛犬を見かけると、どうしても近寄って写真を撮りたくなります。

狛犬はもともと獅子として伝わったとも言われていますが

獅子も好きですし、龍も、一角獣も、いわゆる幻獣と言われるジャンルが好きです。


アニメのキャラクターにもそのようなカテゴリーがあるので

幻獣を愛好する層は、かなりの数、いるのでしょう。


アニメのことはよくわかりませんが、僕が好きなのは

古来から信仰を集めてきた幻獣です。

幻獣を見出す古の人の心には

荒ぶる強さ、逞しさ、豪放さなどへの憧れを感じます。


その強い憧れが、見たこともない獣の姿を、ありありと現前させ

石や木の塊から、まるでそこに閉じ込められていた獣を救い出すかのように

彫像として生み出してきた精神の働きに、途方もない力を感じます。


見たこともない何かを白い紙に絵に描くだけでも、

文字通り想像を絶する力が必要なはずなのに

それを、石や木から削り出すのは「どうしてもその獣を現前させたい」という

ほとんど狂気にも近い執念が必要なのではないかと思います。


現在、テクノロジーの力を借りれば

古の人の労力とは比べ物にならないわずかな労力で

想像上の存在を、絵として、彫像として、動画として、現前させることができます。

そこには、古の人の狂気に近いような執念は、必ずしも必要ありません。


狛犬を見かけると、どうしても近寄って写真を撮りたくなるのは

その精巧さや力強さに惹かれるのではなく

狛犬、獅子というその存在に、古より込められてきた願い、憧れの深さにこそ

惹かれているのだと思います。