2017年11月27日月曜日

意味を求めすぎないように



気づくと、いつの間にか
身の回りが、意味のあること
経緯がわかること、当たり前に思えること
それは仕方ないんだろうなと思えることで
満ちてきてしまいます。

生産的で効率的だったり
前例踏襲的で墨守的だったり。

それとは逆の
なんだかわからないもの
突拍子も無いもの
バカバカしいもの
何を狙ってるんだか戸惑うものが
身の回りから消えてしまいます。

身の回りのあらゆる物事の
意味がわかったら、意味が定まったら
もはや現実は、物体のようになって
生命の息吹を失うように思います。

わからず、移ろい、戸惑い
意味不明なのに、なぜかずっとある
どこに展開していくのか
全然、読めない。

そんな存在が
身の回りにあるのが
自然なことだと思うんです。

でも、現代の合理的な価値観は
あらゆるものに、きちんとした
生産的で効率的で論理的な意味を
固定しようと迫ってきます。

その反動でしょうか。
衝動的、痙攣的、瞬間的に
現実を破壊する、反転させる
ギャグや、ゲームや、ネット社会のあれこれが
膨大に生まれては消えていきます。
または、時に、そういう刺激が
人の心を蝕みます。

意味の窮屈さから
もっと、晴れやかに逃げ出す
何かが必要なのだと思います。

俯いてスマホをいじるのではなく
徹夜でゲームをするのでもなく
酒でドンチャン騒ぎをするのでもなく
グチグチするのでもなく

例えるなら、リオのカーニバルのような
みんなで、日常の意味の彼岸に
一時的に飛び込んでいくようなコトが
意味ある日常を生きるためにも
必要なんだと思います。

そんなお祭り騒ぎでなくても
日常の意味を、ともに
ずらし、ゆさぶり、反転させる
遊びに満ちた時間、コトが
必要なんだと感じます。

あまりにも
意味あることが多すぎて
あまりにも
うまくやる方法が多すぎて

意味があるんだかないんだかわからず
どうするのが上手いことなのかもわからない
でも、なんとなくやりたくなって
やってみて、やりつづけてみる。

うまく言えませんが
そういうコト、そういう場を
生み出していきたいと

今、ファシリテーターとして
ひとりの地域人として
考えています。




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