教師を目指す学生たちと
ファシリテーションについて
対話しました。
彼らは、おそらく
ファシリテーションについての
疑問や戸惑いや迷いを持ち
その解決、解消を願いながら
僕の語りに耳を傾けてくれたのだと思います。
その真剣さに敬意を抱きながら
僕は、自分の語りが答えのように響くことを
恐れていました。
ファシリテーションとは
かくあるものである。
という答えを定めたい欲求は
それを志す人なら
誰しもいだくものだとは思います。
でも、それが定まった、と思った時
その人のファシリテーションは
こわばりを持ってしまうのだとも思います。
ファシリテーションが
多様な人から思いを引き出し得るのは
物事の意味がひとつには定まらず
つねに移ろいゆく可能性を持っているのだという
意味の変容可能性をファシリテーターが
持っているが故だと思います。
であるならば
ファシリテーター自身が
自分のファシリテーションを
ひとつの在りように定める欲求の前に
無力であるならば
つまり
ファシリテーションとは
かくかくしかじかであると、信じてしまうならば
ファシリテーション以外の、あらゆる物事についても
意味を定めたい欲求に抗えないでしょう。
僕が、自分の語りが答えのように響くのを恐れたのは
そういう理由からです。
その後の彼らの様子を見ていて
自分恐れが老婆心に過ぎなかったことがわかり
彼らのたくましさを感じました。
僕の語りをきっかけとして
自分なりのファシリテーションを
探そうという歩みへと彼らは踏み出していました。
そんな彼らの背中を押すように
最後の言葉を語りました。
僕は自分のファシリテーションを
磨き、確立したいといつも思っています。
でも一方で、つねに、自分のファシリテーションを
破壊しようとも思っています。
確立してしまったら
その人のファシリテーションは
場を固くするのではないかと思います。
確立している人だと思われたら
その人は権威を持ってしまうのではないかと思います。
権威が場を固くすることを恐れます。
だから、みなさんも
自分のファシリテーションの確立を目指しつつ
綻んでいる存在であってください。
その綻び、隙間にこそ
対話が生まれると思います。
★
何を語ろうか、どう語ろうか
何も考えずに臨んでいたのですが
彼らと向きあう中で
僕のファシリテーション観が
言葉に紡がれたように感じました。
この言葉を紡いだのは
僕であり、彼らであり
僕と彼らの関係だったのでしょう。
僕は
ファシリテーションを語りながら
彼らとの関係によって
ファシリテートされていたように思い返されます。
ファシリテーターとは
ひとりの存在でしょうか。
もしかしたら
人と人の間に生まれる
関係性のことのようにも思えます。
今日の対話のファシリテーターは
少なくとも、僕という個人存在では
なかったようです。
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