個性とか主体性を大切にとか
伸ばすようにって、よく聞きます。
ぱっと聞いた感じだと
とってもいいことを言ってる
ように聞こえるんですけど
実際に
個性や主体性を
発揮しようとすると
なんだか、窮屈な言葉に
響いたりします。
どういうことかというと。
個性を発揮しよう、と思った瞬間に
多様な個性カタログから
ひとつを選び出したり
仲間内にいないキャラに
あえてなってみたり
そこには
主体性というよりも
いつのまにか、「やらされている」
受動性のようなものが生まてきます。
個性や主体性というのは
結果として発揮されてしまうものであって
狙って発揮するものではないと思います。
個性や主体性という概念の根底には
揺るぎなき自己、確固として自立した自己
のようなものがあります。
自分は自分と頑固になってみたり
自分探しといって彷徨ってみたり。
いずれにせよ
自分という不動点を確立することが
誰にとっても望ましいことだという
社会的な信憑があるようです。
しかし実際には
近代的自己、とも言われるように
「自分、自己」といった概念の歴史は
人類史の中では、あまりに短く浅いものです。
本来、定まるはずのないもの、移ろいゆくものを
ひとつの自立した存在として固定化しようとしたのが
「自分、自己」概念だと思えてきます。
自分を定めると
その枠外の存在、異質なる存在が
怖くなります。厭わしく思えます。
だから摩擦が生じます。
自分を移ろいゆくもの、定まらないものとして
受け入れると、ある自分は、その瞬間の自分に過ぎず
その瞬間に異質に思えるものとも
手を握りやすくなり、対話が生まれやすくなり
摩擦を超えて、綜合、融和、創造が生まれると思います。
ファシリテーションにおいて
「自分」とか「個人」というものの成り立ちに
どのような眼差しを向けるかは
スキル以前に、根底的な影響を持つと思います。
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