ファシリテーションと誘導は違うのですが
誘導したくなる誘惑
想定した結末に持って行きたくなる誘惑は
抗い難く、隙あらば頭をもたげます。
想定を持たずに、丸腰手ぶらで
ということもありますが
場をファシリテートしていく中で
「あぁ、これは、こんな感じで展開して
こういう結末を迎えそうだなぁ」という
場の展開に対する「読み」が生まれます。
場数を踏めば踏むほど、どうしてもそうなります。
で、ここで、読み通りに進めたくなる誘惑が
頭をもたげるわけです。
もし、誘惑に負けると
ファシリテーターは、とたんに
コントローラーへと転落します。
自分の筋書き通りに
場をコントロールしてくわけです。
参加者は、窮屈に思ったり
優しい参加者だと「ちゃんちゃん」という
予定調和な終わり方を、にこやかに
受け入れてくださったりします。
これじゃ、ダメなわけです。
何のためのファシリテーターなんだか
わからない、いる意味がないわけです。
じゃぁ、どうしたら
その誘惑に勝てるのか、と考えると
「誘惑に勝って、場に身を委ね、想定外が
起きた方が、誰にとっても得である」
という確信が持てればいいわけです。
不安だから誘惑に負けるわけですから。
で、想定や読みに従って進行するよりも
場に身を委ねて想定外が起きた方が
得になるのは、なぜか、ということです。
ひとことで言うと
その場に、どれだけの展開力が生まれるかは
どれだけ綻びるかにかかっている
ということです。
綻びるとは
ファシリテーターの想定や読みとは
違うことが起きること、です。
ファシリテーターの想定に反して
場が綻びると、空白が生まれます。
それまでは、ファシリテーションによってか
場の空気によってか、その両方によってか
ともかく、場に流れが生まれていたのに
唐突に綻びて、「何だこの時間は」という
空白の時間が生まれます。
しかし、空白が空白のままあり続けることはなくて
そこに何かが流れ込みます。
その流れ込みが、新たな展開を生みます。
もし、ファシリテーターが
想定通りに進めようとするならば
空白は生まれず、予定調和な結末に向かいます。
場を展開するのが
ファシリテーターの自力のみに
かかってしまいます。
一方で
想定が裏切られることを恐れず
想定しつつも場の展開に身を委ねていると
場が綻び、空白が生まれ、そこに何かが流れ込み
場そのものに展開力が宿ります。
この展開力は
ファシリテーターの器を超えたもので
ファシリテーターは、自力を超えた場が
生まれる瞬間に立ち会えるわけです。
空白を恐れず
空白に何かが流れ込むのを待つ。
自ら空白を埋めたくなる欲求を堪え
流れ込んできた力にうまく寄り添う。
いわく言いがたい感覚を
あえて言葉にすると
いまのところ、こんな感じになります。
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