2018年9月26日水曜日

走るのが好きなのは

ほぼ毎日、走っています。
足を痛めて3ヶ月間、走れない日々が続き
悶々鬱々としていたので
まだゆっくりしか走れないとはいえ
この開放感はたまりません。

何しろ、走るのが大好きです。

何でこんなに走るのが好きかと
考えてはみるものの
なかなか思考の焦点が定まらず
言葉が続きません。

重力からほんのひととき解放され
体が浮き上がり、前方へ飛び
また地面へと戻っていく。
地面からの衝撃が足の裏から
足首、膝、骨盤を経由して
肩甲骨、頭頂へと響いていく。
全身で受け止めた衝撃が推進力となって
再び体を浮かび上がらせる。
その繰り返し。

僕にとっての走るとは
一瞬、一歩を切り取れば
このような営みです。

1キロメートルを走れば
数百歩を積み重ねることになるでしょうか。
うまくいく一歩もあれば
そうでない一歩もあります。

たまに、スパーンとハマったような
地面に接地した瞬間にすごい推進力をもらえる
不思議なくらい前進できる一歩を
繰り出せることがあります。

そんな一歩が、何歩も何歩も続いて
自分の筋力、力の出し方をはるかに超えて
進んでいる感覚の中に遊べることがあります。
うわ、なんでこんなに進んでるの。って。

こんな幸せな瞬間は
歳とともに少なくなってきましたが
それでもやっぱり、稀にやってきます。

地球と対話しているような感覚
とでも言いましょうか。

バリバリの陸上選手にも、若者にもかないませんが
それでも、明らかに現在の自分の力を超えた
進み方をしている、と実感できる瞬間。

自分の心身の器を超えたエネルギーを
出力している感覚になります。

自分でがんばって何かをなしているのではなく
自分が開けて、いろんなものと響きあって
力を生み出している感覚です。

そういう
自分と、まわりのあらゆるものの境目が
ゆるみ、ほぐれ、ひらけて、ひびきあう状態を
感じられるのが、最高に心地よいです。

僕にとって、そういう状態に
一番なりやすいのが、走るという行為
なのかもしれません。

たまたま、僕にとっては
という話です。


2018年9月21日金曜日

答え、事実に対する、抗いがたさ



ファシリテーションにとって
大切なことは数あれど
より根幹を支えるのは
答えや事実といったものに対する姿勢
であるように思います。

ファシリテーターの「あり方」が
「やり方」よりも大切で
そのあり方を支えるのが
答えや事実に対する姿勢だと思うからです。

ファシリテーターのあり方とは
定まらなさ、未明である状態に対して
恐れではなく、可能性を持って向きあえることです。

混沌とした状態を忌避して
未知を安易な既知に回収せず
混沌を混沌として、未知を未知として
受け止めて、そこから展開する姿勢です。

このようなあり方に
どうして、答えや事実に対する姿勢が
影響するかというと。

何事についても答えを求めたり
事実として定まることを
急ぎ求めてしまうと
未知な状態に対する溜めがなくなります。

混沌として未知なことを
より速く、わかりやすく整理したくなります。
それは、可能性に満ちた未知を
安易な既知で持って整理しているに過ぎず
未知から新たな知を生み出す道を閉ざすでしょう。

しかし、私たちは
答えあること、事実として定まっていること
または、早々に綺麗に整理をつけることなどに
抗いがたい誘惑を感じます。

わからないままで向き合うことを
忌避したくなります。

または、自分を他者よりも
「知っている、わかっている存在」に
おきたくなります。

いずれも、根は同じでしょう。

自分の未知を安易に埋めるべく
権威ある知識人や経験者に頼って
権威がますます権威になり
独裁につながってしまうこともあるでしょう。

そこでは、もう、動かしか難く
答えは定まり、事実は普遍となるでしょう。

しかし、ファシリテーション が
その根底で構想するのは、そのような世界ではなく
疑うことのできない最高の答えを求めつつ
普遍の事実を求めつつ
絶えざる探求を続ける世界です。

答えとは、どこまでいっても
現時点限りにおいて妥当するものであり
妥当した瞬間に、懐疑の対象となるもの。
事実とは、最新の仮説に過ぎないもの。

そのような世界観を持って
対話の場、探求の場に臨む時
あらゆる意見を価値あるものとして傾聴でき
遠く隔たったものに刺激的なつながりを見出せる
のではないかと思います。

ファシリテーターが持っている世界観が
そのあり方を決め、そのあり方が
場のあり方を決める。

結論が出やすい会議の作り方云々といった
ファシリテーション のテクニックの数々は
そのような根源にあるものの反映が
外から観察されるだけであって
見えていないものの違いは
テクニックの上滑りを起こすでしょう。

ファシリテーションの身につけ方についても
答えや、定まった方法を求めがちなのも
やはり、抗いがたい誘惑に違いありません。
戦い続ける、もしくは
定まらないということを
面白がり続ける姿勢が必要なんだろうと思います。



2018年9月7日金曜日

演劇からのファシリテーション。



演じるということ
物語をともに創るということに
私たちは、根源的欲求を持っているのではないかと
思えるくらい、特に経験のない人が
演劇を創ることに、あっというまに熱中していきます。


僕が講師を務めている
ファシリテーター養成講座でのことです。

僕の基本的なスタンスとして
ファシリテーターは、細かなテクニック、スキルの前に
場に対して心身を開いて、自然体で向きあい
答えを定めたがる欲求に争いながら
深めていくという「あり方」と
そんな自分と他者の関わりと時間の流れを
幽体離脱のごとく「俯瞰すること」が大切だと思っています。

で、それを、説明に頼らずに
体感的に身につけることができないかと
試行錯誤してきて、今、演劇にたどり着きました。

演劇のベースになる
物語の展開と配役、キャラクター設定を
仲間とともに考えることは
自分が含まれる現実を俯瞰する目を養いますし

ともに紡いだ物語を演じることと
いやおうなくやってくる即興アドリブの瞬間に
向きあうことは
状況の中に心身を開いていく自然なあり方につながります。


演劇自体は、企画開発や人間関係論など
ファシリテーション以外の分野の授業、研修で
なんども試みていたのですが

今日は、初めて
ファシリテーター養成に
演劇を取り入れてみたわけです。

最初はとまどっていたみなさんが
あっという間に役になりきって
様々なキャラクターを演じる様子や
それを鑑賞する様子
さらにその体験を振り返る様子から

これは、やっぱり
ファシリテーションの核心に触れる経験になると
確信した次第です。

状況を俯瞰し、かと思えば没入し
アドリブに即興的にノリ、違うノリを返し
ともに流れを生み出しあう。

自分の力でなんとかするのではなく
互いに共振共鳴しながら
新たな地平を開いていく。

そんな状況が生まれました。
もちろん、いきなり演劇に取り組んだわけではなく
関係づくりや、自分や他者の内面の深堀など
事前にかなり長時間の段階を踏んでのことですが
とはいえ、段階さえ踏めば
私たちは、ともに新たな世界を紡ぎ出す心身のあり方に
たどり着くことができるという
確信めいたものが得られたのは、興奮の体験でした。


演劇体験とファシリテーション。
俯瞰と没入と即興の間を自在に行き来する。



2018年8月14日火曜日

受け取ったもん勝ち



成長だとか、学びだとか。
内部的な熟成の前に、外部から
異質な何かが取り込まれることが
きっかけになるはずです。

異質な何かを取り込み
それまで自分の中にあった何かと
融合したり、触発しあったりして
内部に、これまでにない何かが醸成される。

だから、思うのは
受け取ったもん勝ちだということです。

でも、よく見られるのは
押し付けたもん勝ち、みたいな場面です。

他者とのコミュニケーション場面
においての話です。

基本的には
自分にないものを発信してくれる人を
ありがたがって、異質な考えを受け取って
自分の成長につなげた方が
より深い考えを発信できる人になれるはず。
だから、受け取ったもん勝ち。

なのに、どうしても
自分の中にすでにある考えを
人に受け取ってもらおうとばかりしてしまう。
なんなら、押し付けることまでして
相手に自分の考えを受け取らせようとします。

この場合
相手に、自分の考えを持たせることは
一見できているのですが
そのコミュニケーションで生まれたのは
不満まじりの共有だけで
人としての成長、学びにつながる何かは
特に生まれていません。

または、異質な考えを
忌避し、排除したりします。

この場合も
自分の内面は、すでにあるものが強化されこそすれ
新たな成長はないでしょう。

こんなのは、損です。不毛です。
なのに、私たちは、えてして
この不毛なアプローチを採用してしまいます。

仮に、受け取ってもらいたい欲求を
満たすことを重視するとしても
だったらなおさら、受け取ってもらえるような
深みのある発信ができる成長をしなければならないでしょう。

受け取ってもらえる人になるためにこそ
受け取って成長する戦略をとらなければならない。

自己主張したいなら
主張し、わかってもらえる自己になれるよう
傾聴、受容が必要だっていう
まぁ、当たり前の話ですが。

自戒を込めて。


2018年8月9日木曜日

お地蔵様とサーファーと。


誰しも転びたくないから
バランスをとって、安定しようとします。
ここでいうバランスは
えてして、あまり動かずシャンとしてる感じ
を思い浮かべがちですが

バランスのとれた安定には
2種類あることを
思い出さないといけないと思います。

不動のバランスは
お地蔵様のバランス。

これは、依って立つところ、地面が
不動であることを前提に成り立ちます。
地面が動かないんだから
最善のバランスの取り方は
自分自身も動かないこと。

不動ならざるバランスというか
動き続けるバランスは
いわば、サーファーのバランス。

これは、依って立つところ、海面が
ランダムに揺らぎ続けることを前提にしています。
揺らいでいるところに、お地蔵様のように
不動でいようとすると、確実に沈みます。コケます。
揺らぎに共振しつつも、自分の軸を保つような
動きながら立ち続けるバランスが求められます。


ここで、唐突に、対話の場に向きあう
ファシリテーターの話に移ります。

対話の場というのは
微細な、時に、ダイナミックな
変動に満ちた場であり
いっときとして、不動な瞬間がありません。

だから、サーファーのように
その場の揺らぎに共振しつつ
その場のテーマ、軸を保つような
バランスの取り方が必要になるはずです。

ところが、どうしても
揺れ動く場に対して、お地蔵様のような
安定した立ち方を求めてしまってはいないでしょうか。

こけるのが怖いなら
安定したいなら
お地蔵様のように立つイメージから
揺らぎ続ける波の上に立つイメージに
安定のあり方そのものを変える必要があるでしょう。

しっかり立ちたいと力を入れれば入れるほど
沈没のリスクが高まるのですから。