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2017年12月22日金曜日

熟成は「させる」より「待つ」

CoCo壱チキン煮込み800g





















煮込み料理が好きです。
中でもカレーは別格です。
いくらでも、食べます。

カレー風呂に入りたい
とまでは言いませんが。

で、多様な人の考えが
混ざりあって、溶けあって
熟成する場としての話しあいを考えます。

カレーの調理に見られるように
熟成への過程で調理人は
常に手を加えているわけではありません。
食材を入れる順序と、火力と、かきまぜ方などは
調理人のコントロール下にありますが
時間経過による変化を待つだけの場面が必ずあります。
起きるべくして起きることを待っている場面です。

同じことは、おそらく
話しあいにも言えて
自然に起きる変化、熟成こそが
まず、優先されるべきだと思っています。

自然に生えた雑草が強いのと同じく
自然に生まれた展開が、やっぱり
その場に生まれるべくして生まれているわけで
その場に適した展開としての
強さを持っているはずだからです。

コンロに火を点けて、食材を入れて
軽くかき混ぜながら炒めて、水を加えたら
調理人がいったん手を引くのと同じく

話しあいの進行においても
リラックスできる場をつくって
参加者が口を開くきっかけを投げかけて
近くの人と自然に言葉を交わすようになったら
あとは、しばらく様子を眺めてみる。待つ。

その方が、その場で
「何が起きたがっているのか」を
リアルに把握することができると思います。

「何が起きたがっているのか」は
メンバーの気分と組み合わせによって
その場になってみないとわからないことで
起きたがっていることに寄り添うように進行するのが
一番、自然でしなやかな展開力を持つと思います。

早くに言葉を発した人、その周りに起きた話の展開は
場を動かす力を備えているはずですから
そこに注目を集めて、意見を引き出し
それに対しての意見を全体から募ってみるとか。

ファシリテーターが、あまり先手を打たずに
何かが起きやすい状況をつくり
起きたことを受け止め、そこから展開する。
あえて後手に回ることで、次の展開が
場から生まれやすくする。

参加者にあれこれ「させる」ことをせず
何かが起きるのを「待つ」わけです。

あと、ファシリテーターの重要な役割としては
話しあいの収束スピードを
速めすぎないことでしょうか。

待つといっても、放っておくと
口の達者な影響力の大きい人が
場を掌握して、あっという間に収束へと
向かいかねません。

で、それを歓迎する
「話しあいは端的に短く効率的に」派の人が
けっこういますので、本当に結論が出てしまいます。

で、カレーに例えると
ほら、ちゃんと煮込めたから、火を止めて
もう食べようよ、となってしまいます。
でも、ジャガイモが生煮えだったりするんです。
玉ねぎが煮えて溶けたからといって
人参もちゃんと煮えてるとは限らないんです。

話しあいでは
高速に考えて、場を掌握してしまう
いわゆる声の大きい人がいて
それはそれで、ダイナミックに場を動かすことに
非常に貢献してくれるわけですが
いわば、火力が強すぎるんです。

とろ火じゃないと煮えない野菜があるのと同じく
やんわりじわじわ本質に迫る考え方をする人も
それなりの数でいるわけです。
その人たちが本音を言う前に
話しあいが安易な収束へ落着しないように
ファシリテーターは、働かないといけません。

場の火力を落とすんです。
議論のスピードを落とすんです。
意見の細かな差異に注目したり
生まれかかっている結論と、この場の目的を
深く捉え直す問いかけをしたりしながら。
じっくり思考タイプの人が口を開くのを待ちます。

高速思考タイプの人が煮える火力と
じっくり思考タイプの人が煮える火力
が、それぞれ違うので
つまり、どんな環境、タイミングで
思いを発信し始めるかが、人によって異なるので

ファシリテーターは
場の火力、すなわち展開スピードを調節しながら
あらゆるタイプの人が、煮える環境をつくっていく。
煮えやすい人が煮えたから終わり
という誘惑に負けないように
みんなが煮えて、それぞれの旨味が出るまで
火力を調節しながら、待つ。

煮えやすい人からしたら
何をモタモタと回りくどいことをしてるんだ
と思われそうですけれども
そこは、あらゆる人の声を響かせることで
より良い話しあいと、結論が生まれるのだという信念を
その場に共有して、耐え続けるしかないように思います。

この、高速に流れがちな場を
いかに、低速に変化させるか、いかに待つかは
ファシリテーターとしての
肚の括り方にかかっているように思います。

あれこれ、したり、させたりするよりも
熟成は、やっぱり、まず、待つものだと思います。



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後手は先手でもある







2017年12月15日金曜日

安心感の源は



多すぎて、お持ち帰りした、みぞれ唐揚げ定食。
お持ち帰りしてもOKな定食屋さんで
容器がちゃんと用意されてました。

そういう店でなければ
いつものごとく、ガツガツ食べきって
しばらく動けなくなってたかも。
出された食べ物は残さない、絶対完食
というのが僕の基本姿勢なので。

この日は、本当に珍しく
「今日は、残そう」と思いました。
お持ち帰りOKで容器も用意されていたから
そういう判断がしやすかったんだと思います。
なんだか、安心感がありました。

で、みぞれ唐揚げ定食からの
ファシリテーションにおける安心感の考察です。

安心感がない状態というのは
ある状態以外のことが起きてしまうと
とってもマズイことになるんじゃないか
という不安が優っている状態です。

起きることが望ましいことが
狭く想定されていて、それ以外のことを
できるだけ排除したいと思いすぎてしまうと
不安が増してしまう、という構造です。

逆に、起きることが望ましいことが
広く想定されていると、あれもOKこれもOKですから
不安が起きる要素が格段に減って
安心感が増します。

ここから考えられることは
ファシリテーションの場において
参加者の安心感を増すためには
二つのアプローチがあるということです。

ひとつめ。
起きることが望ましいことを
ごく普通に想定し、それが起きやすいように
または、起きて欲しくないことが
起きないように万策を講じる。

話しあいがスムーズに進むように
衝突が起きないように、議論が停滞しないように
あれこれ準備を積み上げる。
根回し、たたき台、議論のシナリオなど
よくある方法です。

ふたつめ。
起きることが望ましいことを
とっても広く想定し
起きてはいけないことなんて、そんなにないから
何が起きてもダイジョーブという空気を醸し出す。

この場合、準備はあまり必要ありません。
ファシリテーターが、起きることを
面白がって、可能性の源として
受けとめ続ければいいだけです。
でも、この方法が採用されることは
あまりありません。

で、根本的な意味でどっちが
安心感を増すことができるかというと
ふたつめの方法です。

なぜなら、ひとつめの方法は
起きることが望ましいことを、限定的に捉えてしまうため
どんなに準備をしようとも
そこから外れる不安が常に付きまとうからです。

しかも、想定通り進めたいという
ファシリテーターの欲求が
場を固くこわばらせるので
不安と窮屈さがないまぜになった空気が
醸し出されます。伸びやかさは、ないです。

それに対して、ふたつめの方法は
何が起きても大丈夫という信念が共有されさえすれば
何かまずいことが起きるのではないかという
不安が生じる可能性が、とても小さくなります。

ファシリテーターの姿勢も
事前の想定に従うのではなく
目前で起きていることに寄り添うので
とてもしなやかになり
のびのびとした空気が醸し出されます。

どう考えても、ふたつめの方が
安心感を増すのです。

では、なぜ、
ふたつめの方法が採用されないかということ
端的に言って、「何が起きても大丈夫」という
姿勢をファシリテーターが持てないからです。
ここが乗り越えられない限り
ふたつめへの道は開けません。

では、なぜ、大丈夫だと思えないかというと
何かが起きたその先が想定しきれず
想定しきれないことは不安だと
自動的に思うからです。

しかし、これは本当でしょうか。
想定しきれてしまうことだけが起きるのは
僕がファシリテーターだったら
不安というか恐怖というか、いや退屈とういうか。
それだけは勘弁してほしいと思います。

想定できることが起きていく話しあいの場は
そもそも、そこに集う意味があまりありませんから。
ファシリテーターも必要ありませんから。
みんなで筋書き共有して
お芝居みたいに演じればいいだけですから。

話しあいの場の醍醐味というのは
話してみないとわからないことが
次々と起きてきて
話しあっているうちに、話しあう前とは
違う現実の見え方、可能性が拓けてくることです。

したがって、話しあうなら
想定外のことが起きてくれないと困るし
想定外のことを怖がるファシリテーターでは
困るわけです。

では、なぜ、想定外を怖がるかというと
想定外は混沌への道であり
混沌に入り込めば出口がないかもしれない
と思えてしまうからです。

でも、混沌の中で出口が見つからない人には
共通点があるように思えます。
話が循環しますが、それは
混沌を怖がっているということです。

恐る恐る、または嫌々、混沌の中を
できれば帰りたいなぁと思いながら
歩んでいれば、見つかる出口も見つかりません。

混沌の中で、これはチャンスだと
これまでにない境地に至る途中経過だと思い
興味津々、ワクワクの気持ちで歩むならば
出口はきっと見つかるでしょう。
むしろ、出口を創り出すことができるとも言えます。

誤解、すれ違い、紛糾、沈黙
あらゆる、一見、望ましくない出来事が
可能性の源であって、一時的な混沌を生み出すにしても
その先に、話あう前とは違う世界が開けうるのだと
楽観的に思うことは

単なる、ノーテンキではなくて
そう思うことによってこそ、本当に開けてしまう
という、まっとうな道だと思います。

この道をファシリテーターが信じることこそが
「頼れないけれど、安心はできる存在」として
場の力を引き出し、湧き出させる道ではないかと
今のところ、思っています。





2017年12月14日木曜日

頼れないけれど、安心はできる



安心感に満ちた場で
みんなが、生き生きと発言して
徐々に思いの交わりと深まりが生じていく。

そんなことを思い描きながら
ファシリテーションするわけですが。

そこで、自分は
どんなファシリテーターとして
ありたいのか、と深く自問してみます。

活動を始めて間がなかった頃。
僕は、頼り甲斐のあるファシリテーター
でありたいと、願っていました。

ハキハキと話し
クリアに問いかけ
深く傾聴し、うなずき
異なる意見の間を見事につなぎ
全体として何が言われているのか
議論の本質を鋭く浮かび上がらせる。
しかも、スピーディーに。

そんなファシリテーター
でありたいと、願っていました。

こうやって、当時の自分の願いを
書き連ねてみると、わからなくはないけれど
なんだか、がんばってるよなぁ
という感じです。

こういうことができれば
多分、頼り甲斐のある、信頼を集める
ファシリテーターになるんだろうと
思わなくもないです。

でも、でも、なんです。

11年の経験を積み重ねて
今、思います。

プロのファシリテーターであると
名乗り、自負しながらも、だからこそ

頼り甲斐のあるファシリテーター
でありたいという、「安易な」欲求に
負けてはいけない、と。

この辺、わかりにくい
言い方になりますが。。。

頼られる存在は
チームをひとつにまとめますが
多様性のある混とん状態を
スピーディーに回避するための存在でもあります。

ここが大事なのですが
ファシリテーターは、スピーディーに
場をひとつにまとめるのが
必ずしも仕事ではないはずです。

まとめることを急いだが故に
多様性が失われ、議論の深まりが達せられず
ということは、よくあります。

みんながファシリテーターの
安定した、シャープな進行に頼ってくるが故に
その人が議論の中心軸になっていく
ということも、よくあります。

いずれも、見た目は綺麗な場ですが
ファシリテーターは何のためにいるのか
という根本的な問いが忘れられているように
思います。

多様な存在が
多様な意見を語りあい、聴きあい
響きあいの中から、思いの深まりが生じ
互いの主体性を互いに触発しあいながら
互いに変容しあう
ある意味、不安定で、混とんとしたプロセスを
支え続けるのが、ファシリテーターの存在理由だと
思うのです。

上述したような
頼り甲斐のあるファシリテーターは
そのプロセスを回避すること、もしくは
最短化することを存在理由にしているように見えます。
そして、もしかして、世の中の
ファシリテーターにまつわる言説の多くも
そのような傾向を持ちがちかもしれません。

でも、僕は、思います。
ファシリテーターは、効率的な合理化のための
存在ではないのだと。

本来、誰もが避けたくなるような
非効率で混とんとした場に対して
そこにいる人が、ポジティブな可能性の
眼差しを向けられるように促し、支えるのが
ファシリテーターだと。

だから、僕は
スマートな、デキる
頼り甲斐のあるファシリテーター
でありたいという「安易な」欲求に
蓋をします。

フワフワとしてて頼れないんだけど
場がグチャグチャしてても
あの人が視界に入ると、声が聞こえてくると
なんだか安心して、もう少し話してみるか
と思えるんだよなぁ

と感じてもらえる

頼れないけれど安心はできる
ファシリテーター

を目指しています。

その安心感の源が何なのかは
いずれまた。