2017年12月24日日曜日

圧倒的に濃厚、からの突き放し

迫力ほとばしるフライヤー





















スタジオジブリ・レイアウト展を
鑑賞してきました。

ジブリ作品は、僕の中では
邦画、洋画、ジブリ作品、または
アクション、人間ドラマ、ホラー、ジブリ作品
みたいな感じで、独立したジャンルを形成するくらい
独特の存在感を持っています。

特段に愛好して、何度も見るわけではないのですが
貴重なインスピレーションの源になっています。
ストーリーそのものはもちろん
実写映画にはない、濃厚な描写に惹かれます。
少女の魔女が、ただ街を飛び遊ぶだけの場面であっても
あらゆることが、描き尽くされているような濃厚さに。

で、ジブリ・レイアウト展です。

混雑のせいもありましたが、それ以上に
1400点もの、濃厚に描きこまれた作品の密度に
「もうお腹いっぱい、ごちそうさん!」
といいたくなるくらい圧倒されてきました。

「レイアウト」というのは
アニメのあらゆる動きを指定した
映画の設計図にあたるものらしいのですが

予想はしていたものの
何気ない場面の、あらゆる細部に
それが何で、どのように動くのか
光はどう当たるのか、風はどうか
など、これでもかという設計がなされていました。

何も描かれてない白紙から
濃厚な、ひとつの「世界」を創り上げるまでに
費やされる、労力、想像力、創造力の膨大さに
圧倒されました。

どんだけ集中、没入したら
これだけ細部まで作り込もうという気持ちになれるのか
そういう作業を積み重ね続けられるのか。
想像を絶していました。

この濃厚さと並んで
もうひとつ、僕がジブリ作品に惹かれる理由は
その「突き放し感」です。

ここまで濃厚にオリジナルの世界を構築しながら
そのストーリー展開は、解釈に余白があり
見ようによっては難解、もしくは、あれ?オチは?
これ、どういう意味なんだろう?
という印象を与えてくれます。

ハリウッド映画の超大作のような
スカーっとしたエンディングがなく
何かが始まり、何かが終わるのだけれども
しかし、すべてが終わり切るわけではなく
営みの持続が、予感される
いや余韻されるともいうべきストーリーです。

一場面に映し出される小さな畑の作物まで
細かく指定して、作り込みながら
その物語展開においては
最後の最後まで作り込み切るのではなく
余白と解放へと開けているように感じられます。

圧倒的に濃厚な世界からの
余白と解放への突き放し
この間に生まれるギャップに
僕は惹かれているのだと思います。

水墨画のような
余白をして語らしむ、芸術がありますが
それとは、類似しつつも、独特な何かを感じます。

濃厚であるがゆえに
その周りに、その後に残される余白が
強烈な引力を持って迫ってくる感じです。
余白を見せられるが故に考えざるを得なくなります。

作品とは、何か。
そこに提示された、ある創作物のことか。
その創作物が、鑑賞者の中に喚起するもののことか。
あるいは、創作物と鑑賞者の関係性そのものことか。

対話の場を創るファシリテーターとして
ずっと向き合っている問いです。

何を濃厚に創りこむべきなのか。
どう余白を提示すべきなのか。









余白とは
何か。






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