2017年12月15日金曜日

安心感の源は



多すぎて、お持ち帰りした、みぞれ唐揚げ定食。
お持ち帰りしてもOKな定食屋さんで
容器がちゃんと用意されてました。

そういう店でなければ
いつものごとく、ガツガツ食べきって
しばらく動けなくなってたかも。
出された食べ物は残さない、絶対完食
というのが僕の基本姿勢なので。

この日は、本当に珍しく
「今日は、残そう」と思いました。
お持ち帰りOKで容器も用意されていたから
そういう判断がしやすかったんだと思います。
なんだか、安心感がありました。

で、みぞれ唐揚げ定食からの
ファシリテーションにおける安心感の考察です。

安心感がない状態というのは
ある状態以外のことが起きてしまうと
とってもマズイことになるんじゃないか
という不安が優っている状態です。

起きることが望ましいことが
狭く想定されていて、それ以外のことを
できるだけ排除したいと思いすぎてしまうと
不安が増してしまう、という構造です。

逆に、起きることが望ましいことが
広く想定されていると、あれもOKこれもOKですから
不安が起きる要素が格段に減って
安心感が増します。

ここから考えられることは
ファシリテーションの場において
参加者の安心感を増すためには
二つのアプローチがあるということです。

ひとつめ。
起きることが望ましいことを
ごく普通に想定し、それが起きやすいように
または、起きて欲しくないことが
起きないように万策を講じる。

話しあいがスムーズに進むように
衝突が起きないように、議論が停滞しないように
あれこれ準備を積み上げる。
根回し、たたき台、議論のシナリオなど
よくある方法です。

ふたつめ。
起きることが望ましいことを
とっても広く想定し
起きてはいけないことなんて、そんなにないから
何が起きてもダイジョーブという空気を醸し出す。

この場合、準備はあまり必要ありません。
ファシリテーターが、起きることを
面白がって、可能性の源として
受けとめ続ければいいだけです。
でも、この方法が採用されることは
あまりありません。

で、根本的な意味でどっちが
安心感を増すことができるかというと
ふたつめの方法です。

なぜなら、ひとつめの方法は
起きることが望ましいことを、限定的に捉えてしまうため
どんなに準備をしようとも
そこから外れる不安が常に付きまとうからです。

しかも、想定通り進めたいという
ファシリテーターの欲求が
場を固くこわばらせるので
不安と窮屈さがないまぜになった空気が
醸し出されます。伸びやかさは、ないです。

それに対して、ふたつめの方法は
何が起きても大丈夫という信念が共有されさえすれば
何かまずいことが起きるのではないかという
不安が生じる可能性が、とても小さくなります。

ファシリテーターの姿勢も
事前の想定に従うのではなく
目前で起きていることに寄り添うので
とてもしなやかになり
のびのびとした空気が醸し出されます。

どう考えても、ふたつめの方が
安心感を増すのです。

では、なぜ、
ふたつめの方法が採用されないかということ
端的に言って、「何が起きても大丈夫」という
姿勢をファシリテーターが持てないからです。
ここが乗り越えられない限り
ふたつめへの道は開けません。

では、なぜ、大丈夫だと思えないかというと
何かが起きたその先が想定しきれず
想定しきれないことは不安だと
自動的に思うからです。

しかし、これは本当でしょうか。
想定しきれてしまうことだけが起きるのは
僕がファシリテーターだったら
不安というか恐怖というか、いや退屈とういうか。
それだけは勘弁してほしいと思います。

想定できることが起きていく話しあいの場は
そもそも、そこに集う意味があまりありませんから。
ファシリテーターも必要ありませんから。
みんなで筋書き共有して
お芝居みたいに演じればいいだけですから。

話しあいの場の醍醐味というのは
話してみないとわからないことが
次々と起きてきて
話しあっているうちに、話しあう前とは
違う現実の見え方、可能性が拓けてくることです。

したがって、話しあうなら
想定外のことが起きてくれないと困るし
想定外のことを怖がるファシリテーターでは
困るわけです。

では、なぜ、想定外を怖がるかというと
想定外は混沌への道であり
混沌に入り込めば出口がないかもしれない
と思えてしまうからです。

でも、混沌の中で出口が見つからない人には
共通点があるように思えます。
話が循環しますが、それは
混沌を怖がっているということです。

恐る恐る、または嫌々、混沌の中を
できれば帰りたいなぁと思いながら
歩んでいれば、見つかる出口も見つかりません。

混沌の中で、これはチャンスだと
これまでにない境地に至る途中経過だと思い
興味津々、ワクワクの気持ちで歩むならば
出口はきっと見つかるでしょう。
むしろ、出口を創り出すことができるとも言えます。

誤解、すれ違い、紛糾、沈黙
あらゆる、一見、望ましくない出来事が
可能性の源であって、一時的な混沌を生み出すにしても
その先に、話あう前とは違う世界が開けうるのだと
楽観的に思うことは

単なる、ノーテンキではなくて
そう思うことによってこそ、本当に開けてしまう
という、まっとうな道だと思います。

この道をファシリテーターが信じることこそが
「頼れないけれど、安心はできる存在」として
場の力を引き出し、湧き出させる道ではないかと
今のところ、思っています。





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