2017年12月14日木曜日

頼れないけれど、安心はできる



安心感に満ちた場で
みんなが、生き生きと発言して
徐々に思いの交わりと深まりが生じていく。

そんなことを思い描きながら
ファシリテーションするわけですが。

そこで、自分は
どんなファシリテーターとして
ありたいのか、と深く自問してみます。

活動を始めて間がなかった頃。
僕は、頼り甲斐のあるファシリテーター
でありたいと、願っていました。

ハキハキと話し
クリアに問いかけ
深く傾聴し、うなずき
異なる意見の間を見事につなぎ
全体として何が言われているのか
議論の本質を鋭く浮かび上がらせる。
しかも、スピーディーに。

そんなファシリテーター
でありたいと、願っていました。

こうやって、当時の自分の願いを
書き連ねてみると、わからなくはないけれど
なんだか、がんばってるよなぁ
という感じです。

こういうことができれば
多分、頼り甲斐のある、信頼を集める
ファシリテーターになるんだろうと
思わなくもないです。

でも、でも、なんです。

11年の経験を積み重ねて
今、思います。

プロのファシリテーターであると
名乗り、自負しながらも、だからこそ

頼り甲斐のあるファシリテーター
でありたいという、「安易な」欲求に
負けてはいけない、と。

この辺、わかりにくい
言い方になりますが。。。

頼られる存在は
チームをひとつにまとめますが
多様性のある混とん状態を
スピーディーに回避するための存在でもあります。

ここが大事なのですが
ファシリテーターは、スピーディーに
場をひとつにまとめるのが
必ずしも仕事ではないはずです。

まとめることを急いだが故に
多様性が失われ、議論の深まりが達せられず
ということは、よくあります。

みんながファシリテーターの
安定した、シャープな進行に頼ってくるが故に
その人が議論の中心軸になっていく
ということも、よくあります。

いずれも、見た目は綺麗な場ですが
ファシリテーターは何のためにいるのか
という根本的な問いが忘れられているように
思います。

多様な存在が
多様な意見を語りあい、聴きあい
響きあいの中から、思いの深まりが生じ
互いの主体性を互いに触発しあいながら
互いに変容しあう
ある意味、不安定で、混とんとしたプロセスを
支え続けるのが、ファシリテーターの存在理由だと
思うのです。

上述したような
頼り甲斐のあるファシリテーターは
そのプロセスを回避すること、もしくは
最短化することを存在理由にしているように見えます。
そして、もしかして、世の中の
ファシリテーターにまつわる言説の多くも
そのような傾向を持ちがちかもしれません。

でも、僕は、思います。
ファシリテーターは、効率的な合理化のための
存在ではないのだと。

本来、誰もが避けたくなるような
非効率で混とんとした場に対して
そこにいる人が、ポジティブな可能性の
眼差しを向けられるように促し、支えるのが
ファシリテーターだと。

だから、僕は
スマートな、デキる
頼り甲斐のあるファシリテーター
でありたいという「安易な」欲求に
蓋をします。

フワフワとしてて頼れないんだけど
場がグチャグチャしてても
あの人が視界に入ると、声が聞こえてくると
なんだか安心して、もう少し話してみるか
と思えるんだよなぁ

と感じてもらえる

頼れないけれど安心はできる
ファシリテーター

を目指しています。

その安心感の源が何なのかは
いずれまた。





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