2017年12月20日水曜日

照らせる範囲は限られているから

まだ雪がなかった頃





















いかにして
自分の考えに対する謙虚さを保ちつつ
他者の考えに対して可能性の眼差しを向け
互いに取り込みあい、混ぜあい
新たな考えを生み出していくか。

この姿勢が共有できたなら
あらゆる話しあいは
上々の成果を出せるはずです。

それくらい
自分の考えに対する謙虚さと
相手の考えに対する可能性の眼差しを
持てるかどうかが大切なわけです。

話しあいの深さ、成果は
話しあいに臨む人が、自他の考えについて
どんな姿勢、態度を持つかにかかっている。
というと、当たり前の話になってしまいますが。

どうしても、互いに
自分の考えは贔屓目に見て
他者の考えはツッコミどころ
ばかりを探してしまいます。

そして、どっちが正しいのかの
綱引き、ツッコミ合戦、または気まずい沈黙が
繰り広げられることになります。

このようなことが起きる根底には
私たちが、いかにして現実を認識しているのか
といったことについての
不十分な理解があるように思えます。

「不十分な理解」とは、正確に言うと
現実の認識の仕方について
理屈ではわかっているのに
ついつい、そのわかり方を放棄してしまう。
ということです。


私たちは、自分の五感と頭脳と
そこに蓄えられた経験と価値観で
現実を認識します。

目の前で起きていることは
カクカクしかじかである、なぜならば
これは以前の経験に類似しているし
これまでの認識の仕方に沿って考えれば
何の矛盾も生じないからである。

といった形で
確信的な認識を持つこともあります。

しかし、どれだけ博覧強記の人であっても
現実の全てを認識することはできません。
その人が立っている場所から
その人の経験や価値観に沿って
認識できるものが、認識できるだけです。

家族によって、文化によって、国によって
同じものでも、違って見えるのです。

例えるなら
暗闇の中に、大勢の人がいて
それぞれが自分の持つライトで周囲を照らし
自分の周りに何があるかを見ている状態です。

ライトが大きい人もいれば
小さい人もいるでしょう。
明るい人もいれば
暗い人もいるでしょう。

いずれにせよ
暗闇のすべてを照らし出す巨大なライトを
持つことは不可能です。

私たちの認識は
常に、個人的な限界を抱えています。
世界そのものになる他は
世界そのもの、現実の全てを
一挙に認識することは不可能です。

私たちは
暗闇の中にいて
それぞれ少しずつ違ったライトで
それぞれの立っている場所から
暗闇を照らして、見えるものを伝えあっています。

明るい世界の中で
同じものを同じに見ているわけではないはずです。
ふたりの人が、ひとつのリンゴを前にして
全く同じように認識するのは不可能ですから。

なのに、私たちは、ついつい
明るい世界で、同じものを、同じように見ている
と思い込みたくなります。
だから、自分と違う考えに出会うと
何でなんだ!間違ってる!
と言いたくなります。

この時
自分の考えに対する謙虚さと
相手の考えに対する可能性の眼差しを
失います。

私たちは
それぞれのライトで
それぞれの場所から
それぞれの見え方のする世界を見ている。

だから互いに
自分のライトが照らし出している現実を
伝えあって、その違いと一致を受け止めあいながら
そのすべてを混ぜあわせ、組みあわせながら
「私たちは、どんな現実の中にいるのだろう」
ということを考えていくしかない。

そう思った時
謙虚さと可能性の眼差しを
取り戻すことができるのではないでしょうか。

私たちは、どんなに聡明になったところで
個人の照らせる範囲は限られているのですから。

僕は
そう考えるようにしています。


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