2017年12月24日日曜日

圧倒的に濃厚、からの突き放し

迫力ほとばしるフライヤー





















スタジオジブリ・レイアウト展を
鑑賞してきました。

ジブリ作品は、僕の中では
邦画、洋画、ジブリ作品、または
アクション、人間ドラマ、ホラー、ジブリ作品
みたいな感じで、独立したジャンルを形成するくらい
独特の存在感を持っています。

特段に愛好して、何度も見るわけではないのですが
貴重なインスピレーションの源になっています。
ストーリーそのものはもちろん
実写映画にはない、濃厚な描写に惹かれます。
少女の魔女が、ただ街を飛び遊ぶだけの場面であっても
あらゆることが、描き尽くされているような濃厚さに。

で、ジブリ・レイアウト展です。

混雑のせいもありましたが、それ以上に
1400点もの、濃厚に描きこまれた作品の密度に
「もうお腹いっぱい、ごちそうさん!」
といいたくなるくらい圧倒されてきました。

「レイアウト」というのは
アニメのあらゆる動きを指定した
映画の設計図にあたるものらしいのですが

予想はしていたものの
何気ない場面の、あらゆる細部に
それが何で、どのように動くのか
光はどう当たるのか、風はどうか
など、これでもかという設計がなされていました。

何も描かれてない白紙から
濃厚な、ひとつの「世界」を創り上げるまでに
費やされる、労力、想像力、創造力の膨大さに
圧倒されました。

どんだけ集中、没入したら
これだけ細部まで作り込もうという気持ちになれるのか
そういう作業を積み重ね続けられるのか。
想像を絶していました。

この濃厚さと並んで
もうひとつ、僕がジブリ作品に惹かれる理由は
その「突き放し感」です。

ここまで濃厚にオリジナルの世界を構築しながら
そのストーリー展開は、解釈に余白があり
見ようによっては難解、もしくは、あれ?オチは?
これ、どういう意味なんだろう?
という印象を与えてくれます。

ハリウッド映画の超大作のような
スカーっとしたエンディングがなく
何かが始まり、何かが終わるのだけれども
しかし、すべてが終わり切るわけではなく
営みの持続が、予感される
いや余韻されるともいうべきストーリーです。

一場面に映し出される小さな畑の作物まで
細かく指定して、作り込みながら
その物語展開においては
最後の最後まで作り込み切るのではなく
余白と解放へと開けているように感じられます。

圧倒的に濃厚な世界からの
余白と解放への突き放し
この間に生まれるギャップに
僕は惹かれているのだと思います。

水墨画のような
余白をして語らしむ、芸術がありますが
それとは、類似しつつも、独特な何かを感じます。

濃厚であるがゆえに
その周りに、その後に残される余白が
強烈な引力を持って迫ってくる感じです。
余白を見せられるが故に考えざるを得なくなります。

作品とは、何か。
そこに提示された、ある創作物のことか。
その創作物が、鑑賞者の中に喚起するもののことか。
あるいは、創作物と鑑賞者の関係性そのものことか。

対話の場を創るファシリテーターとして
ずっと向き合っている問いです。

何を濃厚に創りこむべきなのか。
どう余白を提示すべきなのか。









余白とは
何か。






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2017年12月23日土曜日

太陽と照明と公園

冬の夜の公園






















明るい太陽に照らし出された昼の公園と
たったひとつの明るい照明に照らし出された
夜の公園の違いを考えています。

秋の昼の公園





















上は、違う公園の、違う時期の写真ですが
場所や時期の違い以上に
昼と夜、太陽と照明の違いを感じます。

太陽のもとで、昼の公園にあるものは
すべてが等しく存在しているように見えます。
どこに焦点を当てても、明るく
それぞれが、それぞれに存在しています。

照明のものとで、夜の公園にあるものは
光源に近いもの、光の色目と相性の良いものほど
浮かび上がって見えます。
存在が際立ちます。

太陽のもとでは
あらゆるものがフラットに並存し
照明のもとでは
照明との関係において
秩序、体系、構造が生まれているように感じます。

太陽が照らし出す光景からは
自分を解放し、のびやかに感じ、考え、行動し
いろんな人と関わるイメージが浮かびます。

照明が照らし出す光景からは
凝視する対象を限定し、思考を集中し
ある一点に向けて、あらゆる情報、感覚を
集約、体系化していくイメージが浮かびます。

ふたつ光景を交互に眺めながら
対話の場のありようにまつわる
あるインスピレーションが降りてきました。

その対話の場は
あらゆる存在が、それぞれのありようで
その場に存在することを受け入れられている状態で
幕を開けます。

まるで太陽に照らし出されるように
すべての人が、思い思いにそこにいます。

徐々に、光が弱くなります。
太陽が沈んでいくのです。
街灯、照明がつき始めます。
徐々に明るさを増していきます。

動ける存在は、光源に近づくでしょう。
近づきながらも、思い思いの、居心地の良い場をに
自分の居場所を求めるでしょう。

光源は、いわば、対話における目的やテーマです。
動ける存在とは、それぞれの人の持つ考えです。
あらゆる人の意見が、目的のもとに
変容し、補いあい、結びつき、重なっていきます。

動けない存在は、光源との距離や相性の中で
その存在に濃淡がついていくでしょう。

動けない存在とは現実の制約条件です。
目的に照らして重要性の高いものは
焦点を当てられ深く考えられ
そうでないものは、視界から消えていきます。

そして、最後に
明るい、ひとつの光源のもとで
夜の公園のごとく、すべてがフラットではなく
秩序、体系、構造化された結論が生まれます。


2つの光景から生まれた
対話にまつわるインスピレーションです。


しかし、夜の照明と対話の目的は
その自発性において異なります。

というわけで
このインスピレーションには限界があります。
あらゆる認識が限界を抱えているのと同じく。
だからこそ、思考は、展開、発展するのだと
考えています。





2017年12月22日金曜日

熟成は「させる」より「待つ」

CoCo壱チキン煮込み800g





















煮込み料理が好きです。
中でもカレーは別格です。
いくらでも、食べます。

カレー風呂に入りたい
とまでは言いませんが。

で、多様な人の考えが
混ざりあって、溶けあって
熟成する場としての話しあいを考えます。

カレーの調理に見られるように
熟成への過程で調理人は
常に手を加えているわけではありません。
食材を入れる順序と、火力と、かきまぜ方などは
調理人のコントロール下にありますが
時間経過による変化を待つだけの場面が必ずあります。
起きるべくして起きることを待っている場面です。

同じことは、おそらく
話しあいにも言えて
自然に起きる変化、熟成こそが
まず、優先されるべきだと思っています。

自然に生えた雑草が強いのと同じく
自然に生まれた展開が、やっぱり
その場に生まれるべくして生まれているわけで
その場に適した展開としての
強さを持っているはずだからです。

コンロに火を点けて、食材を入れて
軽くかき混ぜながら炒めて、水を加えたら
調理人がいったん手を引くのと同じく

話しあいの進行においても
リラックスできる場をつくって
参加者が口を開くきっかけを投げかけて
近くの人と自然に言葉を交わすようになったら
あとは、しばらく様子を眺めてみる。待つ。

その方が、その場で
「何が起きたがっているのか」を
リアルに把握することができると思います。

「何が起きたがっているのか」は
メンバーの気分と組み合わせによって
その場になってみないとわからないことで
起きたがっていることに寄り添うように進行するのが
一番、自然でしなやかな展開力を持つと思います。

早くに言葉を発した人、その周りに起きた話の展開は
場を動かす力を備えているはずですから
そこに注目を集めて、意見を引き出し
それに対しての意見を全体から募ってみるとか。

ファシリテーターが、あまり先手を打たずに
何かが起きやすい状況をつくり
起きたことを受け止め、そこから展開する。
あえて後手に回ることで、次の展開が
場から生まれやすくする。

参加者にあれこれ「させる」ことをせず
何かが起きるのを「待つ」わけです。

あと、ファシリテーターの重要な役割としては
話しあいの収束スピードを
速めすぎないことでしょうか。

待つといっても、放っておくと
口の達者な影響力の大きい人が
場を掌握して、あっという間に収束へと
向かいかねません。

で、それを歓迎する
「話しあいは端的に短く効率的に」派の人が
けっこういますので、本当に結論が出てしまいます。

で、カレーに例えると
ほら、ちゃんと煮込めたから、火を止めて
もう食べようよ、となってしまいます。
でも、ジャガイモが生煮えだったりするんです。
玉ねぎが煮えて溶けたからといって
人参もちゃんと煮えてるとは限らないんです。

話しあいでは
高速に考えて、場を掌握してしまう
いわゆる声の大きい人がいて
それはそれで、ダイナミックに場を動かすことに
非常に貢献してくれるわけですが
いわば、火力が強すぎるんです。

とろ火じゃないと煮えない野菜があるのと同じく
やんわりじわじわ本質に迫る考え方をする人も
それなりの数でいるわけです。
その人たちが本音を言う前に
話しあいが安易な収束へ落着しないように
ファシリテーターは、働かないといけません。

場の火力を落とすんです。
議論のスピードを落とすんです。
意見の細かな差異に注目したり
生まれかかっている結論と、この場の目的を
深く捉え直す問いかけをしたりしながら。
じっくり思考タイプの人が口を開くのを待ちます。

高速思考タイプの人が煮える火力と
じっくり思考タイプの人が煮える火力
が、それぞれ違うので
つまり、どんな環境、タイミングで
思いを発信し始めるかが、人によって異なるので

ファシリテーターは
場の火力、すなわち展開スピードを調節しながら
あらゆるタイプの人が、煮える環境をつくっていく。
煮えやすい人が煮えたから終わり
という誘惑に負けないように
みんなが煮えて、それぞれの旨味が出るまで
火力を調節しながら、待つ。

煮えやすい人からしたら
何をモタモタと回りくどいことをしてるんだ
と思われそうですけれども
そこは、あらゆる人の声を響かせることで
より良い話しあいと、結論が生まれるのだという信念を
その場に共有して、耐え続けるしかないように思います。

この、高速に流れがちな場を
いかに、低速に変化させるか、いかに待つかは
ファシリテーターとしての
肚の括り方にかかっているように思います。

あれこれ、したり、させたりするよりも
熟成は、やっぱり、まず、待つものだと思います。



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2017年12月21日木曜日

馴染むのには時間がかかるわけで

使い古された感が落ち着きます





















前回は、自他の考えに対する態度が
話しあいの深さを決める、といったことを
考えてみました。

照らせる範囲は限られているから

自分の考えの不完全さに謙虚に向きあい
他者の考えに可能性の眼差しを向ければ
話しあいは深まるだろう、ということでした。

しかし、現実は、こんなに
簡単でも、美しくもないわけです。

謙虚さと可能性の眼差しがあったとしても
互いに傾聴し譲りあうだけだったり
互いに尊重し、ツギハギパッチワークの
結論になってしまったり、しかねません。

傾聴や尊重だけでは
話しあいに、ダイナミックな展開
進化、深化、閃きがやってこないのです。

またまた、当たり前の話になりますが
話しあいをダイナミックに展開する駆動力は
強力、鮮明な目的であるはずです。

この話しあいが、何のためになされるのか
について、参加者がドーンと肚落ちしていれば
話しあいはダイナミックに活性化します。

ただの傾聴、尊重を超えて
目的に照らしあわせて、その意見は
何が優れていて、何が不足しているのかを
互いに発見しあうことができます。
どの意見をどう組みあわせ、重ねあわせれば
目的に対して最適な結論が導けるのかを
互いの知恵を集めて、協働的に話しあえます。

目的の肚落ちと
自他の意見に対する態度。
このセットが必要だったのですが
前回の記事では、後者のみの指摘に
とどまっていたわけです。
記事の長さの都合です。はい。

で、この目的ですが
話しあいの最初に、くっきり鮮明に提示して
それをみんなが、そうかなるほど、わかったぞ
と深く肚落ちしてくれれば、ことは簡単ですが
そうはいかないでしょう。

この辺りに、話しあいを主催する人と
招かれて参加する人の間にある
認識の断層、すれ違いがあると思います。

ごくごく単純な断層なのですが。
主催者は、目的は明らかだし
言えばわかってもらえると、思いがちです。

一方、参加者は、そうではありません。
目的は、言われれば、それはそうだなと
思いはするものの、それぞれの事情、文脈の中で
その場にやってきているわけですから
主催者が思うほどには、目的を
はっきりと理解するわけでも
大切な自分ごととして
捉えてくれるわけでもありません。

その結果、主催者の内心に
こんなにはっきり目的を説明してるのに
みんなの話は、何で脱線ばっかりなんだ!とか
何でもっと意欲的に話してくれないんだ!とかの
苛立ちが募ったりします。

その時、参加者の内心は
何で、あの人は、あんなにキリキリしてるんだ?
もうちょっと、俺の話も聞いてくれよな。
という漠然とした疑問や不満が生まれています。

何がなぜ起きているかは簡単です。

要は、人は誰しも
自分の文脈で物事を理解するので
参加者にいきなり目的を理解して欲しいと
求めても、どんなにクリアに説明しても
やっぱり、そりゃ無理ってものです。
ということになります。

参加者は、まず
その話しあいの場所、空気に
そして、まわりの人たちとの関係に
馴染む必要があります。馴染んでから話したいんです。

で、さらに
自分の話が確かに相手に届くっていう
安心感を持った上でなら、より深い話をしますが
そうでない限りは、なかなか本腰を入れません。

目的のわかりやすい説明があったところで
それと自分がどういう関係があるのか
自分の解釈を人に話してみて、聴きあって
あれこれ手探りを互いにしているうちに

あぁ、この目的は
俺たちにとって、大事なんだな
わかった気がするよ。

という風に、じわじわーっと
目的に対しても馴染んでいくんだと思います。

会議は目的が大事、ルールが大事、進め方が大事
とか、クッキリ、はっきりな論理を
主催者は場に対して通そうとしますが
いきなりそれだと参加者は動けないんです。

人は何事においても
馴染むまでに時間がかかります。
論理的に正しければ、すぐ動けるわけではないです。
モゴモゴ、もさもさしながら、場に馴染み
ごそごそ、ジタバタしながら、目的に馴染み
そうやって、ようやく、話が本筋に入っていきます。

時間がかかります。
でも、そうやって一旦入ったスイッチは
なかなか切れないものです。

みんなが
馴染むまで
じっくり時間をかける。

何より、自分自身が馴染むまで
あれこれがんばろうとしないこと。

そんな感じで
ファシリテーターしてます。
いや、生きてます。


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関係と目的と


2017年12月20日水曜日

照らせる範囲は限られているから

まだ雪がなかった頃





















いかにして
自分の考えに対する謙虚さを保ちつつ
他者の考えに対して可能性の眼差しを向け
互いに取り込みあい、混ぜあい
新たな考えを生み出していくか。

この姿勢が共有できたなら
あらゆる話しあいは
上々の成果を出せるはずです。

それくらい
自分の考えに対する謙虚さと
相手の考えに対する可能性の眼差しを
持てるかどうかが大切なわけです。

話しあいの深さ、成果は
話しあいに臨む人が、自他の考えについて
どんな姿勢、態度を持つかにかかっている。
というと、当たり前の話になってしまいますが。

どうしても、互いに
自分の考えは贔屓目に見て
他者の考えはツッコミどころ
ばかりを探してしまいます。

そして、どっちが正しいのかの
綱引き、ツッコミ合戦、または気まずい沈黙が
繰り広げられることになります。

このようなことが起きる根底には
私たちが、いかにして現実を認識しているのか
といったことについての
不十分な理解があるように思えます。

「不十分な理解」とは、正確に言うと
現実の認識の仕方について
理屈ではわかっているのに
ついつい、そのわかり方を放棄してしまう。
ということです。


私たちは、自分の五感と頭脳と
そこに蓄えられた経験と価値観で
現実を認識します。

目の前で起きていることは
カクカクしかじかである、なぜならば
これは以前の経験に類似しているし
これまでの認識の仕方に沿って考えれば
何の矛盾も生じないからである。

といった形で
確信的な認識を持つこともあります。

しかし、どれだけ博覧強記の人であっても
現実の全てを認識することはできません。
その人が立っている場所から
その人の経験や価値観に沿って
認識できるものが、認識できるだけです。

家族によって、文化によって、国によって
同じものでも、違って見えるのです。

例えるなら
暗闇の中に、大勢の人がいて
それぞれが自分の持つライトで周囲を照らし
自分の周りに何があるかを見ている状態です。

ライトが大きい人もいれば
小さい人もいるでしょう。
明るい人もいれば
暗い人もいるでしょう。

いずれにせよ
暗闇のすべてを照らし出す巨大なライトを
持つことは不可能です。

私たちの認識は
常に、個人的な限界を抱えています。
世界そのものになる他は
世界そのもの、現実の全てを
一挙に認識することは不可能です。

私たちは
暗闇の中にいて
それぞれ少しずつ違ったライトで
それぞれの立っている場所から
暗闇を照らして、見えるものを伝えあっています。

明るい世界の中で
同じものを同じに見ているわけではないはずです。
ふたりの人が、ひとつのリンゴを前にして
全く同じように認識するのは不可能ですから。

なのに、私たちは、ついつい
明るい世界で、同じものを、同じように見ている
と思い込みたくなります。
だから、自分と違う考えに出会うと
何でなんだ!間違ってる!
と言いたくなります。

この時
自分の考えに対する謙虚さと
相手の考えに対する可能性の眼差しを
失います。

私たちは
それぞれのライトで
それぞれの場所から
それぞれの見え方のする世界を見ている。

だから互いに
自分のライトが照らし出している現実を
伝えあって、その違いと一致を受け止めあいながら
そのすべてを混ぜあわせ、組みあわせながら
「私たちは、どんな現実の中にいるのだろう」
ということを考えていくしかない。

そう思った時
謙虚さと可能性の眼差しを
取り戻すことができるのではないでしょうか。

私たちは、どんなに聡明になったところで
個人の照らせる範囲は限られているのですから。

僕は
そう考えるようにしています。


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対話はいかにして展開するか

2017年12月19日火曜日

寄り過ぎ注意

「越前がにだぞっ」と


























カニって、近づくと
怪獣にしか見えません。
細部に目を凝らしすぎると
食欲に影響します。

昨日の続き。
思ってた以上に違ってる

いろんな人が
ある言葉を同じ背景、同じニュアンスで
使うことは、まず、ありえなくて。
人によって
少しずつ、またはガラッと違っていて
小さな違いを素通りしながら
話しあいを続けると

肝心なところで、大きな違いとなって露呈して
前に進めなくなったりするわけです。

だから、ファシリテーターは
普通ならスルーする、細かなニュアンスの差異にも
立ち止まって、深く見つめるよう促します。

なのですが、カニに近寄りすぎると
怖くなって食欲を減退させるように
あらゆる言葉のニュアンスの違いに
いちいち反応していたら
おいそれとは言葉が発せられない
窮屈な空気が漂ってしまうでしょう。

厳密に話すことは大事ですが
ずっと厳密だと、話せなくなります。

意味の曖昧な言葉。
色んな解釈が許される
隙間だらけの言葉。

そういう、「脇の甘い言葉」を
ゆるーく、やわらかく
やり取りする中で
話が深まっていく段階というのが
ありますから。

「脇の甘い言葉」というのも
なんとなく意味がわかるようでいて
厳密にはどういうことなのか
解釈し始めようとすると
何通りもの解釈が出てきます。

でも、このような言葉のやりとりが
許容された場ならではの
刺激しあい、閃き、インスピレーションが
あるわけです。

このような時、ファシリテーターは

互いに解釈は
少しずつすれ違い、ズレて、ぶつかっていても
大勢に影響なしと判断し、おかまいなしに
ノリで、グイグイ話しが続く様子を見守ります。
時に、それを助長しながら。

ただ、場に流されるのではなく、あくまでも
「脇の甘い言葉がやり取りされている」
「ここは、このノリでいける」
という、場に対する感覚は維持しながら。

やり取りされる言葉に対して
ニュアンスの違いを感じ取る
繊細で微視的な「虫の目」を持ちつつも
それに囚われすぎず

全体の大きな流れを感じられるように
ノリからちょっと距離を置いた俯瞰的な「鳥の目」で
場がどこに向かおうとしているのかを見つめます。

そうすることによって
細かいニュアンスの違いを
わかりつつも、スルーし

話が核心に迫ってきたところで
より重要なニュアンスの違いに対して
問いかけることができると思うのです。

鳥の目になっているファシリテーターは
もしかしたら、話しあっている人からは
消滅しているように見えるかもしれません。


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2017年12月18日月曜日

思ってた以上に違ってる

予想より大きすぎたBLT、おいしいけど

























仕事の後に、小腹が空いて
カフェでBLTサンドを頼んだら
予想よりはるかに大きくてビビりました。
以前、食べたことのある某チェーン店の
大きさをイメージしていたので。

人それぞれ、何かを想定する時に
何らかの実体験を元にしていることが
多くあるはずです。

言葉にした時には
サンドイッチという
同じ言葉になっていたとしても

そこに込めた
イメージ、味わい、歯ざわりみたいなものは
言葉を発する当人が予想する以上に
人それぞれ大きな違いを孕んでいることでしょう。

BLTサンドは
ある程度、社会に流通していて
よく似たパターンを持てますが

本来、個人的な経験とその受け止め方は
多様であり、同じ経験をしても
違った風に感じるのが人の感覚というものなので
同じ言葉を使ってはいるものの
その背景にある経験が、とんでもなく違っている
という可能性があるわけです。

ので、結婚して見て初めて知った我が家のヘンな習慣。
「えっ、これって俺の実家だけだったの?」
みたいなことが、よく起きるわけです。

こういう現象は、
考えてみれば当たり前のことなのですが、
通常のコミュニケーション場面では、
ここが素通りされます。

コーヒーといったら
「あの」コーヒーに決まっいて
歯磨きといったら
「あの」歯磨きのやり方に決まっている。
という具合に、互いに一致していると
思い込んだまま会話が進んでしまいます。

コーヒーや歯磨き程度のことで、
多少のニュアンスが違っていても
その後の会話の進み方に
大きな影響を与えることはないので
大抵の場合、あまり問題になりません。

しかし、例えば、同じ組織に属するメンバーが
組織のこれまでを振り返り
これからを見通すような
深い対話をしようと試みる場合
このズレをいかに丁寧に埋めるかが重要になります。

互いに
同じ組織に属しているのだから
同じ経験をしていれば
それに与える意味も同じようなものだろうと
さらっと解釈してしまいます。

で、その組織におなじみのキーワードでスラスラと
「だよねー」「それ、あったねぇー」的な
滑らかな対話をしている気分になったりします。

でも、その滑らかな対話の背後で
着々と意味のすれ違いが積み上がって行って

「私たちの活動の意味って何だろう?」
「じゃぁ、これからどこを目指していこう?」

という、対話の核心、合意形成、ビジョン創出場面
になると、大きなすれ違いが露呈する
もしくは、これまで考えることなく保留されてきたことが
露呈するということになります。

ファシリテーターとして色々と経験してきましたが
どんな組織でも、多かれ少なかれ
このようなことは起きるもののようですし

人が集えば、細かな差異は一々気にせず
判断を節約して、わかりあおうとするのが
心理学的な原理だとも言えます。

ファシリテーターが対話の場面で
まず、抵抗するべきは
人や組織にとって、「ごく自然な」
この「細かな差異は気にせず」という傾向だと思います。

放っておいたら
誰もが、「まぁ、だいたい同じだよね」という
暗黙の了解で話を進め、最初は軽やか
核心に迫るにつれて、ニッチもサッチも
ということになりますから。

同じ言葉を使っているけれど
みなさんの意味していることは
どれくらい同じなのでしょう
どれくらい違うのでしょう

という七面倒くさい、ニュアンスの差異の確認を
ファシリテーターが存在することによって
みんなに促すことができる。
それが、ファシリテーターの
大きな存在意義のひとつだと思います。

「だいたい同じでいいじゃん」
というのが、普通で自然な判断なのですから。





2017年12月17日日曜日

互いの存在を意味づけあう

























カレーライスを食べました。
向かって左上方から右下方にライスが侵攻し
それを右下方から左上方にルーが迎え撃ちます。
いや、戦場じゃないですけど。
ま、位置関係の話です。

画面やや上方で
ライスとルーはあいまみえ
ここにカレーライスが誕生します。

カレーライスは
ライスだけでもルーだけでも成り立たず
それぞれが分離されていても成り立たず
ライスとルーが混ざりあった時に
成り立つ、いわば現象です。

戦場ではありませんが
ライスとルーが、あいまみえる合戦の場で
何が起きているのかを考えることは

多様な意見が飛び交う話しあいの場で
何が起きていて、ファシリテーターはどう
考え振舞うべきかのヒントをもたらしてくれます。

かなりの無理矢理感が漂いますが。
ま、おつきあいを。

話し合いの場において
意見Aと意見Bが対立している状況は
両者が、交わらず、遠目に互いの違いを
指摘し合っている状況と言えるでしょう。

自分の意見の正しさに対して
頑ななディフェンスの構えをとり
相手の攻撃、指摘を跳ね返そうとしあいます。

この状況では
それぞれの意見を根拠づけているのは
それぞれの考えです。
意見Aの成立を根拠づけるのは
意見Aを持つ人の考えです。
何を当たり前のことを、と思われそうですが。

これは、カレーライスに話を戻すと
ライスとルーが、同じ皿にありながら
画然と隔てられて、並存している状況です。
これは、カレーライスではなく
ライスとルーが乗った皿に過ぎません。

カレーライスが美味しいのは
ライスとルーが混ざりあい
ライスの味と食感が
ルーの味と食感と出会うことによって
互いの味と食感の意味を引き立てあい
ライスはルーとともにある
新たなライスとしての意味を持ち
ルーはライスとともにある
新たなルートしての意味を持ちます。

ここで、話がややこしいのは
ライスはルーと混ざりあった時の
自分の存在を自分では確証できず
ルーも同様だということです。

混ざろうが、囲まれようが
自己認識は、相変わらず
ライスはライス、ルーはルーです。

で、上述のように
互いの存在を引き立てあうことに気づけるのは
ひとえに、食べる人の行為、味覚によってです。

食べる人が、混ぜ合わせ、一緒に口に運び
味わうことによって
ライスとルーは、新たな意味を帯びます。


例え話を終えて、話しあい場面に戻ります。
意見Aと意見Bをまぜあわせ
互いの意味を引き出しあう、引き立てあうのは
相互の自力に頼っていては、困難でしょう。
それぞれが、それぞれの正しさを
主張するのに精一杯ですから。
皿の中央で、混ざり合おうという意識は
生まれません。

ここで、食べる人としてのファシリテーターの存在が
重要な意味を持ちます。

ファシリテーターは、おそらくその場でひとりだけ
皿の全体像を俯瞰することができる位置にいます。
そして、意見Aと意見Bを皿の違うゾーンに対立的に
並置するのではなく、皿の中央で混ぜあわせたら
互いに、どんな意味を引き出しあえるのかを
試す行為に踏み出すことができます。

なぜなら、ファシリテーターは
どちらの意見に対しても
その成立を根拠づける立場にはおらず
全体としての新たな意見の成立を、いわば孵卵する
立場にいるからです。

ライス命の人が、カレーライスを前にして
ライスしか食べないのとは、違いますから。

で、異なる意見を食べる人としてのファシリテーターは
意見AとBを場の中央に寄せ、並べ、関係づけを試み
Aから見たB、Bから見たAの解釈の一例を示したりします。
要は、ふたつを同時に味わって見せるのです。

それを目の当たりにした
意見AとBは、自分の考えの、新たな可能性に気づきます。
いや、気づかないかもしれないけれど
少なくとも、大きな皿の上に、両者とも乗っていたんだ
川を隔てて、鉄砲構えて向き合っていたわけではないんだと
気づくことができて、多少ともディフェンスを緩めるでしょう。

カレーを食べる人が
口の中でどんな味覚が広がるのかについて
最終決定できず、それは、皿の上に何が乗っていて
スプーンで、どう救ったかにかかっているのと
同じように

ファシリテーターは
意見AとBを混ぜて、味わって見せはしますが
どんな味かを、控えめな食レポのごとく
場に伝えるだけで、その食レポを聞いた両者が
互いに新たな混ざり方を生み出し
もしくは新たな食材を持ち込み
カレーライス作りへのコラボレーションが
生まれていくのを支援します。

食べる人としてのファシリテーターが
対立する両者が混ざり合う可能性を示して見せ
そこから両者が、互いにとっての互いの存在の意味を
深めあい、新たな意味を見出していく営みが始まる。


カレーライスが大好きな僕は
ファシリテーションの現場に
そのような妄想を抱いています。


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2017年12月16日土曜日

どこで終わってもいい安心感



























会議の次第。
ワークショップのプログラム。
ファシリテーターは、時間内に
それが消化できるかが気になります。

気になると
場に起きていることが、上の空になって
どうやって、最後まで持っていこうか
という意識で頭が一杯になるでしょう。

で、ファシリテーターではなく
強引に結論に向けて引っ張っていく進行役
になってしまいがちでしょう。

このような場面では
もはやファシリテーターではありません。
参加者の思いの引き出しもなければ
丁寧な受容もないでしょう。

そしてやっかいなことに
ファシリテーターがこのような状態になった時には
同時に、その場の参加者も、同じように
早く結論に持っていこうという気持ちになりがちです。

その相乗効果で
せわしない進行と共に
予定調和な結論に落ち着きます。

ここには、ある価値観が潜んでいます。
「結論、完成まで至らなければ
 それまでの時間が無駄になる。
 また仕切り直しだ」
という完遂至上主義のような価値観です。

最後までたどり着くこと、やりきることは
様々な場面で重要であり
この価値観自体は、有用なのですが
こと、話しあいに関する限り
この価値観を持ち込みすぎると
場が空虚に展開し、予定調和に陥ります。

ここで、もうひとつの価値観を提案したいです。
「話しあった以上、その間に
 互いの考えは熟し、変容している。
 結論は出ていなくても
 我々は確かに成長した、価値を増した」
という内面や関係の変容至上主義のような価値観です。

この価値観に立つと
会議やワークショップは
ある程度は、目標を持って進むものの
どの瞬間に時間切れになっても
そこまでの話しあいで
相互に変容しているのですから
結論がなくても、価値を生み出していることになります。

確かに、もう一度、集まり
話あう必要は残ります。二度手間に思えます。
しかし、稚拙な、予定調和な結論を出した場合よりも
内面や関係の変容、成熟を伴った二度手間の方が
長期的に見て、より大きな成果に結びつくはずです。

二度手間の方が、組織の成熟に結びつくのです。
しかも、もうひとつ大きな利点があります。
それは、ファシリテーターも参加者も
時間切れの焦りから解放されて
今、目の前で起きていることに集中できて
話が深まる可能性が高まることです。

ファシリテーターは
どこで時間切れが起きても大丈夫なので
下手な帳尻合わせをする必要も
落とし所に無理に引っ張っていく必要もありません。

残り時間がどれだけ短くても
ただただ、起きていることを
受け止めていけばいいのですから。

ここで、ファシリテーターの
最も重要な役割は

話しあいが途中で終わってしまうことは
不毛なことでは決してなくて
それまで過ごした時間に
相互に変容、成熟してきたのだから
有意義なのだという視点を
事前、途中、事後に参加者と共有することでしょう。

参加者の価値観が完遂至上主義であれば
ファシリテーターの自己満足に終わるからです。

完遂至上主義は
どこでも根深いので
変容至上主義へのシフトは
簡単にはできず、回を重ねる必要が
あるかもしれません。

しかし、これは
誰にとっても有益な手間暇だと考えます。

会議もワークショップも
どこで終わってもいい。

そう思うだけで
伸びやかに話せます。
ファシリテーターの自在度が増します。
場に安心感が充溢します。



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2017年12月15日金曜日

安心感の源は



多すぎて、お持ち帰りした、みぞれ唐揚げ定食。
お持ち帰りしてもOKな定食屋さんで
容器がちゃんと用意されてました。

そういう店でなければ
いつものごとく、ガツガツ食べきって
しばらく動けなくなってたかも。
出された食べ物は残さない、絶対完食
というのが僕の基本姿勢なので。

この日は、本当に珍しく
「今日は、残そう」と思いました。
お持ち帰りOKで容器も用意されていたから
そういう判断がしやすかったんだと思います。
なんだか、安心感がありました。

で、みぞれ唐揚げ定食からの
ファシリテーションにおける安心感の考察です。

安心感がない状態というのは
ある状態以外のことが起きてしまうと
とってもマズイことになるんじゃないか
という不安が優っている状態です。

起きることが望ましいことが
狭く想定されていて、それ以外のことを
できるだけ排除したいと思いすぎてしまうと
不安が増してしまう、という構造です。

逆に、起きることが望ましいことが
広く想定されていると、あれもOKこれもOKですから
不安が起きる要素が格段に減って
安心感が増します。

ここから考えられることは
ファシリテーションの場において
参加者の安心感を増すためには
二つのアプローチがあるということです。

ひとつめ。
起きることが望ましいことを
ごく普通に想定し、それが起きやすいように
または、起きて欲しくないことが
起きないように万策を講じる。

話しあいがスムーズに進むように
衝突が起きないように、議論が停滞しないように
あれこれ準備を積み上げる。
根回し、たたき台、議論のシナリオなど
よくある方法です。

ふたつめ。
起きることが望ましいことを
とっても広く想定し
起きてはいけないことなんて、そんなにないから
何が起きてもダイジョーブという空気を醸し出す。

この場合、準備はあまり必要ありません。
ファシリテーターが、起きることを
面白がって、可能性の源として
受けとめ続ければいいだけです。
でも、この方法が採用されることは
あまりありません。

で、根本的な意味でどっちが
安心感を増すことができるかというと
ふたつめの方法です。

なぜなら、ひとつめの方法は
起きることが望ましいことを、限定的に捉えてしまうため
どんなに準備をしようとも
そこから外れる不安が常に付きまとうからです。

しかも、想定通り進めたいという
ファシリテーターの欲求が
場を固くこわばらせるので
不安と窮屈さがないまぜになった空気が
醸し出されます。伸びやかさは、ないです。

それに対して、ふたつめの方法は
何が起きても大丈夫という信念が共有されさえすれば
何かまずいことが起きるのではないかという
不安が生じる可能性が、とても小さくなります。

ファシリテーターの姿勢も
事前の想定に従うのではなく
目前で起きていることに寄り添うので
とてもしなやかになり
のびのびとした空気が醸し出されます。

どう考えても、ふたつめの方が
安心感を増すのです。

では、なぜ、
ふたつめの方法が採用されないかということ
端的に言って、「何が起きても大丈夫」という
姿勢をファシリテーターが持てないからです。
ここが乗り越えられない限り
ふたつめへの道は開けません。

では、なぜ、大丈夫だと思えないかというと
何かが起きたその先が想定しきれず
想定しきれないことは不安だと
自動的に思うからです。

しかし、これは本当でしょうか。
想定しきれてしまうことだけが起きるのは
僕がファシリテーターだったら
不安というか恐怖というか、いや退屈とういうか。
それだけは勘弁してほしいと思います。

想定できることが起きていく話しあいの場は
そもそも、そこに集う意味があまりありませんから。
ファシリテーターも必要ありませんから。
みんなで筋書き共有して
お芝居みたいに演じればいいだけですから。

話しあいの場の醍醐味というのは
話してみないとわからないことが
次々と起きてきて
話しあっているうちに、話しあう前とは
違う現実の見え方、可能性が拓けてくることです。

したがって、話しあうなら
想定外のことが起きてくれないと困るし
想定外のことを怖がるファシリテーターでは
困るわけです。

では、なぜ、想定外を怖がるかというと
想定外は混沌への道であり
混沌に入り込めば出口がないかもしれない
と思えてしまうからです。

でも、混沌の中で出口が見つからない人には
共通点があるように思えます。
話が循環しますが、それは
混沌を怖がっているということです。

恐る恐る、または嫌々、混沌の中を
できれば帰りたいなぁと思いながら
歩んでいれば、見つかる出口も見つかりません。

混沌の中で、これはチャンスだと
これまでにない境地に至る途中経過だと思い
興味津々、ワクワクの気持ちで歩むならば
出口はきっと見つかるでしょう。
むしろ、出口を創り出すことができるとも言えます。

誤解、すれ違い、紛糾、沈黙
あらゆる、一見、望ましくない出来事が
可能性の源であって、一時的な混沌を生み出すにしても
その先に、話あう前とは違う世界が開けうるのだと
楽観的に思うことは

単なる、ノーテンキではなくて
そう思うことによってこそ、本当に開けてしまう
という、まっとうな道だと思います。

この道をファシリテーターが信じることこそが
「頼れないけれど、安心はできる存在」として
場の力を引き出し、湧き出させる道ではないかと
今のところ、思っています。





2017年12月14日木曜日

頼れないけれど、安心はできる



安心感に満ちた場で
みんなが、生き生きと発言して
徐々に思いの交わりと深まりが生じていく。

そんなことを思い描きながら
ファシリテーションするわけですが。

そこで、自分は
どんなファシリテーターとして
ありたいのか、と深く自問してみます。

活動を始めて間がなかった頃。
僕は、頼り甲斐のあるファシリテーター
でありたいと、願っていました。

ハキハキと話し
クリアに問いかけ
深く傾聴し、うなずき
異なる意見の間を見事につなぎ
全体として何が言われているのか
議論の本質を鋭く浮かび上がらせる。
しかも、スピーディーに。

そんなファシリテーター
でありたいと、願っていました。

こうやって、当時の自分の願いを
書き連ねてみると、わからなくはないけれど
なんだか、がんばってるよなぁ
という感じです。

こういうことができれば
多分、頼り甲斐のある、信頼を集める
ファシリテーターになるんだろうと
思わなくもないです。

でも、でも、なんです。

11年の経験を積み重ねて
今、思います。

プロのファシリテーターであると
名乗り、自負しながらも、だからこそ

頼り甲斐のあるファシリテーター
でありたいという、「安易な」欲求に
負けてはいけない、と。

この辺、わかりにくい
言い方になりますが。。。

頼られる存在は
チームをひとつにまとめますが
多様性のある混とん状態を
スピーディーに回避するための存在でもあります。

ここが大事なのですが
ファシリテーターは、スピーディーに
場をひとつにまとめるのが
必ずしも仕事ではないはずです。

まとめることを急いだが故に
多様性が失われ、議論の深まりが達せられず
ということは、よくあります。

みんながファシリテーターの
安定した、シャープな進行に頼ってくるが故に
その人が議論の中心軸になっていく
ということも、よくあります。

いずれも、見た目は綺麗な場ですが
ファシリテーターは何のためにいるのか
という根本的な問いが忘れられているように
思います。

多様な存在が
多様な意見を語りあい、聴きあい
響きあいの中から、思いの深まりが生じ
互いの主体性を互いに触発しあいながら
互いに変容しあう
ある意味、不安定で、混とんとしたプロセスを
支え続けるのが、ファシリテーターの存在理由だと
思うのです。

上述したような
頼り甲斐のあるファシリテーターは
そのプロセスを回避すること、もしくは
最短化することを存在理由にしているように見えます。
そして、もしかして、世の中の
ファシリテーターにまつわる言説の多くも
そのような傾向を持ちがちかもしれません。

でも、僕は、思います。
ファシリテーターは、効率的な合理化のための
存在ではないのだと。

本来、誰もが避けたくなるような
非効率で混とんとした場に対して
そこにいる人が、ポジティブな可能性の
眼差しを向けられるように促し、支えるのが
ファシリテーターだと。

だから、僕は
スマートな、デキる
頼り甲斐のあるファシリテーター
でありたいという「安易な」欲求に
蓋をします。

フワフワとしてて頼れないんだけど
場がグチャグチャしてても
あの人が視界に入ると、声が聞こえてくると
なんだか安心して、もう少し話してみるか
と思えるんだよなぁ

と感じてもらえる

頼れないけれど安心はできる
ファシリテーター

を目指しています。

その安心感の源が何なのかは
いずれまた。





2017年12月13日水曜日

成功体験ほど怖いものはない



ファシリテーションやってると
これはどうすればいいんだ?という
難しすぎる局面がやってきて
時折、幸運にも、火事場の馬鹿力が出て
綱渡り的に乗り切れてしまうことがあります。

振り返ってみて
おぉ〜、こういう乗り切り方があったのか
と、自分のやったことに
自分で感心してしまいます。

で、やっかいなのが
こういう成功体験の後です。

強烈な体験として
自分の中に記憶されますので
折に触れて、再生されるんです。

色んな人から
あれはどうやったんだと
尋ねられて、繰り返し語る機会があったり

または、自画自賛的に
うまくやったなぁと
思い出っぽく想起したり。

そうやっていくうちに
そこまでやってないだろ
くらい、クリアで美しい記憶になります。
強化されすぎた成功体験です。

これが、類似する状況の時に
あの時みたいにやりきればいいんだよ
という悪魔の囁きとして現れます。
この囁きには抗い難く、ついつい
あの時みたいにやろうとしてしまいます。

で、これが見事に
うまくいかないんです。
スベるんです。

考えてみれば当たり前のことで
初めの成功体験は
自分でもどうなるかわからないくらいの状況で
そこに捨て身の没入をする中から
繰り出された一手が
快心の切れ味を見せた結果ですが

2回目以降の類似状況で繰り出される
「かつて成功した一手」は
その状況の中から繰り出されたものではなく
その状況の外から対処療法的に
与えられるものです。

この違いは大きいです。
ファシリテーターが何をするのかが
状況から切り離されて与えられる時
状況との乖離を生み、空転するのは必然です。

これはかつての成功体験に限らず
誰々がやっていて上手くいっているのを見たとか
有名な本に書いてあったからとか
そういう一手も、同じ結果になるでしょう。

自分のかつての成功体験が
最も誘引が大きいので、ついつい
栄光よもう一回、となってしまいがち
だというだけです。

ので
成功体験ほど怖いものはない
と思っています。

成功体験をもたらしたのは
その時の自分のとった「やり方」ではなく
そのやり方を生み出した
状況に没入するという「あり方」であったのだと
そこのところを、くっきり区別しておく必要が
あると思っています。

やり方より
あり方。





近頃の反省



毎日、誰かと話します。
とるにたらない冗談もあれば
喧々諤々もあります。

どんな瞬間にも
ちょっとしたことに気づいていて
うん?という違和感があったり
おぉ!という発見があったり
きたぁ〜!という閃きがあったり。

それらの
ちょっとした気づきは
なかなか、次の展開に結びつかないのが
僕の日常です。


なんで結びつかないかというと
気づいた後には、次にすべきことが控えていたり
どうでもいいことに気が取られたり
ともかく、気づきの実行、検証に進むことより
どうやら、他のことに重きを置いてしまいがち。

立ち止まって考えると
なんてもったいないことをしてるんだと。

書店で、アマゾンで
身になりそうな本を物色するのもいいし
乱読、読み飛ばしするのもいいけれど

日々気づいていることを
もうちょっとだけ立ち止まって
じゃぁ、やってみよう、という実践に
移せたならば

5冊10冊の本を読むよりも
血肉になる智慧が身につくんじゃないかと。
そう思います。

自分の実践、日常の中でのささやかな気づきを
深い学びに繋げられないままに
どれだけ広く学んでも
ダメなんだよなぁ〜。

というのが
近頃の反省です。



2017年12月12日火曜日

ファシリテーター消滅の条件



昨日の話題の続きですが。

なるべく手数の少ない
ファシリテーターでありたいと
思っています。

あれこれ仕切る
シキリテーターではなく。
状況に振り回される
パシリテーターでもなく。

やんわりフェザータッチで
何かをやってるようで
何をやってるのかわからない
くらいの関わり方。

しまいには
いつの間にか
存在を忘れられてしまう。
それくらい、参加者が
自分たちの対話に没入してしまう。

で、場に大きな共鳴が生まれ始めたら
やおら姿を現して、転換点を生み出す。
参加者の意識を一段、深い領域に誘う。
そして、また、存在を薄めていく。

そのようなあり方をする
ファシリテーターでありたいと思っています。
そのための要因とは何か、あれこれ
思いを巡らせています。

今のところの僕は
最初からフェザータッチでは
うまく場をつかめないことが多いです。
ある程度の手数を要します。

その上で、徐々に消滅してくための
要因を考えると。


その日初めて会う人が多い場で
ファシリテーターを務める場合は

その場の企画段階から
深く関わってくださる人が
参加者の中にある程度含まれていると
存在を薄めていくことができます。

つまり
場の目的、コンセプトを理解している人が
含まれていれば、その人と僕との共鳴を通じて
全体の共鳴を波及的に生み出しやすいからです。

全体の共鳴が始まれば
ファシリテーターとして消滅しやすくなります。

一方で
あまり多くの人と事前に意思疎通ができている場合
予定調和が起こりやすくなり
ファンに囲まれすぎたお笑い芸人みたいになりそうです。

笑いのポイントで
必ず笑ってくれるだけでは
演芸場的には盛り上がりますが
対話の深化という面では淋しい気がします。

ある程度の数の
場の目的に共鳴しやすい人に
支えられながら

初めてあった人たちの深いところに
その場の目的を響かせていくような
ファシリテーションが前半戦でできれば
後半戦の場は、共鳴が共鳴を生む自律過程に
入っていけると思います。

で、その先に目指したいのは
あらかじめ目的の共有をしていた人と
後から共有てくれた人が、対話を通じて
互いの認識のズレを触発源として
新たな地平を開いてくれることです。

あらじめ目的を共有している人の認識の中に
後から共有してくれた人の認識が
取り込まれていくのでは
もはや洗脳ですから。

事前の打ち合わせは
その流れにみんなを巻き込み洗脳することではなく
共鳴しやすい状態を生み出すことであって

生まれ始めた共鳴の中に
時差や不協和音を交えながら
事前には想定できなかった
新たな音色の共鳴が響き始めることを
目指すためのものですから。

そこは、間違えないようにしたいです。




2017年12月11日月曜日

消滅するファシリテーション



ファシリテーターとして
10年以上の活動を積み重ねながら
ずっとさいなまれている感覚があります。

ファシリテーターは
いらないんじゃないか。

いや、必要かもしれないけれど
ずっと必要とされるファシリテーターは
いてはいけないんではないか。

ということです。

話が勝手に盛り上がって
深まっていくのが一番良くて
それを、ファシリテーターが
何かわざわざすることによって
促していくようなことは
やっぱり、自然なあり方ではないと
感じます。


自分の感覚を
うまく言葉にできないのですが
特に、違和感を持っているのが
「わざわざする」ファシリテーションです。

ファシリテーターが決まっていて
ちょっとしたアイスブレイク的な時間があって
クリアに問いかけて、意見を引き出し
なんなら、綺麗に整理して書き出して
議論を進行していくような。

そんな、しっかりしたファシリテーションが
僕には、いつも違和感の源になっていました。

「わざわざ」なのか「しっかり」なのか
それも、自分の中で整理できていませんが
ともかく、ファシリテーション「している」状態が
「よく見える」「あぁしてるな」という感覚が
なんだか、居心地が悪いのです。

何をしてるんだか、よくわからないくらい
フェザータッチだったり、不親切だったり。
そういうアプローチから、場を創れないかと
次第に思うようになりました。

そこに集った人に
ファシリテーション「されてる」と
感じさせることのないような

むしろ、ファシリテーターとしての僕自身が
自分のファシリテートを、その場から
「引き出されている」と感じるような。

すべての人が
場と一体になって
溶け合っているような。

しているのでも
されているのでもなく
ただ、ともにある、ともに紡ぎあっている。
紡ぎつつ紡がれるような感覚。

そこでは
ファシリテーション「する」という
能動的な感覚は、消滅します。

次第に、ともにファシリテーション「しあう」という
能動でありながら受動でもあるという
感覚になり、主体でも客体でもなく
その両方である、主客一致の境地になります。

そしてついには
ファシリテーターが「いる」という
積極的な存在も、消滅するでしょう。

僕が目指しているのは
消滅するファシリテーションです。

ファシリテーターと自称しながら
つまりそれは、「私は何者でもない空白である」
という宣言でありえるような
あり方を模索しています。






2017年12月10日日曜日

音楽の力から、妄想へ



有名な
大阪桐蔭高校吹奏楽部の
演奏会に行ってきました。

いやはや、凄すぎでした。
これが全国トップクラスかと。
なるほど、こういうレベルなのかと。
感動しました。

僕は音楽の素人ですから
技術的なことはわかりません。
でも、演奏する一人一人が
「音楽の中」「曲の中」を
生きているように感じました。

うまくタイミングを合わせようとか
音が外れないようにとか
音符を間違えないようにとか

という発想は
演奏している曲を客体として
扱う時に生じるものでしょう。

でも、大阪桐蔭高校の演奏は
演奏する誰もが、自らが演奏している
曲の中にいました。
曲と演奏者が客体と主体の関係にない
一体のもののように見えました。

彼ら彼女らが曲であり
曲が彼ら彼女らである。
のような光景でした。

曲とは、自分たちの
息遣いや指使いから生まれるものですが
その自分たちが生み出した曲の中を
生きることによって、次の展開を生み出す
エネルギーを得ているのではないかと
僕の妄想は広がりました。

ノリがノリを生む。
ような感覚でしょうか。

そして、僕は
そのノリの中に取り込まれていきました。

僕が音楽に聴き入っている時に
よくあることなのですが
次第に音楽そのものが背景へと退いていき
BGM的な存在になるというか
僕が音楽の世界の中に入り込んでしまうというか
客体としての音楽を主体としての僕が味わう
という関係ではなくなっていき
音楽は鑑賞対象ではなくなっていきます。

音楽が生み出す世界の中で
様々な思念が好き勝手に膨らみ始めます。
妄想っていうやつですね。

音楽に聴き入りながら
入り込んでいく妄想の世界は
いつもの妄想よりも
展開力がたくましく
時に貴重なひらめきを生みさえします。

対象として何かを捉える次元から
対象の中に入り込んで
主客の境がなくなった時に
生まれる世界の見え方に注目しています。

西田幾多郎的でしょうか。
いや、そこまで西田哲学を理解してませんが
なんとなく、近いものを感じていて

ファシリテーションにも
そんな次元があると思っています。

そういえば、敬愛する越前屋俵太さんが
「街の人にインタビューしている時
 うまくいくときは、自分が聴き手なのか
 語り手なのか、境目がなくなってくる」
という意味のことを話してくれたことがあります。


主客一体の境地。




2017年12月9日土曜日

外部への洞察力を



考えて考えて
熟考の末にたどり着いた自分の考え。
もう、これ以上はあり得ないんじゃないか
と思えるくらいの整合性と深さ。

そんな境地に至ったことはありませんが
それでも、考え抜いて出した結論には
自負心や自分との一体感めいた
これは自分そのものだという感覚が宿ります。

で、その通り実行し
もしかしたら、うまくいってしまうかもしれません。
考え抜いたのだから、それなりにうまくいくことも
少なくはないでしょう。

そうやって
自前の考えの成功体験が積み重なり
この考えは正しいのだという
確証が育まれていくでしょう。

大げさにいうと
まるで、自分の考えが
その分野の説明原理になったように
錯覚していくかもしれません。

そのような考えを持ち得た人に
訪れる試練、そして成長の契機は
そのように自負を持った考えと
異なる考えに出会った時です。

いくつもの成功を積み重ねてきたがゆえに
正しさへの確証を深めた自分の考え。
それと異なる考えに出会った時
その人は、どう考えるでしょう。

最も安易で、最も採用されがちなのが
自分の考えの中に、その異なる考えを取り込むために
その考えを持つ相手に、修正を迫ることです。

一見、違って見えるけれど
それは、そのような考え方がの故であって
自分のように考えれば、同じ結論になるはずだ。
したがって、あなたは、考え方を変えなさい。

そのような態度です。

ここでは、自分の考えが正しく
そこには修正の余地はなく
相手の考えこそ、修正されるべきだ
と考えられています。

ここが、この人の
思考力の限界点になるでしょう。
これ以上の深い思考に至ることはなくなり
この人の思考によって捉えられる世界は
これ以上の広がりとしなやかさを獲得しないでしょう。

異なる考えと出会った時
それを成長の契機とするためには
異なるふたつの考えを包摂する
より広い外部を洞察し
自分の考えも、相手の考えも
ともに成り立ちうるような
より深い考えを生み出すことが必要でしょう。

ここには
対立ではなく、共創があります。

互いの違いと一致点を受け止めながら
両立する世界のあり方を構想するのですから。

そして、新たに見出された
より広い世界のあり方のの中に
自らの考えを位置付ける時
それは、しなやかさを増しているでしょう。

単純に、自分は正しいと思っていた次元から
自分は正しいけれども、それは限定的であり
より広い世界の中で、それが正しい場合もありえる
にすぎないという次元に至るからです。

良質な対話によって
互いの思考が深まっていくとは
このような状態を指すのではないかと
考えています。




2017年12月8日金曜日

答への欲求の起源、その先



ファシリテーションは
すでに定まった答えが存在する
という前提を持ってしまうと
硬くこわばります。

話しあいましょう、と呼びかけつつも
落着点へと誘導してしまうので。

でも、あらかじめ落着点を決め
そこに向かって誘導したいという
欲求は根深くあります。

なんでそうなるのか
その欲求の起源を遡ると
学校の勉強にたどり着くのではないでしょうか。
いや、勉強だけじゃなくて、校則とか
ルールを守ると言う活動も含めての学校かも。

僕が小学校や中学校だった頃
そして高校生であってもなお
勉強は、ひとつの答えが定まっていました。

その答えに向かって
いかに速く正確にたどり着くのかを
身につけ、競い合い、評価されていました。

動かしがたいルールがあり
そこからはみ出ないようにする
もしくは、はみ出ているのを
見つからないようにするのが日常でした。

僕の周りには
つねに、定まった答えがあったんです。

その答えにたどり着く技量が
高ければ、難関大学に合格できました。
そういう世界で生きていたことを
今になって、あらためて思います。

受験競争は
今の自分にとっては
達成感や充実感の思い出としてあり
財産のひとつであると思っています。

けれども
長く続いた、答えが定まっている世界での生活は
いつの間にか、抗いがたい、答えを与えられることへの
根深い欲求を生み出していました。

自ら答えを生み出すのではなく
定まった答えが与えられることへの
欲求が、醸成されていきました。

答えを求める欲求を持って就職し
社会という、自分の力量では
答えを掴み得ない世界で

先輩の持っている答えを
なんとか盗み取ろうと四苦八苦したり
答えが出ない苦しみから逃避したり
書店で、安易な答えを与えてくれそうな本に
手を伸ばしたり。

答えがないことに疲弊し
休日は眠るばかり、または逃避ばかり
だったかもしれません。

地域や政治や国際や
といった類のことには
いっさいの関心がありませんでした。

ただ、自分の仕事の、人生の
答えが定まらないことに不安と苛立ちを
抱えていたように思います。

今思えば
不安や苛立ちの根源は
仕事やその時の人生ではなく
それに対する捉え方だったのだとわかります。

何事にも
どこかに答えがある
という前提で、仕事や人生を眺めていて
不安になり、苛立っていました。

もしその時
答えは、自分で考え抜いて創り出せばいいのだ。
自分で無理なら、仲間を集めて
ともに考えて、答えを創り出せばいいのだ。

と思えていたならば
不安や苛立ちよりも
可能性を開く意欲が生まれていたと思います。

そして、仲間とともに考え、答えを創り出す営みこそが
地域づくりであり、政治であり、世界のあり方なのだと
気づけはずなのだと思い返します。

答えが、どこかにあるのだという
学校時代からの思い込みによって
社会に出てからの僕は不安にかられ
身近な社会への関心を持てずにいました。


答えにまつわる
根深い思い込みや欲求は
根深いだけに
世界の見え方を変えてしまうようです。

定まった答えを受け取るのだと思えば
世界は、硬くこわばり、窮屈になるでしょう。

答えをともに創り出すのだと思えば
世界は、しなやかに形を変え、開ていくでしょう。






2017年12月7日木曜日

決めたことをやるよりも大切なこと



決めた以上はやろう。
最後までやりきろう。

っていう言葉だけとらえれば
立派なことで、反論もないですが。

ここには落とし穴が
あるように思います。

どのように決まったかを
問わないままに
「決めた以上はやりきろう」
という反論できない直言を掲げるのは
危ういです。

何となく決まった。
前例踏襲で決まった。
だれかの都合で決まった。

などのプロセスが隠蔽されたまま
決めた以上は。。。というのは
組織に、チームに、惰性を生み出します。
思考停止を生み出します。

なぜなら
決められた経緯が不可視のまま
決めたことの実行を重視するのは

それはそのまま
目的不在の手段拘泥への道だからです。

とにかく決まったからやるんだ。
やってきたからやるんだ。
あの人が言うからやるんだ。

で、やっている人にとっては
やった結果の責任はないのです。
決めた人に責任があると思っているから。

で、決めた人は
みんなで決めたと思っているから
責任があるとは思えないんです。

で、責任不在で目的不在の決定が
まじめな人たちによって
粛々と実行されることになります。

目の前で起きている結果について
多少の疑問が生じても
粛々と実行され続けます。

戦争から会社の倒産まで
組織が責任と目的不在のまま
破局に突き進んでいった例は
いくらでもあります。

私たちは
ダラダラした話し合いを嫌い
サクサクと決まっていくことを好みますが
その話し合いの中で

話し合いのスピードが優先されるあまり
目的が蔑ろにされていないかを
問うことを忘れてはいけないでしょう。

あっちにいったりこっちにいったり
迷走しながらも、いろんな思いが
繋がり重なりあって、結晶としての結論が出る。

それは、とっても非効率で
もしかしたら、話し合っている時間の割には
たいした現実を生み出せないかもしれない。

でも、その話し合いの過程で
ともに考えあった、考え尽くした絆が生まれます。
その絆の広がり、重なりを
軽視してはいけないと思うのです。

サクサク決めよう。
前例通りでいいじゃないか。

という決定を繰り返している組織は
組織としての思考力、判断力を低下させていくでしょう。

あれこれ回り道して
非効率ながら、自分たちの結論を
生み出すことを繰り返す組織は
組織として賢明になっていくでしょう。


決める過程に
効率の物差しを持ち込みすぎないことは
かなり大切だと思います。


2017年12月6日水曜日

少な目の投入で、中の上の成果を



ファシリテーター的な立ち位置では
がんばったら、がんばった分だけ
成果が得られる、というよりも。

がんばったら、がんばった分だけ
空振りしていくような気がします。

ちゃんと計画して
細かく段取りして
気合いを入れまくって
現場に臨んでも

その分、緊張して
場が読めなくなったり
強引に人を動かそうとしてみたり
で、空振りしていく。

場に集った人との温度差が
最初からあるんですから
それはそうなるでしょう。

場に集う人というのは
場を企画する人とくらべれば
さほど高い熱意を持っているわけではありません。
高い人もいれば、低い人もいます。
ならせばボチボチです。

そこに、高い熱意と緻密な段取りで臨めば
それは、やっぱり、空振りします。
ファシリテーターが浮きます。

場の空気を支配するような
カリスマ的な立ち位置を志すのであれば
自分の熱量で場を圧倒すればいいのですが
それは、場の多様性を抑圧してしまいます。

高い熱意を漲らせながら
ボチボチの参加者から多様な意見を引き出すのは
それは、やっぱり、難しいです。

ボチボチの人同士が集うから
ボチボチ話が始まって
だんだん高まっていくのですから。

ですから
ファシリテーターとしては
より少ない投入労力で
中の上くらいの成果を得られればいい。
という程度の思惑で
場に臨みます。

まぁ、なんとかなるんちゃう。
というスタンスです。


がんばると
いいことありません。




2017年12月5日火曜日

作り込みたい欲求が



ワークショップでも
シンポジウムでも
打ち合わせをしていて思うのは
作り込みたがる欲求が
多くの人にとって根深いこと。

テーマ設定が具体的すぎて
筋書きが細かすぎて
誰にどう聞いてもらうか、考えてもらうか
ターゲットの絞り込みが狭すぎて。。。

あらゆる余白を埋めて
安定を生もうとしているのでしょうか。

細かく作り込まれた場に
人の思いは流れ込まないでしょう。
そこで示されるコードに則って振る舞う
受動的な参加者か、
作り込みの外に逃げ出す逃亡者を
生み出していくでしょう。

ここでいうコードとは
企画者があらかじめ考えた
テーマでありあらすじであり
想定されるターゲットであり
考えや語りの進め方です。

コードが場に表出してしまうくらい
作り込まれている場合
安心する人と、窮屈に思う人に
二分していきます。

そして、自前の意見を持っている人は
窮屈に思う人の側に多く見られるでしょう。
その人たちは、自分が歓迎されている場ではないと
判断して、逃亡を企てていくでしょう。

ワークショップやシンポジウムなど
人が集い、意見を交える場では
設定が作り込まれれば作り込まれるほど
企画者側の事前の安心感は増し
当日の参加者の意欲は減退するのだと思います。

事前の安心感を獲得する代わりに
当日の場の密度を捨てるのは
本末転倒です。

大切なのは余白だと思います。
事前の作り込みに
いかに余白を残すか。
当日の参加者が
自分の文脈に応じて
自由に意見を投げ込めるような
広くて深い余白を残すか。

余白とは
大きな問いであり
参加する誰にとっても
我が事のように感じられる響き方を持つ問いです。
特定の人にしか響かない問いは
深いかもしれませんが、狭いものでしょう。

余白になりえる大きな問いは
企画者にとっても問いとして響かねばなりません。
企画者にとっては答えが想定されるような問いは
誘導に他ならないのですから。

作り込みたい欲求とは
自分を綻ばせたくない不安と
通じているように思えます。




2017年12月4日月曜日

綻びる自分を許すために



自分が考えたことが
相手から批判、否定されたりすれば
頑なに自分の意見を守ろうと
するかもしれません。

自分と相手の意見が違っていれば
自分の意見に相手を取り込もうと
するかもしれません。

このような頑なさは、おそらく
自分の意見は、他ならぬこの自分によって
考え出されたものだという
素朴な確信によって
生み出されているように思えます。

僕がこのような
文章を綴っているのは
僕がこのように考えてたからだと
素朴に思いながら綴っているのと同じく。

でも、果たして本当でしょうか。
自分が何を考えるのかの起源、起点は
他ならぬ自分にあるのでしょうか。

何かをゼロから考えることは
できません。

ある状況で
あるモノゴトに触れ
それを何らかに解釈し
その状況と、これまでの自分の経験、知識を
照らし合わせて、最適だと思える考えが
導き出されるでしょう。

起点は、自分だと言えなくもないですが
それは唯一の起点ではありません。
自分が、その状況におらず
別の状況の中にいたら
同じ自分であっても
導き出される考えは
おそらく違ったものになるはずです。

しかも、そこにいる自分は
これまで過ごして来た状況の中で
少しずつパターン化した思考回路を持つ存在です。
したがって、自分という、起点にしたい存在も
もともとは、状況によって生じたものです。

とすれば
自分という存在も
自分の考えも
状況の産物であり
いくらでも他のありようがあり得た
と言えるでしょう。

自分の存在基盤は
確固としたものではなく
たまたま積み重ねられた状況の産物。
その自分がたまたま置かれた状況の中で
導き出したのが自分の考え。

そのような
たまたまの考えに
自分が思うほどの確実性は
ないでしょう。

入口が、「たまたま」なのですから。
もともと基盤が綻びているのですから。

だから、その考えが外部と触れる出口は
綻びて当然なのでしょう。

それを守るのは
考えの成立過程からすれば
「しんどい」ことにならざるを得ないでしょう。

綻びがたまたま縫い合わされ
つむぎ合わされた考えを
不変のもののように捉えるわけですから。

綻びる自分は、自然のあり方。
それを許しながら他者と関わり
綻びつつ、新たに紡ぎ出される自分を
楽しんだ方が「しんどくない」と思ってます。


2017年12月3日日曜日

対話はいかにして展開するか



大袈裟なタイトルつけてますが
なんとなくのイメージです。

議論なら
自分の論が相手の論に
優っていることを如何に示すかに
まず注力するでしょう。

いずれの論にも完璧はありえないので
それぞれの弱点を補い、長所を止揚する
合意点を生み出すことを目指します。

この第2段階は、非常に難しく
止揚よりもむしろ、妥協に落ち着くことが
多いのではないでしょうか。

対話の場合は
そもそも、どっちが優れているかを
決することを目的としておらず
いずれの論にも、変容可能性があることを
認め合った上でないと、まず成り立ちません。

ともに考え、深めたいことがあって
それが問いの形で共有され
対話が始まる時点で考えていることを
出発点として、ともに変容しあうのが
対話ではないでしょうか。

つまり、対話の参加者は
自分自身の考えが、綻びていくことを恐れて
構えを固めてはなりません。

では、綻びながら深まるとは
どういう状態なのか。

まず自分の考えを表明します。
確固たるものではなく、変容可能性に対して
ひらけた考えです。

そこに相手の考えが示されます。
ひらけています。

ともに考えを受けとめあい
自分の考えとの一致点と相違点が
なんであるか、なぜそうなっているのかを
考えていきます。

少し遅れて
一致点が強化されながらも
相違点を受け止め、それをなんとか
自分の考えと並存させようとして
思考を巡らせます。

勝負事ではないので
自分の考えに組み込むのではなくて
自分の考えと並び立つためには
どう考えればいいかを考えます。

すると、より根源的に
考えざるをえなくなります。
ふたつの異なる考えに通底する
上位概念のようなものを想定していくことになります。

それがまた、表明され
受け止めあい、一致と違いとその理由が
考えられ、さらに上位概念を想定しようと模索します。

このような絶えざる営みによって
対話は深まりながら展開していく。
僕は、そう思っています。

自分の考えと違う考えを
栄養として取り込むことによって
自分の考えが深く成長する。
互いにとって取り込みあい、成長しあう場。
それが対話だと思います。

取り込むためには
自分の考えの構えを解き
綻びていくことを受け入れねばなりません。




2017年12月2日土曜日

静かな変革



現状の問題点がわかって
その解決策を思いついたとしても
それを即実行に移せば
現状との間に摩擦が生じます。

その摩擦は
現状維持派と変革派では
目的が異なっているため
衝突へと進んでしまうかもしれません。

いや、本当は
維持派であろうと変革派であろうと
大きな目的は、深いところで
通じているはずなのですが
表面的には対立するでしょう。

対立に勝利して
変革を成し遂げるのも
ひとつの道ですが

それは、遠くない将来
新たな変革派によって覆される
絶えざる闘争の幕開けになるかもしれません。

維持と変革の対立を
先鋭化するのではなく

現状に起きていることの意味を
深く考え対話する場を創ることで
変革への道を開くことができると思っています。

維持なのか変革なのかではなく
これまで何が起きてきたのか
今、何が起きているのか
これから、何が起きようとしているのかを
立場を超えて深く対話する場です。

そこから
生まれる変革の萌芽を待ち
大切に育てていく。

対立の先の変革ではなく
深い対話の先の変革。

そのような道を
模索しています。



2017年12月1日金曜日

関係と目的と



組織のリーダーをしてみると
多様な人たちの間に生じる
摩擦、軋轢、衝突を目の当たりにします。

人はそれぞれ多様な経験と価値観を持ち
だからこそ、相性みたいなものがあります。

僕はもともと、人間関係に臆病な性格だったので
そういう摩擦、軋轢、衝突を避けようとしてました。

でも、リーダーとなれば
そういうわけにもいかず。
あれこれ振り回されながらも
当事者として向き合い続けてきました。

今、思うのは
多様な個性の間に生じる
人間関係のあれこれは
目的を共有している限り
恐るに足らないということです。

目的を互いに
がっちり共有していれば
その上での衝突ならば
いずれ創造的な結末を迎えます。

やっかいなのは
目的がバラバラだったり
希薄だったりの組織で起きる
人間関係のあれこれです。

そういうところに
リーダーとして関わると
本当に振り回されるだけで終わりがちです。

善意を基盤につながる組織には
そういうことが多いような気がします。
むしろ営利という明確な目的があった方が
建設的な衝突ができますから。

人間ですから
人間関係のあれこれを凝視してしまって
そこから考えてしまいがちですが

僕は、人間関係のあれこれには
フォーカスをぼかして、振り回されず
目的のもとに人と人を結びつけることに
全力を注ぎたいと思うようになりました。

目の前でおきているやっかいなことは
うっすらと見るにとどめて
その根底にある目的のあいまいさを
目的のクリアさに変えていくこと。

目的がクリアになり
さらに、目的を語る人に
十分な受け入れ態勢があれば
目的をめぐって建設的な人間関係のあれこれが
生じると思うのです。

目的をクリアにして
それを人に押し付けるならば
それは絶対主義みたいになりますが。

目的をクリアに語りつつ
あらゆる意見をゆったり受け入れるリーダーでありたい
と思っています。

そういう立場になることが
多い年頃のなので。