2017年11月30日木曜日

後手は先手でもある



ファシリテーターとして
まず、場に対して受け身であろうと
しています。

機先を制して
何かを仕掛けていくのではなく
場に漂うものを吸い込み、感じ取り
それが自分の中に通った末に
吐き出されてくる展開、言葉を大切にします。

その言葉は、さほど明瞭な意味を宿さず
滑舌こそクリアにしようと努めていますが
曖昧なことを口にすることが多いです。

その明瞭に語られる曖昧さは
場に空白を生みます。

「うん?なんだそれは?」
「この話はどこへいくんだ?」

というみんなの意識が
空白に流れ込んできます。
場に変化が生じます。

それを汲み取って
また新たな展開が
自分の中に生じるのを待ちます。

ここでは
僕の言葉が生み出した場の空白が
場を揺らがせ、変化を生み出す誘因として
作用しています。

もともと
僕は場に対して
意図的に後手に回っていたのですが

そうであるがゆえに
後手から繰り出された言葉が
次の展開の先手として作用します。

機先を制しようとすると
力みが生まれ、場を硬くします。

後手でいいと、ゆったり構えていれば
場は緩み、いろんな表情を見せてくれます。
それを汲み取ってからの後手は
流れる時間の中では
先手でもあるというわけです。

後手が
場に空白を生み出し
みんなの意識をそこに集め
変化が生まれる。

そういう意味で、後手は先手でもあります。
逆に、力んだ先手は
手遅れな後手として作用するでしょう。


2017年11月29日水曜日

本質直観



フッサールが何を言ったかは
ここでは、置くとして。

あれこれ細かいことに気を取られがちなので
細部への眼差しを放擲して

要するに、それは
何なのか。

この状況が究極的に意味することは
何なのか。

を考えるようにしています。

人間関係の機微や
諸事情によって
複雑な現実が生まれるのですが
細かいことに、いちいち関心を向けていたのでは
本当に大切なことを素通りしてしまいます。

または、大切なことがあるとわかりつつも
そこにたどり着けないまま
いたずらに時間が過ぎていきます。



認知すること
考えること
判断することを
減らして

焦点を絞り込んで考え、判断します。

あ、ファシリテーションしている場面でのことです。
あれこれ、いやむしろ、膨大なことを
感じ取ってはいるのですが

感じ取りつつ
受け流していきます。

何も感じていないわけではないです。
膨大に感じ取りつつ、わかった上で
それに、振り回されないようにします。

何もわからずにする判断は、蛮勇ですが
わかった上で、焦げるように絞り込んで
焦点を生み出せば、ファシリテーションになります。

あらゆるものを感じ取りつつ
そのほとんどを捨て去って
それでも残る本質に焦点を当てる。
まっすぐに直観する。


そうありたいと
思っています。


2017年11月28日火曜日

実績と自信とコントロール欲求



何かをやりとげると
実績と自信が増します。

そしておそらく
どんな力に支えられて
それを成し遂げたのかに対して
視界が狭くなるでしょう。

自分で、自力で
やりとげたかのような
錯覚にとらわれるのだと思います。

それをやりとげる前は
いろんな人にお願いし、任せ
ちょっとした結果に感謝していたはずなのに。

実績と自信が増し
視界が狭くなった先に
コントロール欲求が増すでしょう。

色んなことを
自分で決めたくなって
自分で動かしたくなって
いつの間にか、まわりの人たちに
窮屈な思いをさせていくでしょう。

そしてだんだんと
まわりの人たちの力が集まらなくなり
強引にモノゴトを進めるしかなくなるでしょう。

始めは、その善政で歓迎された為政者が
いつの間にか独裁者になっていくのは
そういう道のりなのではないかと想像します。


実績と自信が増してきた時
同時にコントロール欲求が増していないか
厳しく自制したいと思っています。

人に委ね、感謝してこそ
チームは個人の力の単純合計以上の
力を発揮するはずですから。



2017年11月27日月曜日

意味を求めすぎないように



気づくと、いつの間にか
身の回りが、意味のあること
経緯がわかること、当たり前に思えること
それは仕方ないんだろうなと思えることで
満ちてきてしまいます。

生産的で効率的だったり
前例踏襲的で墨守的だったり。

それとは逆の
なんだかわからないもの
突拍子も無いもの
バカバカしいもの
何を狙ってるんだか戸惑うものが
身の回りから消えてしまいます。

身の回りのあらゆる物事の
意味がわかったら、意味が定まったら
もはや現実は、物体のようになって
生命の息吹を失うように思います。

わからず、移ろい、戸惑い
意味不明なのに、なぜかずっとある
どこに展開していくのか
全然、読めない。

そんな存在が
身の回りにあるのが
自然なことだと思うんです。

でも、現代の合理的な価値観は
あらゆるものに、きちんとした
生産的で効率的で論理的な意味を
固定しようと迫ってきます。

その反動でしょうか。
衝動的、痙攣的、瞬間的に
現実を破壊する、反転させる
ギャグや、ゲームや、ネット社会のあれこれが
膨大に生まれては消えていきます。
または、時に、そういう刺激が
人の心を蝕みます。

意味の窮屈さから
もっと、晴れやかに逃げ出す
何かが必要なのだと思います。

俯いてスマホをいじるのではなく
徹夜でゲームをするのでもなく
酒でドンチャン騒ぎをするのでもなく
グチグチするのでもなく

例えるなら、リオのカーニバルのような
みんなで、日常の意味の彼岸に
一時的に飛び込んでいくようなコトが
意味ある日常を生きるためにも
必要なんだと思います。

そんなお祭り騒ぎでなくても
日常の意味を、ともに
ずらし、ゆさぶり、反転させる
遊びに満ちた時間、コトが
必要なんだと感じます。

あまりにも
意味あることが多すぎて
あまりにも
うまくやる方法が多すぎて

意味があるんだかないんだかわからず
どうするのが上手いことなのかもわからない
でも、なんとなくやりたくなって
やってみて、やりつづけてみる。

うまく言えませんが
そういうコト、そういう場を
生み出していきたいと

今、ファシリテーターとして
ひとりの地域人として
考えています。




2017年11月26日日曜日

今、これからの暮らし方


たいそうなタイトルをつけておいて
答えがわかってるわけじゃないです。

自分の身の回りの状況が
じわじわ変わり始めてるのを
実感するようになって。

「未来の年表(河合雅司著 岩波書店)など
未来予測系の本を読むにつけ

見えること、感じること
考えさせられることが増えてきたので
自分にまっすぐに問いを向けることが
必要だと、真剣に思うようになりました。

日々のあれこれにかまけて
問いに向きあうことを
やりすごしてきたところがありましたから。


僕が住んでいるところは
市内では唯一、いまだに人口増加を
続けている地区です。

が、だからといって
安泰というわけではもちろんなく。

地域を支える
町内会、子供会、壮年会、女性会、PTAなど
各種団体の担い手は
高齢化したり、特定の人に偏ったり。

人口が増加しているといっても
子供の数が減って、子供会活動が
成り立ちがたい町内もあります。
いずれ、そういう町内は増えていくでしょう。

見守りが必要なのは
子供だけでなく、高齢者もです。

地域のために
みんなの力を少しずつ
集めないといけないのですが

青年、壮年世代の働き方は多様化していて
家庭、地域、町内で過ごす時間は、必ずしも多くなく

地域を支える活動に時間を割くことは
誰にとっても難しく
負担を感じるものになっています。


多様な人たちが
少しずつ貢献し、役割を果たし
もちろん、その過程で充足感も得られるような
地域のあり方を探していかなければ
ならないと思っています。

いくつか、地域の役割を果たしてきて
今、見えている方向性は3つあります。

ひとつ。
より多くの人が賑やかに参加できる
大イベントに類するものを始めること。

これは、大変ですが
ひとつの起爆剤にはなります。
僕の経験でも、実際、そうなりました。

ふたつ。
分散的に、いろんな楽しみ方が
いろんな場所で開催され
その活動が表に開かれ
互いにうっすら見える状態を作ること。

一挙に何かをやるのは大変ですが
それぞれが、それぞれに楽しんで
互いに刺激をもらうイメージです。

これは、企画者、実現者の
プレイヤーの数がある程度いないと
なかなか起きない状況かもしれません。

いろんな人が活躍できる
多様な場を準備して
後はお任せする、ということは
やってみたことがあります。
うまくいきました。

みっつ。
そもそも、我が地域で
何がどう変化していっているのか
多様なメンバーで
真正面から、ゆったり深く
語り合う場を作ること。
語り合いながら関係の網の目を増やすこと。

これが、今やりたいことです。
地域社会には、たくさんの会議があります。
ですが、どれも、ちょっと窮屈で形式的です。
本質的な対話というより
手続きを積み上げている部分が多いです。

他に話し合う場というと飲み会がありますが
発散的に話しますし
話す相手が固定化するので
地域の関係性が広がりにくく見えます。


地域の課題や希望を、多様なメンバーで
ゆったり、深く対話しながら
関係を網の目を増やし、広げ
そこから、新たな何かが生まれる
孵卵する場がつくれればと思っています。


どれも、あたりまえで
代わり映えのしない方向性なんですが
真正面から考え、取り組むことが
大切だと思っています。

2017年11月25日土曜日

綻びるから、力が生まれる

ファシリテーションと誘導は違うのですが
誘導したくなる誘惑
想定した結末に持って行きたくなる誘惑は
抗い難く、隙あらば頭をもたげます。


想定を持たずに、丸腰手ぶらで
ということもありますが
場をファシリテートしていく中で
「あぁ、これは、こんな感じで展開して
 こういう結末を迎えそうだなぁ」という
場の展開に対する「読み」が生まれます。
場数を踏めば踏むほど、どうしてもそうなります。


で、ここで、読み通りに進めたくなる誘惑が
頭をもたげるわけです。

もし、誘惑に負けると
ファシリテーターは、とたんに
コントローラーへと転落します。
自分の筋書き通りに
場をコントロールしてくわけです。

参加者は、窮屈に思ったり
優しい参加者だと「ちゃんちゃん」という
予定調和な終わり方を、にこやかに
受け入れてくださったりします。


これじゃ、ダメなわけです。
何のためのファシリテーターなんだか
わからない、いる意味がないわけです。


じゃぁ、どうしたら
その誘惑に勝てるのか、と考えると

「誘惑に勝って、場に身を委ね、想定外が
起きた方が、誰にとっても得である」
という確信が持てればいいわけです。
不安だから誘惑に負けるわけですから。


で、想定や読みに従って進行するよりも
場に身を委ねて想定外が起きた方が
得になるのは、なぜか、ということです。


ひとことで言うと
その場に、どれだけの展開力が生まれるかは
どれだけ綻びるかにかかっている
ということです。

綻びるとは
ファシリテーターの想定や読みとは
違うことが起きること、です。

ファシリテーターの想定に反して
場が綻びると、空白が生まれます。

それまでは、ファシリテーションによってか
場の空気によってか、その両方によってか
ともかく、場に流れが生まれていたのに
唐突に綻びて、「何だこの時間は」という
空白の時間が生まれます。

しかし、空白が空白のままあり続けることはなくて
そこに何かが流れ込みます。
その流れ込みが、新たな展開を生みます。

もし、ファシリテーターが
想定通りに進めようとするならば
空白は生まれず、予定調和な結末に向かいます。

場を展開するのが
ファシリテーターの自力のみに
かかってしまいます。

一方で
想定が裏切られることを恐れず
想定しつつも場の展開に身を委ねていると
場が綻び、空白が生まれ、そこに何かが流れ込み
場そのものに展開力が宿ります。

この展開力は
ファシリテーターの器を超えたもので
ファシリテーターは、自力を超えた場が
生まれる瞬間に立ち会えるわけです。


空白を恐れず
空白に何かが流れ込むのを待つ。
自ら空白を埋めたくなる欲求を堪え
流れ込んできた力にうまく寄り添う。


いわく言いがたい感覚を
あえて言葉にすると
いまのところ、こんな感じになります。



2017年11月24日金曜日

定まらない自分、定めない自分

個性とか主体性を大切にとか
伸ばすようにって、よく聞きます。

ぱっと聞いた感じだと
とってもいいことを言ってる
ように聞こえるんですけど

実際に
個性や主体性を
発揮しようとすると
なんだか、窮屈な言葉に
響いたりします。

どういうことかというと。

個性を発揮しよう、と思った瞬間に
多様な個性カタログから
ひとつを選び出したり
仲間内にいないキャラに
あえてなってみたり

そこには
主体性というよりも
いつのまにか、「やらされている」
受動性のようなものが生まてきます。

個性や主体性というのは
結果として発揮されてしまうものであって
狙って発揮するものではないと思います。

個性や主体性という概念の根底には
揺るぎなき自己、確固として自立した自己
のようなものがあります。

自分は自分と頑固になってみたり
自分探しといって彷徨ってみたり。

いずれにせよ
自分という不動点を確立することが
誰にとっても望ましいことだという
社会的な信憑があるようです。

しかし実際には
近代的自己、とも言われるように
「自分、自己」といった概念の歴史は
人類史の中では、あまりに短く浅いものです。

本来、定まるはずのないもの、移ろいゆくものを
ひとつの自立した存在として固定化しようとしたのが
「自分、自己」概念だと思えてきます。

自分を定めると
その枠外の存在、異質なる存在が
怖くなります。厭わしく思えます。
だから摩擦が生じます。

自分を移ろいゆくもの、定まらないものとして
受け入れると、ある自分は、その瞬間の自分に過ぎず
その瞬間に異質に思えるものとも
手を握りやすくなり、対話が生まれやすくなり
摩擦を超えて、綜合、融和、創造が生まれると思います。

ファシリテーションにおいて
「自分」とか「個人」というものの成り立ちに
どのような眼差しを向けるかは
スキル以前に、根底的な影響を持つと思います。


2017年11月23日木曜日

長距離、はじめてます

大学の陸上部では
400m選手でした。

卒業後、10年ほどは
ジョギング程度しかしてませんでした。

30代前半に
マスターズ陸上で
また400mを走るようになりました。
38歳の時には、県記録を出しました。
今は、もう、破られていますが。

怪我をしたり
忙しかったり
人生のあれこれがあったりで
徐々にパフォーマンスが落ちていき
思うように走れないなぁと思っていた近頃

なぜだか長距離を始めました。
マラソン大会だって、3キロの部に出るのが
せいぜいだったのに

2年続けて10キロの部に出場。
43分程度で、記録はまだまだですが
もしかして、長距離って、面白いんじゃないの。
と思うようになってます。

400mだって
「よくそんなことやってるねぇ」と
半ばあきれるように見られてましたが

そんな僕から見ても
長距離を走るというのは
「なんで、そんな延々と走るの?」
と思ってました。

なのに、なんだか
最近、じわじわ、長距離が面白いです。

体の状態が
走りながら、少しずつ変わっていくのを
感じて、走り方を調節してみたり

一定のリズムを刻むように
集中してみたり

突然、体が軽くなって
前に進む瞬間がやってきて、驚いたり。
そんな瞬間は、あんまり続きませんが。

状態の変化を受け入れながら
少しずつ何かを変えて、状態を維持を試みる。
または、少しずつスピードを上げながらも
疲れない走り方を模索する。

短距離やってた時にはない
味わい深さを感じています。

ひとりで
ハーフマラソンも走ってみました。
1週間で2回も。

タイムは全然ですけれど
新しい世界が開けていくような
ワクワク感があります。

46歳になっても
まだまだ、世界は開けるんだと
こんなことからも、感じられて嬉しいです。

それと
今までと違う世界が見えてくるってことは
もともとその世界にいる人のことが
少しだけ深く、わかるようになるってこと
なんだろうと思います。

ひらけること。
わかること。
よろこび。

2017年11月22日水曜日

妄想劇場

大学の授業で
演劇を取り入れ始めています。

企画開発の授業なのですが
演劇を作り、稽古し、披露するプロセスに
新しいモノゴトをともに生み出すという
企画開発の基本要素のほとんどが
含まれていると思うからです。

演劇を作るといっても
大まかな設定と筋書きだけがあって
あとは即興で埋めていくものです。

設定と筋書きは
大きな方向性(コンセプト)が
求められますし

それを話しあって生み出す
合意形成力が養われます。

ラフに決めたら
体を動かしながら形にして
少しずつ具体性を持たせていく。
これは、デザイン思考で言うところの
プロトタイピングです。

ここまでを
一挙に思い切りよくやり遂げ
それを繰り返しながら磨いていく。
ラフコンセンサスからの
プロトタイピングからの
高速失敗、高速学習です。


相手の反応と
そこまでの流れの俯瞰から
瞬時に自分の反応を決めていく
即興力も磨かれます。

それと
自分ではない誰かになって
その人の身体と心で、架空の今ここを
生きることになりますので
現実に対する多様な眼差しを感得できます。


。。。という見通しのもとに
始めた試みです。


密かに
妄想劇場と
名付けました。


多様な妄想をつないで重ねて
みんなの妄想に紡ぎだす力は
演劇を超えて、
現実を動かす力に直結するはずです。


即興劇(インプロビゼーション)や
プレイバックシアターについて
もっと深く研究して

この実践を
ファシリテーター養成に
つなげていくことを考えています。


ファシリテーター妄想講座
と名付けます。


2017年11月21日火曜日

即興筋

腕立て伏せを繰り返せば
大胸筋や三角筋が強く太くなるのと
同じように

日頃のコミュニケーションにおいても
繰り返すこと、圧力をかけることで
高められる能力があります。

なかでも
重要であるにもかかわらず
鍛錬される機会が少ないのが
瞬時の判断で言葉や行為を繰り出す
即興能力、いわば即興筋です。

ファシリテーターは
注目を集める場所に身を晒し
その場で生じる言葉、あるいは状況に対して
瞬時に判断し、展開していくことが
求められるので、即興筋は生命線になります。

これを鍛えるためには
ある程度の準備を終えたら
手ぶら丸腰で、場に身を投げ出して
状況を受け止め、即興的に動く経験を
繰り返すしかありません。

というわけで
即興筋を鍛えることは大切です。

なのに
多くの人が、人前に立つ時に
周到に準備して、細心の注意を払って
準備した通り、その再現に
全力を注ごうとしているように見えます。

もしかして
その結果、安定した、綻びのない状況が
生まれるかも知れませんが、それは予定調和です。
準備、想定した通りに
状況を仕立てたに過ぎません。

ですから
ほどほどの安定感、無難な状況しか生まれないでしょう。
エキサイティングな触発も
想定外のヒラメキも生まれにくいはずです。

そして、そのような場を繰り返しながら
私たちは、即興筋を鍛える機会を
失い続けるのです。

機会が失われるだけでなく
即興筋に刺激が入らないのですから
本当の筋肉と同じく、弱体化していくでしょう。

弱り切った即興筋に
急に刺激を入れると
本当の筋肉と同じく、激しく萎縮し
動けなくなります。痛みを伴って。

で、こんなこと、もう、怖くてできない。
と思うようになるかも知れません。


だから
何でもかんでも
しっかり準備して臨んで
無難な結果を積み重ねるのではなしに

日頃から
ちょっとした場面で
手ぶら丸腰で場に身を投げ出し
即興に身を委ねることを
積み重ねていった方がいいと思ってます。

できれば
注目を集める場面で。


というわけで
この10年、僕は、あらゆるスピーチで
原稿を持ったことがありません。

スベったことは
多々あります。

鍛錬ですから。


2017年11月20日月曜日

しんどいときは、ぼちぼちで

すぐ手を抜くし
気合いは入ってないし
まぁ、なんとなくでいいんちゃう
とか考えるタイプだと自己評価してますが。

自分の中に巣食う
根深いガンバリズムを感じます。

特に何かがうまくいった時
次からは、ずっとそのレベルでいたい。
いなければならない。
と思って、頑張ってしまいます。
まぁ、僕の頑張りなんて知れてますが。

でも、自分のコンディションにかかわらず
一定以上のパフォーマンスを発揮しようと
どこかで思っています。

それは、プロとして
必要なことのようにも思えますが。
大事なことを見逃しているように思います。

頑張ることによって
何が今の自分のコンディションを
低下させているのか
なぜ、今、やる気がイマイチなのか
考えずに、闇雲に頑張ってしまう。

まぁ、僕の頑張りなんて知れていて
すぐ手を抜くわけですが。

自分のコンディションの低空飛行に
寄り添って、じわじわあげていくことを
経験していることが

場のコンディションに寄り添って
じわじわあげていく
ファシリテーターの力量に
繋がっていくと思います。

とにかく頑張って突破する。
という考え方は
こと、ファシリテーターに関する限り
場に対してもガンバリズムを要求したり
頑張って場に向き合う暑苦しさにつながったり
するんじゃないかと思います。

人は、いつでも頑張るなんてできない。
だからまず、自分の頑張れなさに寄り添って
ぼちぼち歩む。

そんなこと
考えてます。

2017年11月19日日曜日

ファシリテーターの身体性

「体が軽やかじゃなかったら
 心が軽やかにならないから」

僕の目の前に座ったその人は
穏やかな口調で、そう語りました。

見た目は50歳くらいにしか見えない65歳。
様々なアウトドア活動に熱中し
絵を描き、文章を認め
「寝るのがもったいない」
「止まったら死ぬんです」
というエネルギッシュな生活をしています。

もう10年以上のおつきあいになりますが
会うたびに、発するエネルギーに魅了されます。


今回、驚いたのは
冒頭のセリフを、僕も最近、
誰かに語っていたこと。


いつの間にか影響を受けていたのでしょうか。
それとも、僕にも、もともとそういう
志向性があったのでしょうか。

おそらく両方でしょう。
そういう志向性を持っていたから
その人に魅了され、そのありように
影響を受けてきたのだと思います。


僕は、ファシリテーターとして
体のありよう、身体性、身体感覚といったものを
ことのほか大切にしています。

しなやかであること。
軸がまっすぐ通っていること。
俊敏に反応できること。
ダイナミックに、繊細に動けること。
鎮まること。


このような身体性を目指し
日々、運動をしています。

走るのが好きで
ずっと走っているのですが
走ることとファシリテーションすることは
僕の中で密接につながっています。

整った、しなやかな身体を場に対して開く時
場は様々な姿を僕に見せてくれます。
僕の身体はそれを受け止め
僕の心から何かが引き出され
ファシリテーターの言葉や行為として
表出していきます。


久しぶりにその方にお会いして
刺激を受けた僕は
雨とあられが降る中
河川敷を走り

ひとりハーフマラソン大会を
決行しました。

こんな思いつきの行動でも
やりとげると、体は充足し
心にささやかな自信が生まれます。

こんな日を
積み重ねていきたいと思ってます。

2017年11月18日土曜日

環境と人が相互に創発する

新しい学び方、働き方が
知識基盤社会の到来とともに
求められるようになっています。

正確に効率的に正解にたどり着くのではなく
革新的な成果を創発から生み出すことを目指した
学び方、働き方です。

それにあわせて
新しいタイプの教室、オフィスが
生まれています。

オープンで、フレキシブル。
歩き回れる動線。
くつろげる場所。
集中する場所。
意見を交える場所。

多様な空間が混在する魅力的な建築。

そのような建築の中に
我が身を置く機会をいくつか持ちました。



確かに、違います。


ここにいれば
高揚する。

ここで話しあえば
思いつく。

ここでは
動きたくなる。



建築が、環境が
人の内面に大きな影響を与え得ることを
確かに、実感します。


そんな実感を持つ時、
ワークショップをデザインする者として
どんな空間に参加者を招き入れるかが、
いかに重要かを思わされます。



環境によって
人に創発が生まれる一方で

人の眼差し、行為によって
環境に新たな意味や形が与えられることがあります。
人が環境を創発するとでもいいましょうか。


すぐれた学校建築、オフィス建築が
すぐれたものであればあるほど
その姿、空間構成、をそのままにとどめることはなく
次第に変容していくのではないでしょうか。


なぜなら
その建築がすぐれているということは
創発が生まれるということであり
創発に満ちた人たちは
自分たちの環境を、自ら再構成し
変革していこうと考えるだろうからです。


僕が企画するワークショップも
ある種の建築であり、環境です。
意図を持ってプロセスをデザインし
望ましい環境を準備します。

すぐれたワークショップであるならば
その展開と結末は、企画者である自分の意図や想定の
中に収まるものにはならない
と言えるかもしれません。

もちろん
企画が浅く、稚拙な場合も
意図や想定の中に収まらない展開や結末が
生まれてしまうわけですから

すぐれたワークショップは
企画者を良い意味で驚かすような展開、結末が
生まれると言うべきでしょう。



企図しつつ
裏切られることを喜び
そこから展開する。

ファシリテーターとしては
常に想定外に晒されることが
必要なようです。





2017年11月17日金曜日

消費者的時間が多すぎるから

学びの現場に向きあう時
気になるようになってきたのは
消費者的な姿勢が
教える側にも学ぶ側にも
染み込んでいるように見えることです。

教えるものと教えられるもの
授けるものと受け取るもの
という分類が、そもそも
消費概念に近接しているようにも見えます。

どういうことかというと

学びたい人が
お金と時間を、ある人、機関に差し出し
その見返りとして、望む学びを得る

というのは
一見、まっとうに見えますが
学びのあり方としては
ずいぶん、表層的です。

これは、学びというより買い物です。
学びを消費対象とした
商取引のようなものです。

しかし
学びとは
ある機会に対して
何かを希求して能動的に参加し
失敗や、克服や、工夫や、反復や
戸惑いや、停滞や
様々な体験を通じて獲得されるものであって
言うなれば、学びは機械と意欲の関数だと思うのです。

いくらお金と時間を差し出しても
即座に学びが得られるわけではない。
得られるのは機会だけです。

私たちの日常は
消費者的に過ごす時間が
あまりに多過ぎて
能動的に参加して、自ら掴む
という学びの経路が迂遠に
思えてしまうのではないでしょうか。

現在の消費場面は
即座に、お得に、コストパフォーマンスが良い物を
いかに提供するか、獲得するかの激烈な競争です。

回りくどいものよりは
わかりやすく、即効性のあるもの。
お手軽で、安いもの。

どれもこれもが
私たちを、口を開けて待ってる
お客さんに仕立てていくようです。

そのように消費者的存在であることに馴染んでしまった時
残念ながら、私たちは、本質的な学びの体験から
遠ざかってしまうのではないでしょうか。

受け身の消費者的学び手ではなく
機会を生かして創造者的に、少なくとも生産者的に学ぶ
学び手でありたいと、思っています。

2017年11月16日木曜日

確立を目指しつつ綻びる

教師を目指す学生たちと
ファシリテーションについて
対話しました。

彼らは、おそらく
ファシリテーションについての
疑問や戸惑いや迷いを持ち
その解決、解消を願いながら
僕の語りに耳を傾けてくれたのだと思います。

その真剣さに敬意を抱きながら
僕は、自分の語りが答えのように響くことを
恐れていました。

ファシリテーションとは
かくあるものである。

という答えを定めたい欲求は
それを志す人なら
誰しもいだくものだとは思います。

でも、それが定まった、と思った時
その人のファシリテーションは
こわばりを持ってしまうのだとも思います。

ファシリテーションが
多様な人から思いを引き出し得るのは
物事の意味がひとつには定まらず
つねに移ろいゆく可能性を持っているのだという
意味の変容可能性をファシリテーターが
持っているが故だと思います。

であるならば
ファシリテーター自身が
自分のファシリテーションを
ひとつの在りように定める欲求の前に
無力であるならば

つまり
ファシリテーションとは
かくかくしかじかであると、信じてしまうならば
ファシリテーション以外の、あらゆる物事についても
意味を定めたい欲求に抗えないでしょう。

僕が、自分の語りが答えのように響くのを恐れたのは
そういう理由からです。

その後の彼らの様子を見ていて
自分恐れが老婆心に過ぎなかったことがわかり
彼らのたくましさを感じました。

僕の語りをきっかけとして
自分なりのファシリテーションを
探そうという歩みへと彼らは踏み出していました。

そんな彼らの背中を押すように
最後の言葉を語りました。

僕は自分のファシリテーションを
磨き、確立したいといつも思っています。

でも一方で、つねに、自分のファシリテーションを
破壊しようとも思っています。

確立してしまったら
その人のファシリテーションは
場を固くするのではないかと思います。

確立している人だと思われたら
その人は権威を持ってしまうのではないかと思います。
権威が場を固くすることを恐れます。

だから、みなさんも
自分のファシリテーションの確立を目指しつつ
綻んでいる存在であってください。
その綻び、隙間にこそ
対話が生まれると思います。




何を語ろうか、どう語ろうか
何も考えずに臨んでいたのですが
彼らと向きあう中で
僕のファシリテーション観が
言葉に紡がれたように感じました。

この言葉を紡いだのは
僕であり、彼らであり
僕と彼らの関係だったのでしょう。

僕は
ファシリテーションを語りながら
彼らとの関係によって
ファシリテートされていたように思い返されます。

ファシリテーターとは
ひとりの存在でしょうか。

もしかしたら
人と人の間に生まれる
関係性のことのようにも思えます。

今日の対話のファシリテーターは
少なくとも、僕という個人存在では
なかったようです。




2017年11月15日水曜日

はじめるから、はじまる。

久しぶりに
ブログを書き始めてみます。

ファシリテーターとして
活動をはじめて10年がたち
その間、ブログを書いていた時期もありました。
特に初期は、こまめに書いていたのですが

その後
書こうと思い立って
しばらくは続けるのですが
いつの間にやら、遠ざかることを
何度か繰り返してきました。

Facebookは
週に1度くらいは投稿してるのと比べると
ブログの続かなさときたら。。。

もともと
何事も、続けるのが苦手な性分ですが。

Facebookとブログの違いは
言葉の届け先が、思い浮かびやすいか否か。
お友達に向かって、日々の戯言を書いている感覚が
Facebookにはあります。

ブログは、はてさて
誰に向かって届ければいいのか。
という戸惑いが、いつの間にやら
ブログから遠ざかる原因になっているようにも
思えます。

ファシリテーターとして
活動を始めて10年がたち
あれやこれやと経験してきたうちに
今、なんだか、ふっと心が軽くなってきたように
感じます。

なぜだか
わかりません。

どこに届くかわからない言葉でも
紡ぎはじめることができそうな感じなので
はじめてみます。

はじめるから、はじまる。
起きることに、寄り添って
どこにいくかわからない文脈を
ファシリテーターとしての思考と実践を
書き綴ります。

立ち止まり
ふりかえり
言葉をさがし
紡いでいきます。

いつの間にか
道ができればいいなと思います。