2017年11月17日金曜日

消費者的時間が多すぎるから

学びの現場に向きあう時
気になるようになってきたのは
消費者的な姿勢が
教える側にも学ぶ側にも
染み込んでいるように見えることです。

教えるものと教えられるもの
授けるものと受け取るもの
という分類が、そもそも
消費概念に近接しているようにも見えます。

どういうことかというと

学びたい人が
お金と時間を、ある人、機関に差し出し
その見返りとして、望む学びを得る

というのは
一見、まっとうに見えますが
学びのあり方としては
ずいぶん、表層的です。

これは、学びというより買い物です。
学びを消費対象とした
商取引のようなものです。

しかし
学びとは
ある機会に対して
何かを希求して能動的に参加し
失敗や、克服や、工夫や、反復や
戸惑いや、停滞や
様々な体験を通じて獲得されるものであって
言うなれば、学びは機械と意欲の関数だと思うのです。

いくらお金と時間を差し出しても
即座に学びが得られるわけではない。
得られるのは機会だけです。

私たちの日常は
消費者的に過ごす時間が
あまりに多過ぎて
能動的に参加して、自ら掴む
という学びの経路が迂遠に
思えてしまうのではないでしょうか。

現在の消費場面は
即座に、お得に、コストパフォーマンスが良い物を
いかに提供するか、獲得するかの激烈な競争です。

回りくどいものよりは
わかりやすく、即効性のあるもの。
お手軽で、安いもの。

どれもこれもが
私たちを、口を開けて待ってる
お客さんに仕立てていくようです。

そのように消費者的存在であることに馴染んでしまった時
残念ながら、私たちは、本質的な学びの体験から
遠ざかってしまうのではないでしょうか。

受け身の消費者的学び手ではなく
機会を生かして創造者的に、少なくとも生産者的に学ぶ
学び手でありたいと、思っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿