2025年12月31日水曜日

何かが生まれる前の時間


 3年半ぶりにこのブログを開きました。書いていた頃の心身のモードがどんなものだったのか、思い出せません。ログインして、記事を書こうとして、「うん?何を書けばいいのだろう?」と戸惑い、じーっと画面を見つめていました。何かが生まれる瞬間は、もう少し先なのかもしれません。とりあえず、ここに戻ってきましたが、心身が馴染むまでは時間が必要なようです。新年が明けたら、あらためて、言葉が浮かんでくるのを待ってみようと思います。



2022年6月14日火曜日

今日の昼食の味わいを決めたのは。

遠く高くを目指して行われる営みは説得力や求心力を持つのだと
手間暇かけて作られた天ぷらそばを食べながら思いました。

地味でしたが、とても清潔で落ち着いた雰囲気のお店でした。
新聞や雑誌が置いてあって、写真が飾ってあって
片付け前の食器がカウンターに仮置きされていて
という、どこにでもあるような光景が、なぜかとても落ち着いて見えました。

店主は、最小限のことしか話さないような接客でした。
メニューの選択肢はとても少なく、そっけない表記でした。

さほどお客さんがいるわけではありませんでしたが
僕の注文した蕎麦が出てくるまで、ずいぶんと待ちました。
お腹が空いていたはずなのに、待っている時間がちっとも苦痛ではありませんでした。
カウンターの向こうで蕎麦を作っている様子がチラチラ目に入るのですが
店主の調理する姿が、心が鎮まった熟練の職人のように見えました。
その姿を目にして待っていると、心が整ってくるように思えました。

ついに運ばれてきた蕎麦は、見た目も、味も、抜群でした。
手間暇かけて作られた蕎麦を、手間暇かけて(僕はもともと、非常に早食いです)
じっくり味わいながらいただきました。

この蕎麦を作る店主の目指しているところ、心がけているところが
チェーン展開している店では、そう易々と真似できない高みにあることが
すぐにわかりました。

どんな仕事でも、遠く高くを目指して営むこと
それこそが一番大事なんだと、感じさせてくれたお昼のひと時でした。



2022年6月13日月曜日

少数派に見えて実は。

 まわりを見渡すと、自分の意見が少数派であることになんとなく気づき

意見を表明しずらいような気持ちになることがあります。

あえて少数派であることを露見させて好奇の(または嫌悪の)目を集めるよりは

黙って状況の推移を見守ろうという判断になりがちです。


これは何も、僕に限ったことではなく、

多くの人に見られがちな心の動きではないでしょうか。

つまり、状況を見て、自分の意見を表明することを踏みとどまっている人は

実は結構、多いのではないか、ということです。


直接の話しあいにおける合意の方向性にせよ、

社会の雰囲気(いわゆる世論といわれるもの)にせよ

意志を表明した人たちの声が基調になって形作られていきます。

それは、当然、そうなるしかないのですが、その背後で表明されていない

いわゆるサイレントマジョリティな意見が、かなりありえるとしたら

そのような合意形成のあり方は、

そこに集う人の実態を反映していないということになります。


会議では、声の大きい人の意見が通りやすい、とよく言われますが

それは、いったん声を大にしてはっきりとした意見が投げ込まれると

それに追従する意見は言いやすくなり、それに反する意見は言いにくくなる

という心の動きによるのでしょう。

であれば、早い段階で、大きな声ではっきり意見を言うと通りやすくなる

と言えるかもしれません。

その他の意見を持つ人たちは、自分が少数派だと思い込んでしまって

意見の表明を控えてしまうので、声の大きい人の意見が主旋律になりやすいですから。


少数派に思えたら、実は、同じように自分が少数派だと思い込んでいる人が

思いのほか多数存在するのではないかと冷静になって

自分の意見を場に投げ入れてみるのは、話しあいを有意義にするにあたって

とても大切な姿勢であるように思います。


その投げ込み方が、そうでない意見を否定してかかるようなものであれば

不毛な論争になりますが、話しあいとは、不完全な視点を持つもの同士が集ってするものだ

という地点から、やんわりと投げ込みあうことで

それぞれの意見の角が取れるだけでなく、つながりやすさ、融合しやすさが増し

AかBか、という競合ではなく、AとBからCを生み出す

という創造へと道がひらけていくはずだと思います。